ベラルーシの林檎:岸惠子:朝日新聞社1993年11月第1刷発行
図書館のリサイクルコーナーに置いてあった本です。有名な女優さんの旅行記を読むようにうかつに読み始めて、1人の人間の足跡がそんな気楽なものでないことが読み進める少しずつわかってくる。理解が進めば、著者が日本から受けた差別的な災難もリアリティーを持ってくる、それに伴い情緒がシンクロした分、どっと疲れるいつものパターンです。
ベラルーシの林檎、、の項、この本のタイトルにもなっているエピソードは著者がNHK衛星放送の東欧特集の取材先での出来事に由来しています、1989年のベルリンの壁の崩壊の少し前の取材先、ポーランドは聖ペテルブルク・エクスプレスの車中での出来事
178〜 179ページわ
「聖ペテルブルク・エクスプレス」は渺漠(びょうばく)とつづく大草原を、まるで時の流れなど何ほどの意味もない、とでも言いたげに、ゆったりと走る。
時の止まった空間を、1つの世界からもう一つの世界へわたるように、悪臭や空腹にもほどよく馴染んで私自身もゆったりと揺られてゆく。
隣のコンパートメントから賑やかな笑い声が聞こえてくる。
人間より荷物の方が多い、その隙間に割り込ませてもらうと、あちこちから、ビスケットや、舌はも歯も真っ赤に染まってしまう、やけに甘い果汁をすすめてくれる。みんな自家製だそうで、ワルシャワのホテルを朝6時に出てから、朝食はもちろん、昼食さえとっていない空っぽの胃袋に、これらの飲食物が、まことにわびしく、けれど妙にねっとりとしたリアリティーをもって落ち着いてゆく。
何を話しているのか、たっぷりとした肉づきの数人の女性たちには、辛い時代を通り越し、今も通り抜けきれないでいる人々の、吹き抜けたような明るさと哀しみがある。
78歳だという長老格のおばあさんが、陽気な仕草で、合財袋(がっさいぶくろ)から大事そうに、ひどく不器量でしなびたリンゴを取り出し、くるくると回しながら、スプーンで掘るようにして、
「ロシア式食べ方よ」
と伝授してくれる。
「ナイフで皮をむいてはダメよ。栄養が逃げてしまうわ」
ほんとうに薄紙ほどの皮を残して、小さなリンゴを半分だけ食べ、残りはその薄皮で蓋をするように包み、また大事そうに合財袋の底にしまった。引用以上。
本の始めの方で、著者12歳の時の横浜空襲の中に生き延びた記録が印象的でした、B29が横浜に雨あられと焼夷弾を落としたとき…命拾いしたのは…大人たちが勧める防空壕に入らなかったこと…あんな暗い中で死ぬのは嫌だ…とばかりに著者は木によじ登ったそうです、防空壕に入った子供たちは焼け死んだ。一見鼻っ柱の強そうな著者の印象はそんなところにあったのかと思いました、単純な僕。
30年前の思い出話であることもあり、安易な引用が難しいのですがいまだに解決がつかずさらに今後の波乱含みの2000年間未解決のユダヤの民に言及した次の、黒い狂気、と見出しがつけられたページのから引用しておきます。この当時、著者は日本のテレビ朝日から当時のイスラエルのシャミール首相インタビューの仕事を引き受けています(事前に不用意にイスラエルに踏み込んだ著者を含む報道クルーは肌を露出しないという事前警告の戒律に抵触し人々から半殺しの目に会う)。イツハク・シャミール首相、インタビュー当日…応接室に入っていてすぐシャミール首相から声をかけられる、、
160 〜162ページ…
中略…
「襲撃事件は、ほんとうに災難でしたね。なんともお気の毒でお詫びしたい気持ちです。怪我はありませんでしたか?」…中略…
「大丈夫です。私たちが不注意だったのです。おそろしかったけれどいい体験をしたと思っています」
「そんな体験はしないに越したことはない」
「私たちも二度としたいとは思いません」…中略…
中東和平について彼は苦渋に満ちた、重い口調で切々と訴えるように語った。内容は3年前とほとんど変わらない。変わりようがないのが悲劇なのである。このときからさらに2年経った1993年5月現在も、首相は変わったが中東和平はまだまだ遠い。
「私たちは今、何千年も前から私たちの領土である、この小さな小さな土地やっと帰ることができたのです。アラブ人には広大な領土がある。私たちが欲しいのは、たったこれっぽっちの小さな土地で、その中で平和に暮らしたいと思っているだけなのです」
「でもその小さな土地を、やはり我が家と思っているパレスチナ人もいるわけですね。この2年間、世界は激変しました。この辺でお互いが譲歩して和平へこぎつけないと……」
「これはイスラエル対パレスチナの問題ではなく、イスラエルとアラブ世界全体の歴史的紛争なのでしょう。今私たちはアラブと一緒に暮らす準備もできています。肝心なのは話し合いの場なのです」
「では、なぜ、PLOのアラファト議長との交渉を拒絶なさるのですか」
「PLOが望んでいるのは、我々との和解ではなく、イスラエルという国家の解体です」
「素人の私には、アラファト議長も必死で、平和を望んでいるようにみえますが」
「彼が望んでいるのは我々抜きの平和です。イスラエルの平和は墓場の中にしかないと思っているのでしょう。だいいち彼は湾岸戦争でフセインの支持に立ったじゃありませんか。打倒イスラエルを主張するフセインのです」
そのことについて、あるいは過去のさまざまな不幸なゆき違いについて、アラファト議長はパリのテレヴィ・インタビューでこんな風に語っていた。
「私がしていることを、あるいはしてきたことがすべて賢明であったとは思っていません。私も生身の人間です(過ちを犯すこともあるのです)」
私はその言葉に感動した。シャミール首相は続ける。
「湾岸戦争が終わったとき、この地域にもやっと平和がやってくると、私は希望をもったものです。世界中が暴力からは何も生まれないと悟ったのです。しかし、残念ながらフセインは依然として存在し、状況は少しも変わっていません。ここのパレスチナ住民も、我々も、もう暴力行為はたくさんなのです。お互いに荒廃して行くだけです」引用以上。
この後、歴史的なイスラエルとパレスチナの握手に関して著者は最後のあとがきの追記で語っています。301ページ、、
追記。
今、まさにペンを置こうとしていたとき、私にとっても世界の人びとにとっても信じ難いことが報道されはじめました。
「ガザ」と「エリコ」の暫定自治!
イスラエルとパレスチナ解放機構(PLO)の相互承認!
そして(※1993年)9月13日ワシントン時間の正午、腰の銃をはずしたヤセル・アラファトPLO議長をが清濁合わせ呑む、という風な人を惹き込む笑みを浮かべて先に手を差しのべ、一瞬とまどった硬い表情のラビン・イスラエル首相がついに宿敵パレスチナ・ゲリラの首領アラファト議長の握手に応じた数秒間、ホワイトハウスに集まった観衆がどよめいて拍手に湧き、私はひとり、テレヴィの前に起立して、あふれ出る涙とともに、手が痛くなるまで拍手を送っていました。
イスラエル独立から45年、ドレフュス事件をきっかけにテオドール・ヘルツルが起こしたシオニズム運動から100年。
両者とも、この調印に反対する過激派という爆弾を抱えての勇気ある和平への第一歩。まさに歴史的一瞬でした。
こうした革命的な政治上の裁決が、両者のこころに宿る怨嗟や憎悪で血塗られることのないように、心から祈りつつ、祖国なき人びとの辛酸を書き綴ったこの本の頁を閉じます。引用以上
(その後の30年間のこの件に関する推移は各自ご確認下さい。2000年来の懸案、今世紀中にどう着地するのか、あるいは次の世代がどういう決着を望むのか、まともに考えれば…争いを収拾させる方向に向かうべきですよね)
へーそうだったんですね…晩節を汚しましたね、地が出てしまった、と言うことでしょうか。もう出る幕はないと、演技を降りた、出演料をとっていくところが抜け目ないですね。