全世界史 出口治明著:新潮文庫2016年7月刊
王侯貴族の利権の分捕り合戦、フランス革命の意義と影響、ナポレオンの功績、連合王国(イギリス)の中枢がドイツの系譜で占められていたこと、その後のヨーロッパの思想の変遷…全て割愛します。
西洋の没落ならぬ…東洋の没落とも言うべき連合王国の仕掛けたアヘン戦争による中国の疲弊と負の遺産も、、、過去2日前フォーラムに一気にアップした僕の記事は右上のくるくるマークが30分たっても消えず…それでも辛抱強く何度も何度も繰り返しアップし続けていましたが…僕の方がギブアップ…何かの拍子にきっと全文のコピー状態を示す薄膜のまま…「デリート」:消去動作を押してしまったんだと思います、一瞬にして正味丸一日分の仕事がパーです、あはは、🤣😔🧐😞😩🤬😞さて、気前よく省略した後は…飛ばし読みした後半のエピソードをいくつか拾って、お茶を濁すことにします…(ふざけるなと怒った方…お怒りごもっともです…ごめんなさい)
275ページ(※は全て僕のコメントです)
アメリカが(※大西洋ルートで船賃が加算されるやりたい放題の
)連合王国に勝つためには太平洋横断ルートを開くしかありません。地球は丸いので、アラスカ、ベーリング海、日本、中国へと行くルート、これがいちばん近い。現在の飛行機のルートも同様です。もし、このルートをアメリカ商船が使おうとすれば、交易の中継地は日本しかありません。つまりペリーの来航目的は、かつて一部でいわれたように捕鯨船の基地が欲しかったのではなく、米中交易のために日本の開港が必要だったからです。
ペリーの強硬な交渉を若き老中、30代半ばの阿部正弘が受けて立ちました。世界の情勢を熟知していた彼は1854年に日米和親条約を結びます。そして函館と下田を開港しました。この阿部正弘の決断は200年以上も続いていた鎖国を断ち切ったわけですから、たいへんな英断であったと思います。時代が大きく動くときの判断は、年寄りの知恵だけでは心もとないものがあります。初めての事態に思考が止まりがちになるからです。阿部正弘は若くして亡くなってしまうのですが、これ以後の明治維新に登場してくる人物もほとんどが若人ばかりです。
276ページ
日米和親条約が結ばれた年に、ニューヨークの小さなろうそく工場主アントニオ・メウッチが電話を発明しました。ただ貧しくて特許料が払えなかったのでメウッチに代わって1876年に特許を得たグラハム・ベルが、電話の発明者となってしまいました。引用以上。
280ページ(明治維新が1ページ半で総括されています!)
アヘン戦争に教訓を得た徳川幕府は、鎖国から一転して開国・富国強兵路線に転換し、1858年に大老井伊直弼の英断により、日米修好通商条約など安政5カ国条約を結びます。そして1860年、条約批准書交換のため遣米使節団をワシントンに派遣、同時に咸臨丸(勝海舟艦長)が米国西岸との間を往復しました。
このあと日本は、薩長連合、大政奉還、倒幕・明治維新へと新国家建設にひた走ります。この明治維新を大局的に捉えれば、次のように言えると思います。
信長の時代の日本のGDPシェアは、世界の4〜5%前後であったのに、鎖国の間にほぼ半減してしまいました。したがって明治維新とは鎖国の200年の間に大きく落ち込んだ日本を、もう一度取り戻そうとする運動であったのではないか。
ところで明治維新のとき、なぜあんなにもろくも幕府軍は負けてしまったのでしょうか。ひとつの理由としてアメリカ総領事ハリスによる砲艦外交で、日米修好通商条約の条文に、実勢と大きく異なる金銀の交換比率が盛り込まれたことがあげられます。その悪影響を理解していた幕府が懸念したとおり、条約締結後、外国人はハリスを先頭に、大量の銀を日本に持ち込んで金に替え、海外に持ち出しては3倍の銀に交換する行動に出ました。やむなく幕府は事態収拾のため金貨・銀貨の改鋳を行いましたが、それが今度はハイパーインフレーションをもたらし、幕府の財政破綻を早める一因となってしまったのです。
当時の日本には、幕府という国営会社がありました。その会社のお金(小判)が大量に流出していけば、社員の給料も滞ります。その社員とは旗本や御家人でした。食うや食わずでは薩長軍に勝てるわけがありません。こうして幕府は戦わずして敗れました。
尊王攘夷を旗印にしていた薩長連合は、大久保利通の英断で尊王開国・富国強兵路線に衣替えして、欧米列強のあとを追うことになります。引用以上。
近代化へ歩み始めた日本…の項
を引用してこの本のご紹介100ページを残して終了させていただきます。456ページの終章から著者のメッセージの一部を引用しておきます。
僕はこの本からたくさんのヒントと啓蒙を受けました。ご一読をお勧めいたします。
302〜303ページ
1867年に日本では明治維新が成功しましたが、民衆を動かしたアジテーションは尊王攘夷という旗印でした。天皇を大切にして外国を排除せよ。それは日本の明日をつくる。この思想は、長い鎖国で外国を知らなかった日本人にはなじみやすいものでした。しかし維新の原動力であった薩長両藩の首脳部は、尊王攘夷の非現実性をよく知っていたので(薩英戦争や下関戦争の教訓)、内心では、幕府の開国・富国強兵路線を評価していました。ところが同じ倒幕派の中でも本気で尊王攘夷を信じている人もいました。彼らが中心となって1868年に神仏分離令が出されました。
日本は神道の国だから、お寺と神社を一緒にしてはいけないというお達しです。日本の神社と寺院は長い間、神仏混淆の形で仲良く共存していました。
ところがこのお達しが出たものですから、尊王攘夷で盛り上がった民衆は、寺院の打ち壊しを始めました。廃仏毀釈です。全国で多くの仏像が壊され寺院が倒されました。この運動は10年ほど続いてようやく収まりました。中国の文化大革命あるいはターリバーンやISIL(自称イスラム国)の歴史遺産の破壊と同じです。
明治政府は矢継ぎ早に、富国強兵策を打ち出しで行きます。1871年、廃藩置県の断行、岩倉具視を正使とする大使節団の欧米派遣。1872年、新橋・横浜間に鉄道開業、官営富岡製糸場の操業開始。1873年、徴兵令公布、地租改正の実施。
1873年、開国交渉を拒否した李氏朝鮮に対して、明治政府内では西郷隆盛を中心に征韓論が生まれます。しかし欧米使節団が帰国して、大久保利通たちは征韓論の無謀を説き、これを破棄しました。このため西郷と板垣退助を始めとして政府の約半数近い人々が辞職します。しかしこの政変によって政府の近代化路線が固まりました。引用以上。
456〜457ページ
将来、世界で何が起こるかは誰にもわかりません。しかし、それに備える教材は過去にしかないのです。歴史を学ぶ意味は、人間がこれまでやってきたことを後からケーススタディーとして学べるところにあります。歴史には、5000年を生きてきた人間の豊饒なケース(事例)がつまっています。それを学ぶことが、これからの人生でいろいろな場面に遭遇したとき、何かの役に立つのではないかと思います。
人間の脳はこの1万数千年、進化していないといわれています。喜怒哀楽も、政治判断や経営判断も同じなのです。そうであれば、物質文明がどのように変化しても、人類が歩んできた5000年史は、これからも変わらずに人間とその世界を語り続けてくれると考えています。
きっとこれからも。
引用以上。
あのね、何でもかんでも文句をつけちゃいけないんだけど、この日本婦道記ね、私そのほとんどを読んだところで、ひどく腹が立ってきたんです。
要するに、ここで称賛されている女って、みんな男にとって都合のいい女ばかりなんですよね。
でも女が望むのも自分に都合のいい男がほとんどだから(三高とか、さ)、文句は言えないか。
日本婦道記、30年位前、友人のお姉さんからこの本を勧められまして…枝折戸を通って?、、みたいな短編があって、尻切れトンボみたいな幕切れに、なんとなく納得があったのを、、今思い出しました…多分とんちんかんな感想になっていると思います…風景だけが思い浮かびます
おっしゃる通り…ありそうでなさそうな「通史」なのですね、これまた納得です。 武士の時代の700年が…ちょっと荒っぽい言い方ですが…防衛のセンスをキープしていた…なんちゃって。年代学…手元に1冊置いておきたいと思いました。
世界史の本なのですが、日本史にもそうとう頁数が割かれているのですね。
実は最近、山本周五郎の短編集「日本婦道記」を読んだのですが、それら11編の話の中には江戸時代末期を背景にしたものがあって、江戸時代から明治というのは、ある日急に日本が開明的になったわけではなく、じわじわと進んで行って、時には後戻りもして、近代日本というのも境界がはっきりしないものなんだな、と感じていました。
一般には1868年が明治元年ですが、それから26年後に日清戦争が起きる。ここでうっかり勝ってしまったのが、その後の日本にとって呪いとなったのでしょう。
鎌倉時代から数えて武士が統治する社会が700年近くも続いた後では、近代の概念に日本人が附いて行けなかったのも当然で、せいぜい鹿鳴館で珍妙なダンスをして西洋風を気取るしかなかった。
歴史学という分野とは別に、choronology(年代学・編年学)というのがあって、これは歴史哲学などという洒落のめしたものを引き出すためではなく、時代の歩みをできるだけ正確に綴ることが目的なのですが、この年代学と丁寧に取り組むことが歴史を学ぶ第一歩という気がします。
何千年という展望・視界のなかで現代を評するには、やはり「通史」をある程度こなしていないと無理。出口さんはそれを悟ってこのようなテーマに取り組んだのではないでしょうか。