死刑について:平野啓一郎著:岩波書店2022年6月刊
薄い本なのでうかつに読み出して30ページでパタっと本を閉じました。待て待てそもそも僕は死刑についてどう考えていたか読み進める前にちょっとチェックします。
殺人に対する量刑は、法律の運用について過去の事例とか判例を鑑み所定の手続きを経て断が下されます。それはそれとして、裁判官や弁護士に任せておけば良いという問題では無いことは、最近の一般人の裁判員参加を見ればその一端が窺われます。つまり一般の僕らも死刑について考えなければならない。遅きにすぎる。
(この本の帯書きは死刑制度を存続させることの意味を問うと僕には読めます(:死刑を存置することで、社会は何を失うのか。)ので、図書館にリクエストしたところかなりの人が既に貸し出しを待ち受けていましたので借りるのを諦めて取り寄せました)
死刑制度は、確信犯には見せしめにならないだろう。殺され損。振り回されるのは周り。被害者家族と加害者家族。彼らを守るのは社会の責任だろう…守り方に社会の成熟度が示される。そこまでも何とかわかる。確信犯が実行後、改悛した場合、改悛しないまでも司法取引が絡む場合、犯人がそれに応じた場合…専門家の出番だ。おいおいそれでいいのか。
この本の問題提起はそういうことでもなさそうだ。社会的無関心を弾劾するかもしれない、著者自身を含めて。でもそれだったら石川五右衛門がつとに指摘している。盗人の種…つまり世の中は昔から不条理、うがちすぎ?
石川や浜の真砂は尽きるとも世に盗人の種は尽きまじ(いしかわやはまのまさごはつきるともよにぬすびとのたねはつきまじ)
当人を「処分」すれば良い問題ではない…恥ずかしいけれど…僕よりもずっと若いこの小説家の言い分を聞こう😌薄い本ですが回覧にいたしますのでご一読を。
(だいぶ前に女性の法務大臣が絞首刑の現場に立ち会ったというニュースを聞いたとき…何のために…と僕は一瞬考えました。処刑について最終的な断を下した責任からなのかどうか分かりませんがそれにしても報道のされ方が問題のはぐらかしと当時感じたのだと思います。
北朝鮮の為政者が見せしめのために自分の親族を酷い方法で殺害する現場を幹部(取り巻き親族)連中に見せたといううわさともダブりました)
(※私用メモ:
①誤捜査による冤罪②犯罪者の環境不備放置は社会的責任→行政立法の不作為(37ページ)
③人を殺してはいけない、、共同体の規範の逸脱者でも、共同体の一員である④死刑は犯罪抑止効果がない、それどころか犯罪を誘発する原因)
58ページ
死刑を求めないということと、犯人をゆるすということは、一度切り離して考えるべきでしょう。犯罪に巻き込まれた被害者が死刑を求めないからといって、犯人をゆるしたと考えるのは短絡的です。また逆に、犯人をゆるせないなら、死刑を求めて当然だと考えるのも同様です。いずれの場合も、被害者の側に勝手な思い込みを押し付けています。被害者に「ゆるし」までただちに期待するのは、過剰です。
だから、もし僕の家族が犯罪によって殺されるようなことがあったら、僕は犯人を一生ゆるさないかもしれない。でも、僕は死刑を求めません。これらは両立可能なのです。引用以上
63ページ
「ゆるし」と「罰」が持っている機能
ドイツ出身でユダヤ人の思想家ハンナ・アーレントは「人間の条件」(1958年)の中で興味深いことを語っています。「ゆるし」と「罰」は正反対の概念に見えるが、第三者が介入しなければ終わることのない復讐の連鎖を止めるという機能においては、同じ意味を持っているのだ、と。
復讐心を抱いて、相手を憎み続けるというのは、際限もなく生のエネルギーを消耗させます。被害者は、その人生の喜びから遠ざけてしまうことになります。そうした中で、この憎しみに終止符を打つものとして、「ゆるし」と「罰」があるとアーレントは考えたわけです。
そして憎しみを終わらせるものとして、「ゆるし」の機能に人類で初めて気づいたのがナザレのイエスであると彼女は論じています。引用以上
65ページ
実際には、犯罪被害者の中では、死刑制度がある以上、加害者が死刑になることを望むという人の方が多いかもしれません。でも死刑を望まない人もいます。むしろ、生きて罪と向き合い続けてほしいという考えもあります。しかし、そうした人たちの声は、社会の無理解によって抑圧されてしまっているのです。多様性を重んじましょうと言いますが、それは被害者の心についても同様なはずです。引用以上
70 〜71ページ
もし、皆さんが殺されて、あの世から残された家族を見守っているとします。その時、家族の周りにただ、犯人への「憎しみ」にだけ共感する人たちが集まり寄っている様が見えたとして、それは本当に喜ばしいことでしょうか?子供の受験もある。妻、あるいは夫の収入面の不安もある。本当に必要なのは、そういう生活面の心配を共有し、手助けしてくれる人たちの存在ではないでしょうか?家族は犯人を憎み続けるかもしれません。しかし、せっかく一度しかない人生なのだから、もっと楽しいこと、心安らぐこと、美しいものに触れること、何もかも忘れて好きな人と一緒にいること……そんな時間の使い方をしてほしいとは願わないでしょうか?そして、そのための手助けをしてくれる人たちが集まって、優しく気づかってくれるとするなら、それは憎しみの連帯よりも望ましいことではないでしょうか。引用以上
101ページ
抽象的な言い方になりますが、僕は国家に優しくなってもらいたいと思っています。日本の国家は今、人に優しいとは言えません。政治の世界でも、人事権などを通じ、罰を与えるという恐怖心をもって、相手を従わせようとする姿勢が散見されます。
こうした発想は社会にも蔓延しており、プレッシャーがかけられる一方で、自己責任が強調される殺伐とした、生きづらい社会となってしまっています。そして、恐怖心による支配の究極が、死刑制度です。
人間に優しくない社会は、被害者に対しても優しくはありません。むしろ、被害者への共感を犯人への憎しみの一点とし、死刑制度の存続だけで、被害者支援は事足れりとしてきたことを、私たちは反省すべきです。どのような支援が必要なのか。それを考えるためにこそ、私たちは、憎しみのみの連帯から離脱し、被害者の多様な生活支援を真剣に考えなければなりません。引用以上
(著者は慎重な書き方をしてくれてよかったなぁと思いました、被害者の気持ちを考えろという意見が実は被害者の家族と被害者本人の気持ちを考えていなかったことにしっかり気づかされます。EUでは死刑制度の廃止が加入条件になっている。だから日本もという発想ではなく、死刑制度をなくした場合の事についての議論を先取りして盛り上がらせることも必要だと思いました、この本は制度の運用者だけでなく一般の僕らの固定観念に揺さぶりをかける良い本だと思いました。一時的に犯罪者を目の前から「ないこと」にしてもその種が尽きないとしたら「種」そのものに関心を寄せていかなければならないことがわかります)
近年死刑廃止への動きが(幸いにもまだ)一部の人達の間で活発になっているようですが、これはほとんど報道されないものの、欧州のいくつかの国ではむしろ死刑の復活を求める運動も出てきています。特に極右とか保守派というわけではなく、普通の市民が日常の会話の中で「こうも物騒な世の中になると、死刑を復活させるしかないな」という意見を述べていると、これは在欧の日本人の何人かがブログに書いているのを見ました。
国民は優しいが国家は優しくない、と言ったのはタゴールだったか。それはそうです。国家の義務は国民を守ることにあり、大勢の罪のない国民を少数の悪漢(えらく古い言葉!)から守ろうとすれば、犯罪者、つまり法を守らぬ人々に対しては冷厳にならざるを得ない。
死刑には殺人防止の効果はあります。世界各国の国民人口に対する殺人事件の数を比較すればそれは明らかです。70数か国の比較で確か日本は3番目くらいに少なかった記憶があります。(それより少ない中にモナコがあって、ちょっと苦笑してしまいました。モナコを旅した知人が言っていましたが、この公国では20メートルごとに警官が立っているんですって。博徒を守るために。お金のある国はこんなこともできるんですね。)
だいぶ前に、殺人を犯した若い人へのインタビューがあって、みな18歳以下でしたが、死刑にならない年齢で殺しておきたかったというようなことを言っていました。死刑になるなら殺しませんか、という質問には、そりゃそうさ、19才になればもうちょっと慎重になるよな、という答えでした。死刑が殺人行為のブレーキになっていることは、しっかり調査をして統計をとれば疑いの余地がありません。
私は保守派ですが、若いときから国は生活保護や援助金や手当を国民にはずむより、とにかく普通の人間が安全に安心して暮らせるようにしてほしいと思ってきました。年を取って、それだけで弱者となってしまった今は、この安全への要求は強まっています。医療制度や年金制度で最低の暮らしが保障されれば(戦後の赤貧洗うがごとき暮らしは見聞きしているだけでなく一部経験もしたので、私の要求レベルはかなり低いはず)、国に財政援助などしてもらわなくてもよい、しかし自分の生命と僅かな私有財産とは守ってほしい。それこそが国家の存在理由ですから。
死刑を一種の報復として続けることには無論反対です。死刑にしたからと言って殺された人が生き返るわけではない、などと子供に説教するようなことを言うつもりは毛頭ありません。
しかし世の中には、例えば90年代に世間を揺るがした「酒鬼薔薇聖斗」みたいな人間の皮を被った生き物もいるし(今もどこかで普通の暮らしをしているようですが)、一度殺してしまえば、ええ、ままよ、と連続殺人で死刑になった永山則夫のような人物もいます。
これらの人々がこの世に生まれないようにすることはできない。しかしだからと言って彼らの暗い本能でこっちの命が奪われてはたまらない。そしてこういう犯罪者を教育・再教育で立ち直らせることは、まずもって不可能です。
人道主義や宗教の教えで命の尊さを認識させることも、多くの場合に効果はありません。それについて、信条や倫理で殺人や強盗や詐欺を思いとどまらせることができないなら(実際できないのですが)、「取引の論理」で行くしかないと言った学者がいました。つまり「お前は殺されたくないだろう、だったらお前も殺すな。それでも殺すなら、自分が殺されることも覚悟しろ」というわけです。社会生活においても「抑止力」は必要です。
これは極めてプラグマチックなアプローチで美しくも優しくもありませんが、実社会を守る有効な方策ではないでしょうか。
死刑の現場を見た法務大臣のことは知りませんが、今の法律のもとで、つまりある条件下で死刑が定められている法律を守る立場にある人が、死刑を目撃することは、感情面では不快感を催させても、大臣として矛盾する行為ではないと思います。
私はそれより、歴代の少なからぬ法務大臣が、既に死刑が確定している囚人の死刑執行文書に判を押すことを避けたり引き延ばしたりしてきたことの方が問題だと思います。自分が死なせたと言われたくない。合法的な形でも「殺人」には関わりたくない、これは普通の心理として分かります。しかしそれならなぜ、死刑が認められている国で法務大臣になったのでしょうか。大臣の職は欲しい、でも夢見の悪い押印はしたくない。なんと卑しくあさましい生き方でしょうか。
後藤田という政治家だったか、法務大臣になった途端、それまでの卑怯な前任者のおかげで溜まりに溜まっていた死刑執行を短期で実施して大きな非難を浴びましたが、彼は任務を果たしたわけで、これによって刑法はただの飾りではないことを示したわけです。
これらダブルスタンダードの法務大臣のような卑怯者はどの世界にもいますね。話が飛びますが、末期の病で苦しんでいる人や、もはや生きることを望まない人に対して、自分が少しでも手を貸すことを嫌がり、結局は患者の苦しみを長引かせるだけの医療従事者とか。自分の良心が痛まなければそれでいい、というなら、そんなのはもう、良心と呼ぶには価しないのではありませんか。こちらはちょっとまた別の議論になりますが。