千ベロの聖地「立石」物語:谷口榮著:新泉社20 21年3月刊
この本の著者の講演会に2度ほどお邪魔してます。数年前に奥戸地区センターで地元の歴史のお話、2度目は去年友人が立石地区センターで立石にビジネスホテル誘致の可能性を探る講演会シリーズ!の一環でこの著者が立石の歴史について講師としていらしたのです。著者の、多分定年退職?の記念として出された本と伺って図書館から借りて読んでみました。
最初に巻末の方を見て?!立石の由来となる立石様の奇石についての記述を見ていてまるでサスペンスドラマを見てる気になりました。古来よりこの地域に石は存在しない、つまりこの地域では石そのものが珍しい、石棺のカケラと言う説もあるそうな。慌てて最初のページからペラペラめくり始めました。
「もつ焼と下町ハイボール」のサブタイトルにありますように立石風景から、、、
12ページ
…大学生時代、友人と私の地元、立石・青砥界隈で飲むと、決まってもつ焼き屋さんに入った。いまみたいな居酒屋のチェーン店もあまりなく、もつ焼き屋さんは大学生の財布具合にぴったりのリーズナブルな存在だった。
いま「千ベロ」という言葉が世間でもてはやされている。一説には中島らもさんが広めたといわれているが、葛飾界隈では私が大学生だった昭和50年代にはすでに普通に使われていた。「立石のどこそこの店だと千円でベロベロになるまで飲めて、そのうえお釣りがくる」という都市伝説めいた話が巷に流布していた。しかし、「千ベロ」が都市伝説ではなく、実際の話だということはすぐに実体験することができた。引用以上。
38ページあたりでこの著者の独特の下町らしさが出てくる…立石あたりは川向こう(隅田川の東側)で下町じゃないと言う説に対する反論だ…反論の仕方に学芸員、考古学の大学の教員であるにもかかわらず妙に力がこもっていて、著者に親しみを持ってしまう。ハイボールの由来そのものについても著者によってここ下町はハイボール文化圏つまりは→下町ハイボール文化圏という事になりました。飲み屋さんの器の形態にまでこだわる、この本全体に考古学的な分析と考察が見られるのがこの本の特徴だと思いました。
49ページ
さきにも取り上げたが、「モツ焼とハイボール」という小文が、私のもつ焼への思いをアウトプットした最初の文章だった。その時に、「焼き(ヤキ)」「煮込み(ニコミ)」「刺し(サシ)」の3つの料理のあり方を「もつ3形態」と呼んだことがある。
しかし、しばらくして「形態」という使い方が適切ではないかと思い、もつ料理の「三種の神器」と呼びあらためることにした。
「形態」では「形のあり方」という意味合いになり、調理方法の違いではなく、調理後の「形」ということになってしまう。だからといって「三種の神器」とは少々大袈裟かもしれないが、この三つが揃ってもつ焼屋としての看板をあげられるのであって、どれか1つももつ焼きファンを納得させることはできない。引用以上。
(なるほどここまでしてきっちり決めないともつ焼きファンとは言えないわけか、この時点で僕は脱落、お酒ならあれば、量はいただかなくても、メチルアルコール以外多分飲みたがるわたくし)
立石仲見世物語が127ページから始まり今の葛飾区役所周辺の田んぼ風景写真に僕の思い出と重ねあわせました。都会の中の田舎。それが瞬く間に… 141〜(写真等のページ飛ばし)145ページ、、、
葛飾区内の工場数は1957年(昭和32)末には2700軒、従業員数は43,696人に増加していたが、1962年(昭和37)末には工場数3165軒、従業員数59,883人に達し、1971年(昭和46)末には工場数4,605人と激増している。しかし、従業員数は1967年(昭和42)末に63,00 0を超えていたが、71年には、55,052人と減じている。これは工場での機械化・合理化が進んだことによって生じたものである。
工場の増加と都心に近いという立地条件から、住宅開発の波がまだ耕地の広がっていた立石駅周辺にも押し寄せ、水田は埋め立てられ宅地化が急激に進んでいく。1962年(昭和37)現在の区役所が建設され、翌年には「立石駅通り商店会」が現在のようなアーケードになる。同年、立石仲見世の西隣にヨーカ堂立石店(現在のイトーヨーカ堂食品館立石店)が開業するなど、いま見られる立石駅界隈や周辺部のまちなみ景観が形成されていく。
この間、立石駅北側の「立石デパート商会」は一時期、非公認の夜の稼業をおこなう青線となった。立石駅北側は、、交番裏手の赤線と交番むかい側に青線が出現し、色街的な色彩を強める。
しかし1958年(昭和33)に売春防止法が施行され、赤線・青線ともお店を閉じ、飲食店街に姿を変えていく。とくに青線地帯は線路と直交するニ本の細い通路に間口に狭い間口のスナック、パブなどの居酒屋が軒を連ねる「呑んべ横丁」となっていく。
1960年(昭和35)には、仲見世のアーケードの改修が行われ、1964年(昭和39)には東京オリンピックの聖火リレーが立石大通りを通っている。聖火リレーは立石以外にも区内各所を通っており、聖火を見た人は「もはや戦後ではない」という言葉を実感したのではないだろうか。
157ページに葛飾文庫のことが出てきた…「葛飾文庫」さんは配達もしてくれるので、週間「二十世紀の歴史」や小学館版「日本の歴史」などを買っていた。そうそう漫画と間違えて小説の「巨人の星」を買ってしまい、自分の不注意さを嘆くいたのも「葛飾文庫」さんだった。引用以上。
(店をたたむとき僕の家まで来てくださって言われた言葉を今思い出しました…週刊誌がその辺で売られるようになってしまっては本屋ももうおしまいです…悲しそうな顔してにっこり笑われましたっけ)
164ページに縁日のことが書いてありました…
この立石の縁日は、立石大通りの奥戸橋に近い南側にある「喜多観世音菩薩」(通称、を喜多向観音)の縁日で、喜多向観音は昔からたいへんご利益のある観音様として知られていたという。七の縁日には多くの人がお参りし、立石大通りの両側には出店がならび賑わっていた。
立石に住んでいる頃は、カレンダーをみては七の付く日が早く来ないかと心待ちにし。縁日になると昼間から浮き足立ち、母に早く縁日に行こうとせがんだものだった。
(僕の記憶でもこの通りです)
最後に207ページより引用いたします…、
立石駅を利用する人の中には血液を売ってその日を凌ぐ人もいた。その人たちは立石駅を下車すると「血液銀行」のある北東の青戸方面に足を向けるのであるが、その方向とは異なる人の動きもあった。それは立石駅を下車して西に向かう人たちで、それも朝よく見られた風景だった。西に向かった人たちの目的は、もう一つの立石というまちを特徴づけるキーワードであり、ランドマーク的存在である「職業安定所」であった。
梅田小学校に通っていた頃、職業安定所」近くにもんじゃ屋さんがあった。学校が終わって友達と一緒に行くと、仕事にあぶれた人が「職業安定所」付近にたむろしていたので少々怖かった。
日銭を得るた人、得られなかった人も、立石の飲み屋の暖簾をくぐる。中山競馬場で有り金をすってしまった人も立石駅で下車して、もつ焼きと焼酎で一杯やってから帰る。そういうこと行動パターンがあった。というよりも、そのようなさまざまな人々のニーズにあわせた商いを飲食店がしていたといったほうが適切かもしれない。
(青戸についてもうんちくがありました。青砥は青砥藤綱、青戸はこの地を治めていたお役人の名で、駅名には青砥が、町名には青戸が使われている理由みたいです。
とにかく貴重な写真と古い土地の地図などが充実しています。著書によればちょっと前の写真なども考古学の守備範囲だそうで、既に跡形もなくなくなっている建物や橋のあった痕跡などをそれらの資料で知ることができます。葛飾のこの地域のことを今更ながら少しわかった貴重な体験でした、ぼくより、ゆうに10歳以上年下の著者が僕の10倍位土地のことに詳しく土地の歴史に親しみをもち、生まれ育った立石を愛した人だということがこの本を読んでよくわかりました。その土地と一緒に暮らすという事はこういうことなのかなぁとしみじみ根無し草のような性格なくせして、結局は生まれた土地にしがみついている自分自身に呆れるやら、あきらめるやら、しみじみといたしました)
生まれ育った土地への愛着は普遍的なものと思っていました。よその人が見て不便だったり未発達だったりしても、自分がそこに生まれたというだけで無条件の愛情を抱く。
でもこの欧州の地でアジア・アフリカ・中東などから続々とやってくる難民を見ると、かれらは自国をどう思っているのだろう、故里に愛着は無いのだろうか、と考え込んでしまいます。自分の町や村で過ごした子供時代なんかどうでもいいのか。国を捨てるということがどうして平気でできるのか。何千キロもの道を歩き、危険な海を渡るエネルギーがあるなら、なぜ自分の国の再建にその力を尽くさない?このままでは、貧しい国は未来永劫貧しいでしょう。
立石を聖地とも思う人がいる限り、そこが滅びることはないと思います。人口の推移や通りの盛衰はあっても。