世間の騒ぎを別にすれば…今はいい季節だとも言える。汗はすぐびっしょりかくけど…よく考えたらこれすらとても楽しいことだ。母がよく言っていた…歳をとると汗もかかなくなるんだね…それを思えば涼しいうちにちょっと散歩に行って階段の上り下りをするだけでしっかり汗がかける、これはこの季節ならではの楽しいことなのだ。
現に今朝の涼しい時間帯に布団の上に寝転んで、これを書いていて足元に扇風機を回しているけれど別になくても大丈夫なくらい涼しい朝が楽しめる季節。カーテンをちょっとだけ引いてそこいら中開けっ放しだ…これって5 、60年前の暮らしと同じ。汗をかくたびタオルで体全体を拭う。これも5 、60年前の習慣だ。別に懐かしがっているわけでも何でもない…シャワーを浴びるより簡単にさっぱりできるから…、あ、それに僕がいま住んでいる家は50年前に建てた家だ…それも今の気分に影響しているな。
5 、60年前…嫌なことをさっぱり忘れれば…誰かを羨むことの少ない子供時代だった。例えば昔ホッピングと言う遊び道具があった。友達から借りてやらせてもらったぴょんと飛び乗り両手で取っ手を持ち下の軸に強いバネがある踏板に両足を乗せぴょんぴょんと跳ねる遊び道具だ。フラフープなんていうのもあった。あんな子供騙しなものすぐに廃る、そう思ってあんなもの欲しがる姉のことを眺めてた。あっという間に廃っていくのを見て…母にそんなこと言った覚えは無いのに、、お前の言ってた通りだねと母は言った。流行りものには手を出さない。子供の時から自分の中に決め事を作っていたんだな。今も変わらない。家はまごうことなき貧乏だったのだが、家の中、家の周りはしっかり世間だった。おばあちゃんがいて、通ってくるおじいちゃんがいて、よく顔を出すいとこがいて、姉と兄がいてそして両親、近所のおじさんおばさんがいて、地方から出てきた赤の他人の面倒見の良いお兄さんお姉さんがあちこちにいた。めんどくさいからいちいち、あげないけれども下町には確かな世間があった(今がないと言っているわけではない、もう少し網の目の細かい世間だったかなと言う意味)、確かに周りは世間だった。確かな世間。貧乏なのにある意味豊か。良い時代だったと思える。誰もがそんな時代をそんなふうに暮らせたわけでは無いことを思えばその意味でもぼくは幸せだったのかなぁ。、、守られていた自覚がある。見守っている人がいる。一挙一投足を見守っていたおばあちゃんは口うるさかった、箸の上げ下ろしにだ。おかげで箸の上げ下ろしにうるさい人間になれた?!見守る人が多いほどきっとそれは安定した世の中だ。わかりきったことを言ってしまい、ちょっと恥ずかしい。
名のある人が残した日記を見ると…昨日は特に何もなし…などと書いてある箇所があったような気がする。それはつまり…とても平和で幸せな日だったことが多いのではないだろうか。昨日もきっとそんな日だった。特に書くことがないのでこんなことを書いてしまった…。
(昨日は実はずっと本を読んでいて細かい字の400ページを昔みたいに読み飛ばそうと思ったけどそうは都合よく頭が回らない…はっきりってこれにはかなり焦った、焦った様子はどこかに書いた、今見たら昨日書いていた、書いておいてよかった! 焦った様子が手に取るようにわかる(これからもこうやって焦る場面はどんどん増えていくのだろう、こうやって慣れていこう…これも多分正常な老化だ)。悲しいことに、新しいことをだんだん受け付けなくなってきている…それももちろん200%!間違いないことだろうけれど…もう少しあがこう、というか…これはもう格闘に近い、あはは)
10年ひと昔、50年なら・・・とにかく半世紀は長い。ホッピング、フラフープ、なぜだか流行り始めてすぐにわが家に登場しました。今思い出すと、子供がよそ様の遊び道具を羨ましそうに見ることがないように、という親の余計な気づかいからだったようです。本当に余計。だって私はどちらも全然欲しくなかったから。庭にほったらかしにして、近所の子が来て勝手に遊んでた。
流行り物には手を出さない。もしかして、そういう性質が古典に目を向けさせるのでしょうか。
まだ14,5歳のころファッション雑誌を読んでいたら、さる服飾批評家が「何年も前の古い雑誌に載っている服を見てそれがちっとも古びた感じがしなかったら、それは流行に左右されないデザインだということだから、そういう服を誂えるといい」って書いていました。大人になってから、服を買うときの一つの目安にしています。(これは結構成功していて、こちらで35年前、30年前に買った服を結構着ています。単に流行に鈍感なだけ?)