阿川弘之自選作品ーII:魔の遺産 夜の波音:新潮社1977年10月刊
シッチャカメッチャカな僕の読書法を泥縄式と言ったら…芋づる式と指摘してくださったのはクレマチスさんです、今回も人づてによる、その芋づる式のおかげで、ご近所に住む養蜂家のKさんからこの本をお借りすることができました。芋づる式でなければたどり着けなかった本、原爆投下後の8年後の現実が読んでいて辛い。親戚が広島出身の亡くなった知人に導かれ、身近な体験のような気にもとらわれました。広島に縁のある著者はこの本を書かずにはいられなかったのだと思いました。当時の状況から日本で発表する事は拘束があったのでまずは英訳を通じて発表されたようです。
今日の早朝から読み始めたのですが、疲れが溜まっていたせいもあり、とてもじゃないが胸苦しくなって、読み進められないので一旦打ち切り、明け方、暗いうちから散歩に出かけ戻ってきて、日本酒一杯引っ掛けてまた読み始めました。創作の形をとってはいますが、ドキュメンタリーとして読みました。酷いと言う言葉が空々しく聞こえるくらいな状況は地獄そのものなのにその場に居合わせた人がいたという事はどういうことでしょうか。アウシュビッツのガス室の中にいながらにして、レポーターをやっているようなものです、一瞬にして気を失っていくガス室のそんな自由すらありません、僕はよくこの記録を残してくれたと思いました。その状況をここで再現しても意味はありません。体験するしか意味は無いのです。つまりやすやすと想像を超えていくからです。と言うわけで芋づる式の得意わざ、後は想像してください(えー!と驚かないでください、ぼくは読まずにはいられませんでしたけど読みたくない方もいらっしゃるという事が最近わかりましたので)
でも、克明な記述を除きざっとその一部を紹介さしていただきます。
文筆業の野口は、原爆投下のハ年後の広島の取材を頼まれる、取材が進むにあたって原爆投下直後の被害者の証言が淡々と語られていく。広島にあるABCC(原子爆弾障害調査委員会: Atomic Bomb Casualty Commission)を訪れ取材が開始されるが、治療を目的としていないその施設、つまり原子爆弾による人体への影響を調査するという特化した研究施設からは、従事する日本人の医師からも十分な取材ができない現実に直面する。アメリカ側の内部管制が敷かれているためだ。
市内に被災者を訪ねて歩き、その取材記事を読むうちに、ガス室に送られて絶命させられる同じ部屋にいてレポートを聞いているような感覚に陥った。原爆投下後、気を失う、絶命すると言うレポートでない、時々刻々展開する長く引き延ばされた生き地獄を想像してください。
アメリカが設立した原爆のその後の被爆した患者の治療するためでなく、研究をするためだけに設立した施設に働く日本人医師たちや市内に生き残った人々たちに文筆業の野口が取材を進めて行くなかで、野口の甥の健が白血病でなくなるまでも母親の苦しみとともに語られていく。
一方、8年後の広島はすでに着々と復興が始まっていて原爆の傷跡を探すのは困難な位、という記述にぼくはっとしました。原爆投下の8月6日からまだ8年後の記述であるにもかかわらず8年前の原爆投下が既に歴史!になりつつあることを感じた…もちろん東日本大震災の風化についても考えざるを得ないが、その前に当事者意識の限界も白状しなければならないですね。(それを補うために体験をバーチャルリアリティー化することの可否と適否など極めて今日的な問題が、突きつけられていると思いました)
45ページ
それは銀行の、低い幅ひろい御影石の石段の片隅で、木柵で囲ひがしてあった。影は年月と共に薄れたらしく、うっかりすると見逃しさうだが、注意してみると薄暗い一尺平方ほどの痣が残っていた。八年前の、八月六日の朝、誰かが此所へ腰を下ろしてゐたのだ。中略、、
其の人影の痣を眺めてゐると、どんな空想も可能なわけであったが、彼の頭には一向気の利いた小説的想像は湧いて来なかった。そして彼は、此所でも、こういふものを「見物」して歩くといふのは、どういう事なのだらう、と、そんな事が考へられてならなかった。古代の人なら、此所へ跪いて、烈しく祷ったかも知れぬ。彼にはしかし、大方の見物人と同様、そんな事をする気持ちの持ち合わせも無かった。後略
(単なる内容の類推にもならない尻切れトンボに終わってすいません、後はご自分で当たってください)
本の最後にあった短編「夜の波音」は、著者の伯父(Kさんのお血筋) 七回忌の法要の折に小説の着想を得たということが著者自身によるあとがきで分かりました。
物語は… 亡くなった父の料理屋で働いていた弟子の一人(浜村)がその後、独立して大手の料理店の料理長(妻帯者)になり、その後も彼は以前の親方姉妹の姉(未亡人、槇江)に彼女の家の新築まで力を貸す間柄でもあるという長い伏線があり、、
さて新築のお披露目も兼ねて七回忌、無事法事も済んで大阪に嫁いだ妹(和代)と久しぶりに枕を並べて寝ている場面、妹はなんとなく若やいでいる姉(一人息子の昭夫は大学生)に向かって、それとなく、今は料理長となっている父の弟子との仲を聞き、関係を知る、泣く姉。妹は…姉が子供時分から今は料理長となっている父の弟子になついていたことをもちろん知っているし、独り寝の寂しさも理解している、、、366ページより引用
「いいわよ、いいわよ。昭夫さんだって、もう少し大きくなったら、きっと分かってくれる。大阪で、ややこしい辛抱は出けても、淋しい辛抱は出けへんて言ふの。お父さんが死んでから七年間、どんなに姉さんが淋しかったか分かるわ。くよくよするのよしなさい」和代は受け身になってしまって、そんな風に言った。
中略…
「あした東京へ出ましせう」和代は言った。「歌舞伎が駄目ならシネラマでも見ませう。そして、お父さんの憶ひ出に、どこか美味しい店で西洋料理を食べるの。それから太作さんのお墓へ詣って、貴方が戦死なさってから、ニ十年貞女を通して子供を育てて来ましたが、ふとした事から目下一寸浮気中です、いずれお傍へ行く時には一人で参りますから、暫く勘弁して下さいって、お詫びして来なさい。さうしたら気持ちがさっぱりする。太作さんだってやっぱり許してくれるわ」
「いやねえ」槇絵は恨めし気に言って、涙の中で微笑んだが、又あとあとから涙は枕へ流れ落ちた。後略
(この話のオチ、浜村の妻の気持ち微妙ですが…時代背景を考慮に入れても…ややこしいのでこの話も打ち切らせていただきます😌)
いえ、迷惑時間なんて全然ありません。もうそろそろ寝ようかな、と思ってその日の最後のチェックをするとき、日本はまだ明け方だから何もないだろう、と思っているといちまるさんのコメントを見つけてハピー・サープライズとなることも。
そうそう、ワルツはすっと頭に入って口ずさみやすいんですね。ときどき知らないうちに歌っているのが「愛国の花」、作曲は古関裕二です。歌詞がいかにも軍国主義的なので(全部じゃないけど)みんな控えているようですが、ホームを訪ねてこの歌の話をすると90歳を過ぎた方々はみなさんとても喜ばれます。美代子母さんもお好きだったかもしれない。
日本女性を花に譬えて、一番が山桜、二番が梅、三番が椿で四番が菊。
「勇士の後を雄々しくも」とか「銃後に励む凛々しさは」など、オットットと思う部分もありますが、最近特に気に入っているのは「老いたる若きもろともに 国難しのぐ冬の梅」という歌詞。そう、今の状況は国難というより世界難なんですね。冬の梅のように耐えてこの時期を乗り切ろう、なんて、意気込みだけはまだ残っているみたい。