全世界史講義I(上巻 )・:出口治明著:新潮社2016年1月刊
この本はびすこさんが触れてらしたので、すぐに図書館にリクエストしていた本です。上下巻、ニ巻合わせて800ページ弱…受験生はこれを読むのだろうか?(と思ったのは…この本に多分次のリクエスト者が入っていたからだと思います、リクエストしているのは時期的に受験生?)コンパクトにまとめられていてマクロ的に一続き世界の歴史の変遷を見る、、そんな企て? 僕だったら読みたい…この本はそういう本だと第1巻の100ページぐらいまで読んで思いました、この本で描かれている直近の人類史五千年のうちの最初のほうの三千年分が100ページまでにざっくりと綴られていたからです(ざっくりとしか書けない…つまり文字に残された資料などが少ない、と著者も、もらしています)。
受験勉強、何するものぞ。大学4年間を体験していない代わりにその4年間を会社勤務した経験から言うと…凡才はOJ Tオンザジョブトレーニングに限る、と思う。細かい事はいいからざっくり学びたい僕みたいなタイプつまり能力よりは体力派?向けの本だと思いました。ところで、この本を読むかどうかで引き合いに出した受験生にこの本を薦めたい、と言うのは、受験勉強を勝ち抜いてゆく人たちが貴重な時間と交換して身に付ける価値があると思ったからです。800ページはコスパが良い。その他大勢の僕のようなものにとっても、役にたつと思います。この本のサブタイトルにあるように「教養に効く!人類5000年史」、少しは教養に効くと思いました😉
(ところで、何でもやります生きていくために、のその他大勢組としては…仁義に悖(もと)らず生きていけば社会の安定成分として役目を果たせる、なんちゃって。この発言そのものも、その他大勢組を引き受ける、安定と余裕の家族経営企業がごまんとあった、なんてこと信じられるかなぁ今の若い人たち…果たして今の日本にそんな会社がいくつあるのか? )
さて、気合を入れて…例によって飛ばし読むぞ!
49ページ
フェニキア人はアルファベットを使ったことでも有名ですが、最古のアルファベットの誕生はBC 1800年代の原シナイ文字まで遡ります。当時、メソポタミアには楔形文字の文化があり、エジプトにはヒエログリフがありました。シナイ半島は、メソポタミアとエジプトの中間にあります。そこに住む人々は、メソポタミアとエジプトの両者と交易をしていましたから、いつも楔形文字とヒエログリフで苦労していました。そこでもっと簡便な文字をと考えて編み出されたのがアルファベットでした。全言語を26文字で表すことのできるアルファベットという人類の偉大な発明は、メソポタミアとエジプトという二大文明がぶつかる辺境で生まれたのです。引用以上。必要は発明の母だ…はいはい次!
第二章…知の爆発の時代(BC 1000年-BC I年) 79〜80ページ
前略…知の爆発と呼ぶのは、BC 500年頃から中国・ギリシャ・インドで、ほぼ時を同じくして数多くの哲学者・思想家・宗教家・芸術家が生まれたからです。人間が考えることのできるほとんど総てのものが、この時代に産声あげたといわれています。
その背景にあったのが、BC 500年頃からの鉄器の普及と地球の温暖化です。このふたつによって農業の生産性が上昇し、世界は一斉に高度成長時代に突入しました。社会に芸術家や知識人を養う余裕が生まれたのです。そして、火山の爆発に前兆があるように、知の爆発にもその前兆と呼ぶべき文化的前史がありました。引用以上。
BC 1200年頃地中海でフェニキアに対抗する形でギリシア人は団結します…ギリシャ・ルネサンス(BC 8-7世紀)。同じ頃インドでは因果応報思想と倫理思想が融合してウパニシャッドが生まれたと、81ページにあります。一方中国ではBC 771年、西周が滅びたが、周の人々が残した青銅器には300年にわたる周の歴史が彫られていた。これが彼らの誇りを支え中華思想を生んだとある、84ページ。
BC500年前後からユーラシア大陸全体にわたって、鉄器が普及し始めます。さらにこの時代は地球の温暖化が進み、人間の活動が東でも西でも活発になりました。鉄器の普及と地球の温暖化、このニつが知の爆発を引き起こしたのです。BC 5世紀、ソクラテスが初めて人間の内面に考察を向け、プラトンやピタゴラスがソクラテスの周りに集まります。ピタゴラスはインドで生まれた輪廻転生を信じていました。またプラトンはすべての事物にはイデアという原型があると考えましたが、彼の二元論は、輪廻転生からヒントを得ているのです。東西の文化的交流の一例です、、とあります(86〜87ページ)。
ギリシア人もアーリア人も牛を殺して食べていましたがそれに反旗を翻したのがゴータマ・シッダールターとマハーヴィーラでした、生き物は殺すべからず。
中国ではBC 771年に西周が滅びた後100から200と言われる都市国家の乱立状態となり、諸子百家を生み春秋時代の思想家、孔子へとつながります、91ページ。
国は有能な官僚が収め、庶民は儒教で親を敬い子供を大切にして、一所懸命働き、みんなで仲良く国を守る。知識人は自由に生きてくださいというガス抜きもあるので、うまく収まるわけです。このバランスは今日まで生きているように思います(94〜95ページ)、、と言われれば僕もそんなもんかなぁと思ってしまいます。もしかしたら日本も中国にならっているのかと考えてみますとご都合主義のプラス面が強調できるかと思いました。
ちょっと長いですが面白い話が載っていましたので96〜97ページ所々引用します
世界帝国アカイメネス朝を作った名君キュロス大王がバビロンを歩いていると、ユダヤ人街がありました。「なぜここに住んでいるのか?」と聞くと、戦争に負けて連れてこられたといいます。
「それはかわいそうだ。もう自由にしてやるから帰ればいい」
というわけで、バビロン捕囚は終わりました。中略、、
エルサレムに帰った人々は不安にかられます。このままでは、ユダヤ人は、寛大で自由で豊かなアカイメネス朝ペルシャの中に呑み込まれてしまうのではないか。そこで、ユダヤ人に自分たちのアイデンティティを自覚してもらおうと、民族の歴史をつくります。それが旧約聖書です。BC 4世紀頃までに成立したと考えられています。
旧約聖書の中でいちばん古い物語は「モーゼ五書」(トーラー)ですが、実はこの部分がいちばん新しいのです。例えば、創世記の大洪水の話はメソポタミアの英雄叙事詩「ギルガメシュ」に出てきます。「エデン」はメソポタミアの地名ですし、出エジプト記のモーゼが葦の籠で流されたという話は、アッカド帝国のサルゴン王の伝説から借りたことは前に触れました。ユダヤ人たちはこれらの話を、バビロンで生活している間に学んだのです。家系図を書くときに、父母から祖父母へと遡るのと同じで、古い祖先の話は最後に(新しく)書かれるのです。
エルサレムに帰った人々がペルシャと言う世界帝国に対して、自分たちのアイデンティティの旗を掲げて、編んだ書物が旧約聖書だったのです。同様の例には、ギリシア人がフェニキア人に対抗して書いた「イーリアス」「オデュッセリア」や、日本の「古事記」「日本書紀」などが挙げられます。引用以上。
(なるほどなるほどなるほどね、こんなもんかな…物語がないと落ち着かないもんな、世の中)
中国王朝の変遷とヨーロッパの民族大移動は端折ります(時間の関係上…😅)
138ページ
預言者ムハンマドがアラビア半島の商業都市Makka(メッカ)でユダヤ教、キリスト教に次ぐ第3のセム的一神教、イスラム教の布教を始めたのは610年です。奇しくもそれは、ヘラクレイオスがローマ皇帝になった年でした。ヘラクレイオス同様、ムハンマドも最初は苦労の連続でした。それでもどうやら、新しい教えを定着させて死亡します(632)。幸運にも彼の意志を継いだ2人のカリフは大変有能な人物でした。(※カリフ:預言者の代理人を意味する)
商人であったムハンマドは軍人としても政治家としても超一流であり、短期間で新しい一神教を成立させましたが、それから数年を経ずに亡くなってしまいます。そしてアブー・バクルがアラビア半島を固め、ウマルがイスラム世界を拡大させるという流れになります、141ページ。
147ページ
イスラムの創始者ムハンマドは商人でした。商人がつくった宗教ですから、合理性を重んじたのです。無駄なことはしなかった。この寛容さがスペイン、北アフリカからインドに至るまでイスラム教が広く受け入れられた理由です。イスラム教を砂漠で生まれた厳しい宗教だ、と考える人は、おそらくクルアーンを丁寧に読んでいないのだと思います。今でも世界中のモスク(礼拝堂)の周囲はだいたい商店街です。
また、15世紀半ばの話になりますが、オスマン朝が東ローマ帝国を滅ぼしたとき、彼らは首都コンスタンティノープルにあったキリスト教東方教会の大本山と総主教の存在を、抵抗しないことを条件に是認しました。現在も東方教会はイスタンブールに本拠を置いています。この寛容さは、キリスト教とは異質なものです。もしもローマにイスラム教の大本山があったら、即時に破壊されていたことでしょう。
(と著者は述べています、クルーアン(コーラン)をせめて聖書なみに通読してみようかな、世界の3人に1人がイスラム教にならんとしている時代ですものね、教養として学んでおいた方がいいかも)
さてこの辺で日本と世界との関係が気になります。158ページ
当時の倭国は、中国や半島から見れば、まだまだ文化の遅れた田舎でした。けれども腕っ節は強かったと思います。田舎の子供がケンカ強いのと同じです。中略、、、
倭国は百済を応援するために出陣して、現在の錦江河口の白村江の戦い(663)で唐と新羅の連合軍に完敗します。そして百済は滅亡しました。
白村江の敗戦は倭国をパニック状態に陥れます。唐から郭務棕という将軍が軍団を連れてやってきました。倭国に敗戦処理を求めるためでした。第二次世界大戦後のマッカーサー将軍のようなものです。難波(大阪)にあった都を大津(滋賀)に移したのも、海からの唐軍来襲を避けたかったのでしょう。中略、、159 〜160ページ
白村江の敗戦ショックに対応をするために、日本は必死に律令国家をつくろうとしたのですが、やがて9世紀後半を過ぎると、唐も衰退期を迎えました。そして菅原道真の進言によって、遣唐使を廃止します(894)。このときから、「国風文化が発達した」といわれています。しかし、人々の本音は、次のようなことだったのではないでしょうか。
「もう、唐はやって来ない。日本は湿っぽい国なのだから、体にピッタリした胡服はやめて、ゆったりした着物を着よう。椅子と机もやめて畳の上に寝転がれる生活がしたいなあ」
大唐世界帝国から長い間受けてきたプレッシャーから解放されて、「やれ、ひと安心」と本音が出た、それが「国風文化」であったのではないでしょうか。引用以上。
引用を続けます、160ページ…女帝・武則天、大唐世界帝国の実力者となる…
唐では明君といわれた太宗が亡くなくなると、高宗が後を継ぎました(649)。高宗は頭脳明晰で美しい妻を皇后に迎えます。武照、後の武則天です。
この女性は、実は高宗の父太宗の後宮にいた女性でした。遊牧民ではよくある風習です。彼女は、おとなしくて体の弱かった高宗を助けました。政治的センスや人を見る目にも秀でていたので、おのずから国政を取り仕切るのは皇后の役割になっていきます。引用以上。
武則天は名実ともに国をまとめていきます。高句麗を滅ぼしたのもう白村江の戦いも武則天の時代です。大唐世界帝国は、太宗と武則天の2人がその土台をしっかりと築きあげたのです、とあります161ページ。162ページも引用します。このような女帝たちの活躍は、必死に唐や朝鮮半島の女性を見つめていた倭国にも、伝わっていたでしょう。当時の唐は現在のアメリカ以上の存在感があったと思います。武則天の活躍を、またとないロールモデルとして熱心に見ていたのは、持統天皇であったのではないでしょうか。引用以上。
ヨーロッパに目を向けて(あー忙しい)8世紀ともなりますとコンスタンティノープルのローマ皇帝とは別に西ヨーロッパには別のローマ皇帝フランク王シャルルマーニュ(カール大帝)がローマ教皇と手を結びます、176ページ。
一方同じくイスラム帝国の反乱軍が起こしたアッバース革命により8世紀にイラン東部に誕生したアッバース朝はフランク王国と共に交易を伸ばし500年にわたるアバース朝の基礎を築いた、181ページ(要するにフランク王国とイスラム帝国はうまくいったということを、、20世紀のベルギーの歴史学者アンリ・ピレンヌは「ムハンマドなくして、シャルルマーニュなし」という一言で表現しました、とあります。182ページ)。
唐は安史の乱(安緑山が起こした叛乱)などがありましたが持ち直してさらに1世紀生きながらえます。184ページの終わりになかなか含蓄のある言葉が→…叛乱は成功すれば革命と呼ばれ、失敗すればな乱と呼ばれるのです。
8世紀末にヴァイキングがイングランド北部の小島にあるリンディスファーンの大修道院を襲いました、、186ページ…で、これからヴァイキングの話を少し取り上げます、と、その前に…
体力知力に優れた英才教育を施したマムルーク(もともとは奴隷として売買された子供)を輸出!したのはアッバース朝に陰り限りが生じ始めた頃、中央アジアに生まれたサーマーン朝(875-999)という大地方政権です、193ページ。このマムルークたちが、これから500-600年にわたって、ユーラシアで大活躍することになるのです、同193ページ。
9世紀初頭にカンボジアにアンコール朝が成立してます、13世紀にかけて作られたボートアンコール・トムや寺院アンコール・ワットは今日まで残されています、196ページ
198ページ…ヴァイキングが活動開始。東はロシアへ、西はイングランド、フランスへ
北欧を出た一部のヴァイキングたち(ノルマン人とも言われます)は交易と海賊行為を繰り返しながら、安住の地を求めました。東のロシアと西のイングランド、フランスに向かったのです。
ロシアに向かったスウェーデンのヴァイキング(ヴァリャーグ)は、伝説のリューリクを首長として、ラドガ湖から上陸して川を上り、ノヴゴロド公国をつくりました(862)。ここにロシアの歴史が始まります。
彼らは道のない土地を川伝いに入っていきます。道がない所は陸路より水路が行きやすい。彼らは小さいボートで川を上り、川がなくなると、みんなでボートを担いで行く。そしてドニエプル川やヴォルガ川を下り、コンスタンティノープルを攻撃して、最終的にはキエフ大公国(正式な国号はルーシ)をつくりました(882)。… 199〜200ページ
10世紀にはヨーロッパの王権(支配層を仮にこう呼んで起きます)は目まぐるしく交代します(といっても例えばドイツでは王朝が100年毎に交代、といったロングスパンの歴史時間の上でのことです)この辺は引用が長くなりますので全て端折ります(と言って年表のようなものは素養のない僕みたいなものにとっては味気ないのですが、面白いとこだけ拾い読み)。
(ここまで読み進めて…世界は昔から攻めたり攻められたりした権力争いの上に歴史が書き換えられ世界地図が出来上がってきたのだなぁとここまで歴史をなぞっただけで偉そうな感想を持ってしまいました、東洋と西洋という分け方も極めて便宜的な世界観だと思いました、早くもこの本の著者によるドライブ(世界は極めて連続的に流動的につながっているという主張?)が僕に効いているのかもしれません、、たった1冊の本でこんなふうに世界観を変える僕の軽薄さを責めないでください😉実は高校生の時に宮崎義一の本1冊読んで資本主義を語ったときに友人からそう指弾されました、たった1冊の本で資本主義がわかった気にならないでよ、と言われました、彼は授業が始まっても屋上で本を読んでいて遅れてきても平気な顔してました、吉川英治の宮本武蔵を夏休み中に読むように重い6分冊いっぺんにどさっと渡されました、意味がわかりませんでしたけど…僕は単純な人間なので周りで気になってしょうがないんだろうと思います、何とか知恵をつけさせようと世話を焼きたがれる対象?)
(ここからは…僕が面白いと思ったトピックを取り上げて前半の「全世界史」講義をひとまず終え、図書館の返却期限が迫ってますので一旦上下巻返却し後はアマゾンの文庫本を取り寄せて次の芋づるに繋ぎ下巻に移る予定です)
222ページ11世紀ユーラシアの温暖化と商業の隆盛、全略。
248ページより抜粋、
10世紀ごろからイタリア半島では地中海交易が盛んになります。一時は地中海の東から西までを完全にグリップしていたイスラム世界は3人のカリフが各地域の王朝に並び立つことも影響して弱体化し、地中海にはイタリア船が目立つようになり、彼らは交易を通じて豊かになり、独立性の強い海の共和国となっていきます。あの有名なピサの斜塔もこの時代の富で建てられたのです。ヨーロッパ最古のボローニア大学も生まれた(1088)。パリ大学やオックスフォード大学がそれに続けと設立されたのは12世紀です、249ページ。
249ページ
少し時を遡ります。
1054年に、南イタリアの教会の帰属を巡ってローマ教皇とコンスタンティノープル総主教が対立します。そして相互に相手を破門しあい、東西の教会は最終的に分裂しました。これを大シスマと呼んでいます。これ以降、ローマ教会が主催する公会議は存続しますが、全宗派が集まれる公会議はなくなりました。大シスマは1965年!に修復されるまで続きます。
254ページ
十字軍とはキリスト教世界にとって、イスラム世界にとって、何だったのか…
十字軍は、この後1270年までの約170年の間に、第7次(数え方によっては8次)まで派遣されます。まともに勝利できたのは第1回のみで、後は第5回を除いてすべと言ってよいほどの負け戦でした。それはイスラム側が内紛を収束して統一されると、国力の点で全く太刀打ちできなくなったからです。それにもかかわらず十字軍国家が1291年まで細々と存続し得たのは、イタリアの海の共和国の海軍力によって補給を継続できたからです。
十字軍の功罪、という視点に立ってみると、ヨーロッパにとっては先進的な文化や文明の産物に触れて啓発されたことがいちばんでしょう。築城術すら東方から学んだのです。余剰人口の排出にも役立ちました。
イスラム世界は、異教徒に寛容でした。それだけにパレスチナ地区での十字軍の残虐ぶりは、彼らの理解を越えていました。彼らはその多くの史書の中で、十字軍について次のような文脈で話し始めます。「野蛮極まりない突然のフランクの侵略について……。また、ケガをした手足は切断するしか能のないフランク人に対して、イスラムの医師が医学のレベルのあまりの低さに驚愕したというエピソードなども残されています。イスラム世界にとっては、まさに災難以外の何者でもありませんでした。
20世紀最後の年(2000年)にローマ教皇ヨハネ・パウロ2世は初めて十字軍の過ちを認め、公式に謝罪しました(!)
嫉妬深い神を奉じるセム的一神教にとって、異教は絶対悪となりやすく、それに対していくら残虐な行為を行っても、すべては赦されると言う錯覚が生まれやすいのです。十字軍はその1つの典型であったと思います。
引用以上
258ページに気になる記述があります
「1」ヴォルムス協約で叙任権闘争が終結。教皇権が強化される
1122年に、戦う人と祈る人が妥協をしました。ザーリアー朝最後のローマ皇帝ハインリヒ5世は、ライン川左岸のヴォルムスで教皇カリストゥス2世とヴォルムス協約を結んだのです。司教の叙任権(任命権)は教皇に、司教の領土を授封する権利は皇帝にあると取り決めました。
この妥結は痛み分けのようにも見えますが、実質的には教皇側の勝利です。授ける相手がいて初めて、土地を授けることが可能になるわけですから、人事を決める権利が、土地を授ける権利に先行します。
とうとう「祈る人は祈る人が決める」ことが実現しました。これは、イエスの代理であると自他共に認めていたローマ皇帝(ドイツ王)が、教皇の任命権はもちろん、司教の任命権まで失ったことを意味しています。いままでは皇帝が太陽の(太陽系の)世界でしたが「戦う人」の俗権」と「祈る人」の聖権の2つが分離したことで、今後のヨーロッパ世界は、俗権と聖権を楕円の2つの焦点として展開していきます。
なお東方ではローマ帝国の皇帝が依然として太陽で(イエスの代理)、東方教会のコンスタンティノープル総主教の権威は、到底、皇帝に並ぶものではありませんでした。引用以上。
(この後12世紀ルネサンスが興るまでヨーロッパの諸侯(戦国時代の領主みたいなものとか)の栄枯盛衰が連綿と語られるのですがさっぱり頭に入ってきません、まぁいいや)
「8」ヨーロッパで「中世の春」、12世紀ルネサンスが興る
275ページ
前略…イスラム世界を経由してギリシャ・ローマの古典が甦ったことを始めとして(トレドやパレルモを中心とした大翻訳時代)、12世紀ルネサンスが開花しました。
この時代を象徴しているのが大聖堂の建設です。さらにそれまでのロマネスク様式に代わる、天を突くようなゴシック様式の建築が登場しました。その典型がパリのノートルダム寺院(1163年に建築開始)やシャルトル大聖堂(1145年に建築開始)です。
この時代から民衆のマリア信仰が、まるで堰を切ったように世間に溢れ出ました。この時代には聖母マリアに捧げられた聖堂がたくさん建てられています。「ノートルダム(Notre-dame)」とはフランス語で「我らの貴婦人」の意味で、聖母マリアのことです。
学芸面では、スコラ哲学、騎士道物語(アーサー王、ローランの歌、トリスタンとイゾルデなど)、ポリフォニー(教会の多声音楽)などが12世紀ルネッサンスの代表選手といえるでしょう。引用以上
この頃カンボジアでは、アンコール朝のスーリヤヴァルマン2世が、アンコール・ワットを造営しています、日本では平清盛の時代、中国では南宋が宋に代わって経済規模の拡大に伴い銅銭不足を補うために世界初の紙幣を発行したとあります、12世紀末ゴール朝は、インド深くに歩を進め、1193年には北インドをほぼ征服しました。そしてアイバクというトルコ系マムルークの将軍をデリーの代官に指名します。
こうしてインドに初めてイスラム政権が作られる契機が生まれました。279〜280ページ
(ふーやっと13世紀、、281ページ
13世紀もユーラシアは気候に恵まれて、生産力が高まり人口が増大しました。ヨーロッパでは人口ボーナスを背景に交易が活発化し、イタリアを中心に自治都市や大学の発達が見られ、ドイツによる東方植民も始まります。ローマ皇帝には「中世で最初の近代人」と呼ばれたフリードリヒ2世が戴冠し、中央集権的な国家づくりを進めます。しかし志半ばで倒れ、ホーエンシュタウヘン朝はまもなく断絶します。ドイツでは大空位時代を経て、ハプスブルク家が登場します。引用以上。ハプスブルグ家に関する本は日本でもずいぶん出版されていて、びっくり、僕はパス。
307ページ
中央ユーラシアに2つの太陽が昇り、チンギス・カアンが勝利する(ジンギスカンに関する図書も伝記を含め多いですね、これもパス、歴史は座標の中の環境を理解しつつ読みたい、というのは単なる希望で、、歴史を安直に学ぶ態度がまずだめなことが簡略にまとめてあるこの本を見てさえ、よくわかりました)
309ページ、、モンゴル帝国はチンギス・カアンの死後も発展し続けます。その理由は、優れた頭脳を持つリーダーが続いたこともありますが、モンゴルの伝統的な考え方が極めて合理的であったことが寄与していました。また、商才に長けたウイグル人を早々と傘下に収めたこと(天山ウィグル王国を吸収)も幸運でした。
同じ309ページに…モンゴル帝国の合理的発想…として…こう記してある、、、モンゴルの人々は、1人の人間が面倒を見ることのできる部下はせいぜい10人ぐらいが限界であると認識していました。したがって、1人が10人の面倒を徹底的に見る。10人の部下を持った隊長をもう一つ上のランクの人間が見る。そうやって順繰りに、10人隊長、100人隊長、1000人隊長と、ピラミッド型に軍隊を構成していきます。
この仕組みは単純ですが、うまく機能すると軍隊が強い絆で結ばれていきます。例えば異民族を征服して、降伏した異民族が家来になりますと言ったら、その10人をモンゴル人1人で面倒を見るのです。そして、信頼できる異民族10人が育ってきたら、それぞれに同じ民族10人を仕切らせる。そしてモンゴル人が100人隊長になるわけです。広大な領土を支配するには、たいへん賢い方法であると思います。引用以上。
13世紀半ばモンゴル帝国の大勢はバトゥがキングメーカーになりそのバトゥ大軍団に守られてトルイの長男モンケが第4代カアンに選ばれました、316ページ。長男モンケの指示で動いていた次男クビライはモンケの死後、クーデターを起こして、西はロシアから東は日本海に至るモンゴル帝国の第5代カアンに就きますがモンゴル族全体のまとめとなるとクビライの手にあまります。そこで西方は親戚たちに任せて自分は中国に自分の納得できる国を作ろう…身内で争うより、そのほうが建設的であると判断したのだと思います、と著者は推測しています326ページ
クビライの業績がわかりやすく326ページから327ページに記されておりますので全文を引用します、、、
クビライは、モンゴル帝国の大カアンになるよりも、モンゴル帝国(4大ウルス)全体の宗主として生きると言う無理のない方向を選択しました。クビライは恐ろしく合理的・近代的な思考の持ち主でした。
彼は当時の国際通貨である銀を世界規模で循環させ、交易を盛んにしようと考えました。クビライの宮殿には新年になると、世界中からモンゴルの皇族が年賀の挨拶にやってきました。誰もがクビライのことを、モンゴルの総本家だと思っていたからです。もちろん貢物を持ってきます。これに対して、クビライはバーリシュ州(ペルシア語で枕)と呼ばれた2キロの重さがある銀塊(銀錠)を贈与します。
この銀錠を、例えばフレグウルスの都タブリーズに持ち帰った皇族は、どうするでしょう。飾っておいても仕方がないので、オルトクと呼ばれていた大商人(日本の商社と考えてください)に貸与します。
オルトクはこの銀で、中国の陶器は絹やお茶を買い付けます。ということは、クビライから贈与された銀が、また中国に戻ってくるわけです。そこにクビライが税金をかけて銀を回収します。30分の1の消費税です。同時にクビライは、流通の途中で課税することを厳禁します。例えば港に荷が入るたびに課税することや、関所をつくって課税する通貨税の類をすべて禁じました。
つまりクビライはユーラシア規模で織田信長の楽市楽座政策を実行したのです。関税などをすべて撤廃した自由貿易の促進です。TPP (環太平洋経済連携協定」を進化させたイメージです。
かくして銀が大量にマーケットを巡り始め(マネーサプライ)、ユーラシア全体の景気が格段に良くなります。しかも通過税が撤廃されていますから、陸と海の道が自由に結びついて、例えばマルコ・ポーロと呼ばれた誰か(※マルコポーロはその実在が確認できるほどの資料が無いので一部の歴史家がこう呼んでいる)のように、誰もが自由にユーラシア大陸を行き来することが可能になりました。真のグローバリゼーションが誕生したのです。引用以上。
日本に弘安の役(元寇)を仕掛けたのもクビライです。南宋を無血で接収したクビライは、南宋に仕えていた軍人をそれにあたらせました。南宋の官僚と文人たちには古今東西の書物を出版する大出版事業を命じました、335ページ抜粋。
寒冷化とペストの時代…と題された14世紀は次のように記されて始まります339〜340ページ
14世紀は、寒冷化とベストの世紀でした。ユーラシアの東方から中央にかけての地域では、13世紀後半から14世紀前半までパクス・モンゴリアと呼ばれる繁栄をもたらしたモンゴル世界帝国が、寒冷化とペストの発生によって倒れ、その領土は明とティムール朝によって再編されました。
西方では14世紀初頭にフランスのカペー家の奇跡が絶え、それに乗じて戦争を仕掛けたイングランドとのあいだで100年戦争が始まります。ドイツでは分断化が
ほぼ固定されて、北部のハンザ同盟が漁夫の利を得、豊かなイタリアの諸都市ではルネサンスが準備されました。そこにペストがやってきます。
ヨーロッパでは人口の3割以上が死亡し、その人口は18世紀までもとに戻る事はありませんでした。しかしペストによって死と直面した人間が、宗教的観念に打ち勝って、積極的な人生観や人間賛歌を生み出します。これこそがルネサンスを生み出す導火線となったのです。引用以上。
344ページに…ペスト、発生す、、、の項が立ててあり、記述が現在進行中の21世紀のコロナ禍を連想させられたので参考までに引用します… 345ページ
ユーラシア大陸では、長い歴史の中で病原菌に対する人間の抗体は、3つぐらいのパターンに分かれていたといわれています。東ユーラシア・中国型、西ユーラシア・ヨーロッパ型、それからヒマラヤ山脈によって閉ざされたインドの亜熱帯型。この3つです。
ものごとを単純化して言えば、東の病原菌が西に行けば(その逆であっても)、たいへんなことになります。それにインドも加えたら、よけい大ごとになります(モンゴル勢はたびたびインドへの侵入を試みていました)。抗体のない人に新しい病原菌が伝染するのですから、ひとたまりもありません。
パクス・モンゴリアといわれた時代は、暖かくて経済も順調でした。人々はしっかりとご飯を食べ、栄養も摂れていました。こういうときは人間の抵抗力が強いのです。しかし、天候が不順で寒くなり、農業の生産性が低下すれば、人間の抵抗力も落ちます。そうしたときに、ユーラシアの3つの抗体のエリアをまたいで病原菌が侵入してきたら、パンデミック(伝染病の世界的流行)が起こることは想像に難くありません。それが象徴的に現れたのがベストの大流行でした。
ぺストは、1330年代に中央アジアに発生して、まず大元ウルスやインドを襲いました。次いでユーラシア街道を西進して、1347年に、クリミア半島のジェノヴァの植民都市カッファへ、さらにシチリア島のメッシーナに上陸しました。大元ウルスを中心とするモンゴルの世界帝国を滅亡に導く根本的な要因となり、ヨーロッパでは人口の3割以上を死に至らしめました。エジプトのマムルーク朝の衰退も同様に考えられています。
このように、ユーラシアのありとあらゆるところで人々が大量に死んでいく過程で、中国型・ヨーロッパ型・インド型の病原菌や抗体が混じり合って、ペストの大波が去ったとき、生き残った人々は、ユーラシア共通の抗体を持つようになります。猖獗を極めた大疫病によって、人々は強い抗体を持つようになったのです。そして近い将来、この強い抗体を持った人々が、ユーラシアの病原菌に対してまったく抗体を持たない新大陸の人々に出会ったとき、また悲惨なパンデミックが起きるのです。
ベスト騒動の頃、日本では元寇で力を使い果たした鎌倉幕府が滅亡して、後醍醐天皇による天皇親政、建武の中興が始まります。引用以上。
さてヨーロッパ… 357ページ
中略…1328年シャルル4世の死とともに350年間、連綿と直系の男子が続いてフランスを大国に押し上げたカペー朝が断絶しました…とあります、同じ1328年、東方ではモスクワ大公国が誕生…とあります357ページ
ペストがルネッサンスのきっかけの1つになる…なるほどなるほどとつい納得してしまったくだり、引用します、360ページ
14世紀の中頃にはヨーロッパにもペストが到達し、多くの死者が出ました。人々は日常的に死と直面する生活を送る中で、神に対して敬虔な気持ちにならざるを得ませんでした。「メメント・モリ(死を思え)」という言葉が流行しました。しかしその一方で、人がこんなに簡単に死んでしまうのなら、この生をもっと充実させて楽しく生きたい。恋もしたい、おいしいものも食べたい、とも考えるようになります。
ペストから生き残った人々は強い抗体を身につけていましたから、積極的な人生を望むようにもなりました。人生の賛歌を謳う文学が登場して愛読されました。…中略…ルネサンス盛期に多くの芸術家のパトロンとなったフィレンツェのメディチ家の当主、ロレンツォは多くの詩を残していますが、その中に次のようなフレーズがあります。
「明日死ぬかもしれないなら、今日はお酒を飲もう。恋をしよう。愛し合おう」
ペストが人間につきつけた死への恐怖心が、逆に人間愛を積極的に捉えるルネサンスの思想に繋がっていったのです。引用以上。
ドイツの分割固定化とハンザ同盟の成立、、362ページ、僕の華奢の頭にとって情報密度が高すぎて辛いので省略します😅
イングランドとフランスの100年戦争も省略します。朱元璋(洪武帝)が建国した明、、疑心暗鬼から十数万人といわれる家臣の粛清をした大明暗黒政権の後継者で、孫の建文帝は1402年、燕王(永楽帝)に滅ぼされます。その少し前に日本では足利義満が南北朝を統一しました…とあります379ページ。
以下、文庫本版下巻に続きます
(※モンゴル帝国の記述がやけに詳しいなと思ったら…次の断り書きがありました350ページ…昔、僕たちが学んできたモンゴル史は、中国で書かれた資料をもとにしていました。ある王朝の正しい歴史(正史)は、その次の王朝をつくった人が書いて残すというのが、中国の伝統です。したがってモンゴルの歴史を書いたのは、明の学者です。つまり異民族に対して恨み骨髄の朱子学者達です。当然、彼らがモンゴル史を書けば、野蛮人であり文化の破壊者であるということになります。それが世界に広まってしまったのです。
しかし、実はモンゴルの歴史は、トルコ語やペルシア語でも大量に残されていたのです。けれども誰も読んでいなかった。これを読み始めたのはソ連の学者です。彼らは中央アジアを領有したので、中央アジアの歴史を勉強し始めたのです。その内容は、中国語で書かれたものとはかなり違っていました。そのことに世界中が気がついた。そしてペルシア語やトルコ語で書かれたモンゴル史が読まれ始めたのです。インターネットが普及したことで、研究が飛躍的に進みました。
日本人の場合、漢字で書かれた歴史に長い間慣れ親しんできましたから、古いモンゴルと新しいモンゴルのイメージの落差は大きかった。しかし、それは必ずしも日本の歴史学者の罪ではありません。引用以上。
下手なまとめ方を読ませてすいませんでした…ちょっと休みを入れて後半に移ります、でも読めてよかったな…芋づる式というか、びすこさんの蔓、引っ張ってよかった😊イモヅルシキホンノキ100、いけます、ありがとうございます😊次、どうすっかな🤔遊びに関する何か、遊び足りない僕としては…遊びに関する何か面白い話題ないかなぁ、一休みして考えます😌
なぞっただけですのに教授、採点が甘いっす、、理解するかしないかを別として…それでもなぞるという意味があることがわかっただけでも良かったなと思いました。本は図書館に返してしまいましたので文庫本を取り寄せました…後半はこれから少しずつ読み進めようと思っています。本を読んで気になるところに旗を立てるだけでも評価してくださる人がいる…そういう世の中であって欲しい。
いちまるさん、すごいなあ、そちらの最近の気配で(と言ってももちろん見えないけど)多分何か分厚い本に取り組んでおられるのだろうと推測していましたが、とうとう800頁に及ぶ長編を読み終え、そしてそのレポート。PC画面で読むのがちょっと大変なので、コピーして印刷したら計14200字、400字詰め原稿用紙で35枚強ですよ。大学生の卒論なみ。
大学4年間の代わりに4年の会社勤務、とのことですが、ここだけの話、私たちの世代は学生運動で大学は荒れ世間もささくれ立っていたため、「卒論なんか書いてねえよ」という男の子が結構多いんです。何が何だか自分たちにも分からないまま革マルだの中核だのと騒ぐ同世代をよそ目にせっせと働いていた同世代の人達、税金も払って、企業の安定にも貢献して。こういう方々には年金のプレミアムがあってもいいと思う。
安定と余裕はないけど、今自分がこうして家族経営企業の古おかみになっていることも何かの因縁でしょう。昨日も亭主が、どこやらに寄付したいが現金が払底したので金を貸せ、と言ってきた。どこの世界に女房に金借りて寄付する奴がいる。これで企業が40年持ってきたのが不思議です。
それはともかく、歴史の勉強はやっぱり地中海・西アジアからなんですね。メソポタミアとエジプトは関係があって、前者が後者に少なからぬ影響を与えているのだが、その影響が表面化するまでに数千年かかった、とどこかに書いてありました。
そうそうBC6世紀とか5世紀にはもうすごい天才が世界中で続出しているんですよね。ギリシアではソクラテス・プラトン・アリストテレス、中国で孔子さま、そしてインドのお釈迦さま。世界史でこれらの人達が出てきた時、当時の地球を吹き抜けた特別な風があったのかな、などと思ったものです。イデアについては最近ちょっと勉強したばかりでした(一知半解ともいえない理解だけど)。それとギリシアの誰だったか(エンピドクレス?)が万物の根源は水・土・空気・火だと唱えたそうですが、これ、今風にいうと「環境の主要素」じゃないですか。土と水と空気をきれいに保てばそれでもう申し分のない清潔な環境。火は今問題のエネルギーと言い換えてもいいんとちゃう?
とにかく西暦が始まるまでには、今日の世界の問題・課題のほとんどが出尽くしていたような気もする。当時のギリシアの哲人なんか、知盛みたいに「見るべきほどのことは見つ」とか言って死んでいったのかも。
ヘブライの世界とか唐の文化、イスラムの台頭など、感想を話せばきりがないのでそれは省略して、少し前から気になっていることがあるのです。
いちまるさんもちょっとだけ触れているビザンチン(東ローマ)のことなんですけどね。西ローマが滅びて、ゲルマンの一派フランク族のカロリング朝がその後継者をもって任じる神聖ローマ帝国が誕生するんですが、そのあたりから学者さんの話はほぼ西洋一辺倒で、東ローマの話は無視とはいかないまでもかなり軽んじられているような気がします。世界史の本を読んでいるとたいてい、「東ローマ・ビザンチン帝国のその後も重要ではあるが、日本への影響はほとんどないので省略」なんて冷たい扱いを受ける。
ギリシア/ローマ文化の継承に貢献したはずのビザンチンなのに、どうしてこうも影が薄いのかな、と思っていました。それが最近気づいたのですが、ビザンチン文化はバルカン諸国に受け継がれ吸収され、そして東欧、さらにはロシアにも影響を与えているみたい(宗教や文字など)。バルカンや東欧はEUでもどうも継子扱いでそれには理由もあるようですが、これはちょっと歴史的背景を知る必要があるな、と思っていたところへ、目下のウクライナ問題。
ロシアが虎視眈々と狙っていて、NATOがウクライナを守ろうとしているけれど、ドイツの態度は曖昧で(現政権には親ロ派が結構いるんです)、一枚岩とはいかない。この侵略を許せば東欧も危ない。30余年前にソ連の桎梏からようやく自由になったのに、またその衛星国にされたらどうしよう。だけど頼みの綱のEUは一致団結してないし、そのくせ自分たちの「近代的」道徳観や倫理を押し付けて説教しまくる。これもいやだ。
東欧・バルカンの特質を知ろうとすれば、どうやらビザンチンまで遡る必要があるように思われます。世界のこの辺りに関しては、あんまり資料がないのが難ですけど。
長くなったので今回はこれでおしまいにしますが、本当にご苦労さまでした。って、こういう言い方は偉そうに聞こえるなあ。じゃあ何といえばいいんだろう。Well done! ドイツ語でHut ab! 脱帽って意味です。