シリーズ 私たちが若い頃、日本は戦争をしていた
(子や孫に語るおじいちゃんとおばあちゃんの話) 清水祺子 編著
ブイツーソリューション2013年3月初版発行
(この本は昨日おしんこ研究会の Sさんがお持ち下さいました。亡くなられた奥様が出版された本です)
今夢中で読み終えましたが…前の戦争を振り返るというよりは一人ひとりのいわゆる一般庶民の戦争体験がどれも本当に貴重な証言です。1941年の開戦当時6歳から14歳位までの十数人の方(葛飾区在住の方が多い)の証言がほとんどです。
はじめに…身近なお年寄りの戦時体験から、平和へのヒントを学ぶ。…とありました。
そこに書いてあった著者自身(昭和16年12月生まれ)の体験から引用いたします。
略…空襲警報が発令されると、防空頭巾をかぶって幼稚園から家に走って帰ったこと。庭の防空壕で干し芋を食べたこと。故郷の高知市が大空襲を受けた昭和20年7月4日の夜は、母に背負われ、紫の花柄の夏ぶとんをかぶって近くの鏡川に逃げました。川に落ちた焼夷弾が川面で燃えて、灯篭流しの灯篭のように明るく綺麗でしたが、男の人に背負われて逃げてきた女の人は片足がなく、血が垂れていました。
この空襲の後、伝手を頼って四国山脈のまっただ中に疎開しました。蛇の多いところで、蛇除けにに室内には昼間で蚊帳を吊っていましたし、水は筧(かけひ)で谷から引いていました。カボチャ、お芋、芋の茎、山野草までも、食べられるものなら何でも食べていましたが、主食のご飯はトウモロコシの粉混じりで、見た目はおいしそうな黄色でしたが、味はひどかったと後に母から聞きました。引用以上。
(僕はこの記録が1941年に勃発した戦争当時今でいう小学生や中学生が見た記録として貴重であるばかりでなく、取材した当時70数歳の方が多く、今の僕の歳に近いこともあり薄らいでいく記憶の中でも残っていた体験者の心に深く刻まれた風景をいくらかでも追体験できたように思いました。語り手の口調までも彷仏とさせる丁寧な取材のなせる労作のせいだと思います。今日のKBCの会合に持っていって回覧していただき、メンバーの各の方に感じ取っていただくのが1番いいと思いまして引用は所々の風景にとどめることにいたします。話し手の名は省略。
111ページ
昭和20年3月10日
昭和20年3月10日は東京大空襲として語り継がれていますが、爆撃の中心からだいぶ離れた葛飾区の私の家に居ても、下町を襲う砲弾の音や建物が燃えさかる音が、ボンボン、ボンボン聞こえました。後になって知りましたが、この空襲では、深夜12時過ぎからわずか2時間半の爆撃で、死者約10万人、火災で家を失った人は100万人と言う凄まじい被害だったんですね。
とにかく、すごかった!10日の夜、深夜中に目が覚めてトイレに行きたくても怖くて行かれませんでした。それで玄関のところでしちゃったんだけど、外は昼間だってあんなに明るくないと思うほど明るかったですよ。
112ページ
中略…この爆撃の後、10日の日は1日中うちの前の道をゾロゾロ、ゾロゾロ、浅草方面から人がいっぱい歩いてきました。荒川を渡り、中川に架かる高砂橋を渡って、柴又を過ぎ、千葉方面へ向かう道です。みんなどこへ行くんだかあてがないみたいで、煤けた顔をしてうつろな表情で、夢遊病者のようにただ歩いているように見えました。
靴をちゃんと履いている人もいたけれども、右足が靴で左足がゲタとか、裸足とか、いろいろでした。枕を抱いている人、バケツとちりとりを持った人、煤けたお鍋だけ持っている人…。だれもが、手当たり次第なんでも側にあるものを持ってきたみたいで、大事な物を持ち出しているようには見えませんでした。
リヤカーを引いている人がいたので、何を載っけているのかなと見ていると、焦げたふとんでした。運び出したけれど、逃げる途中で燃えてしまったのね、おそらく。
赤ん坊を逆さにおんぶしている人がいました。その様子を見て「赤ん坊を逆さにおぶってるんだから、赤ちゃんがダメなのはわかっているのでしょう。だから、逆さだっていうのは止めましょう」と、うちの親たちが話しているのが聞こえました。かわいそうで声もかけられなかったんだと思います。引用以上。
戦後女学校を卒業した方が就職先で見た光景117ページ
学校を卒業して、私は会社勤めを始めました。職場は吾妻橋際で、現在アサヒビールの建物があるところです。働き始めた昭和24年4月頃は、ここはまだサッポロビールの建物で、戦災を免れた数少ないビルの1つでした。建物の地下に、4尺(約1.2m)四方くらいのコンクリート造りの倉庫があり、木の扉がついていて、中に生ビールのタンクが入っていました。
そのコンクリート壁の表面に、「なに?これ!」っていうような異様な染みがありました。仁王立ちした男の人と重なり合って立っている人の姿です。20年3月10日夜、迫ってくる炎を避けて倉庫に入り、蒸し焼きになっちゃった人がいたんですね。その人達の油が、コンクリートの表面に染み込んだものでした。
世の中がいくらか落ち着いた頃に私達はこの染みを見たんで、「へぇ!これ人間じゃない?」「そうだよ。こういうところに逃げてきて、蒸し焼きになっちゃったんだねぇ…」って、同僚と話したものですが…。
戦争は嫌だ。もう絶対に嫌です。引用以上。
昭和20年3月10日のあとの4月10日にも大規模な空襲がありました、荒川区に住んでいた佐藤さんの話…両親が家の様子を見に避難先の荒川の土手から離れていって残された子供の佐藤さんの感想…262ページ
うちは母が浅草生まれですからお芝居が好きでして、私もよく連れて行ってもらいました。もちろんこの空襲の頃は久しくお芝居なんて見ていなかったのですが、舞台の背景なんかは覚えていました。
しばらくぶりにそんな楽しいことを思い出していた時です。B29が来て、バババ…って向こう側の土手沿いに見える屋根を爆撃したんです。あっという間に土手の向こうは紅蓮の炎。ものすごい勢いで燃えて辺りが真っ赤になっちゃったんです。空高くまで。
真っ赤になった梁とか柱が、四角い枠みたいになって燃えているんですが、それがグラッと揺れて、バサっと落ち、その途端に、あたりはまた真っ暗くなりました。そしたらB29が来る前、土手に沿って黒く連なって見えていた屋根がなくなっちゃって、土手が一本の線になって長く伸びていました。
「あー燃えちゃった…。あ〜あ〜」ってそれ全部こっち側から見ていたんです。頭からかぶっている布団を、目の辺りだけちょこっと開けてね。
「あヽすごい!」とも思わないし、「怖いなぁ!」って気もしないで。「今まであった物が消えるる瞬間って、きれいだなぁ…」って思いました「物体が消える瞬間て、ほんとにきれい」って。
もう空襲が、私は他人事になっちゃっていたんですね。周囲の叫び声なんか全然聞こえないで、自分の世界に入り込んでいて、周りで起きていることが自分とは係わりのない世界の出来事みたいでした。あまりにいろいろなことがあったから、一寸先に何が起こるかわからない現実が、小学生にはきっと重過ぎたのでしょう。
「お空って真っ黒じゃないんだ。暗いんだけど、よく見ると黒くはないんだ。濃い紺色なんだぁ…って空を見ていました。そしたら星がいっぱい見えて「あら、星がいっぱいある。お月様もある。なんだ、昨日と今日とは一つも変わってないじゃない。小さいときから見ているお月さんと何も変わってないよ。アリんこだって、地面のそこいらじゅう動いているし…。一体私ってなんだろう何なんだろうなぁ…。地上で何が起きているのかなぁ…」と思ったんですよ。
地上で何を叫んだところで、お星様やお月様は何も変わらないんだ」って。「おなかが空いた」とか「眠い」とかも感じない。不思議なだけの時間の中にいたように思います。トランス状態に入っていたというか…引用以上。
(引用では、悲惨な場面はあえて載せないようにいたしましたが、年少の子供たちの心境が察しられました。これでもかと精密に描写する記録文書もありますが僕は当時、今で言う小学生中学生であった子供たちの見た記録から語られない現実が垣間見えた気がしました、 Sさんの奥様はこれを書いてまもなくお亡くなりになったと伺いました。ご冥福をお祈りいたします、本来なら続くであったろうライフワークの貴重な絶唱のようにぼくには感じられ頭が下がりました、ありがとうございました)
ここだけの話…というわけにはいかない世界中に開かれたこのコーナー…何の会をやっても女性が元気です…おしんこの会はそういうわけで応援を頼みました、CさんとGさんです、男の出番です^_^、、人の塊…とても刺激的で暗示的…何かの素材という感じがとても期待が持てました…インスピレーションをありがとうございました😊