新訳 更科日記 島内景二:花鳥社
2020年3月刊
地名のおかしみ58〜59ページ
「にしとみ」と言ふ所の山、絵、良く描きたらむ屏風を、立て並べたらむ様なり。片つ方は、海。浜の様も、寄せ返る波の気色も、いみじう面白し。
「唐土が原」と言ふ所も、砂子の、いみじう白きを、ニ日・三日、行く。(同行の人々)「夏は、大和撫子の、濃く、薄く、錦を引ける様になむ咲きたる。此は、秋の末なれば見えぬ」と言ふに、猶、所々は打ち零れつつ、哀れ気に咲き渡れり。(同行の人々)「唐土が原に、大和撫子しも咲きけむこそ」など、人々、をかしがる。
大和撫子の花が唐土(中国)を名乗る場所に生えている…おかしい… 13歳の少女がおかしがってる、、、
意味はともかく所々歌…つまり音:おんに敏感だった頃、歌がまさに歌だった頃の調べをちょっとだけ味わえたら後は翻訳文のほうにまっしぐら、、、びすこさん、ごめんなさい島風景二さんありがとう菅原道真の流れをくむ菅原孝標(たかすえ)の娘さん、あなた様は1000年後も蘇りましたよ、素敵です、口説いてません、尊敬してます☺️さて、13歳の彼女のその後の52歳までの40年の物語始まります😌
乳母の訃報に接した彼女の歌106ページ
(孝標の女)散る花も又来む春は見もや為(せ)むやがて別れし人ぞ恋しき
(桜の花は、あっけなく散ってしまう。けれども、このはかない花も、来年の春には再び咲いている姿を、人間に見せてくれる。ただし、それを見ている人間は、一度死んだら蘇ることはない。あの「まつさと」の渡りで生き別れて、そのまま死に別れてしまった乳母のことが悲しく偲ばれてならない。)
113ページ 叔母様は欲しがっていた「源氏物語」の五十巻余りを全て、専用の櫃に入れたままで、くださった。
(孝標女はこの後膨大な源氏物語をそらんじるぐらいに朝から晩まで、読書三昧だったようだ、そして更科日記の作者はその後の人生を源氏物語と共に生きることになる、更科日記の作者に対してこの本の著者島内は、、
178ページより引用…中略だから、彼女は、藤壺の人生も、紫の上の人生も、明石の君の人生も、浮舟の人生も、さらには光源氏の人生も、薫の人生も、自分自身のかけがえのない人生の体験を通して、「そうだったのか」と共感できる。「物語を生きる」とはまさにこういうことなのだろう。引用以上、、うんうん、物語を生きた人なんだ😌)
18歳になった作者は父の官職位がままならないこともあり田舎暮らし…そんな中にも恋人ができ…相聞歌のやりとりがある、想いの歌が届けられても、つれないあなたと詠み返す(これが作法とか)、、、184ページ
(孝標の女))未だ人目知らぬ山辺の松風も音して帰る物とこそ聞け
(いまだかつて人間の目に触れていないような奥山を吹き下ろす風ですらも、松の木を通り過ぎる時には、松が自分を「待つ」姿に感動して、音を立てて挨拶して、また山のほうに吹き昇ってゆく、というではありませんか。訪れもせず、声もかけてくれないあなたは、風よりも薄情な人です。)引用以上
父親は中央での活躍はならず四年間の遠出の官職の役目を終え家で老境をかこつ、作者は亡くなった姉の残したニ人の姪の面倒も見ている、そんな状況の中作者は32歳で宮仕えの声がかかり出仕することに、、259ページで僕ははっとする…作者は物語を作ることへのこだわりが強いというか作ると言う行為にがいつも頭の中にある、そういう島内の指摘に、へーそういう人、孝標女、、。
慣れない宮仕え、家では老いた両親の世話役…そんな中で結婚の話が持ち上がる33歳、家庭の中の人となる(考えてみると家庭と言う言葉も面白い)
266ページ
幾千度水の田芹を摘みしかは思ひし事のつゆも叶わぬ
(私は、一体何千回、水辺に生えている田芹を摘んだことだろう。一つ摘むたびに、自分の願いが叶いますようにという、祈りを込めながら、何千、いや何万の私の願いは、空しくどこかへ消えていった。私の人生は、願ったことが一つも叶えられない宿命だったのだ。)
この歌に関して、267 〜268ページの島内の次の文章が気になります
芹の生命力は、逞しい。摘んでも摘んでも生えてくる。願っても、願っても、望みは叶わない。だが「願う力」もまた無尽蔵である。だから、物語は、二十一世紀の今でも生まれ続けている。芹自体は不毛ではないように、物語もまた不毛ではない。現実世界では、必ずしも人間の願いは叶わない。そこで、物語が必要となる。あるいは神仏の助けが。引用以上。
結婚生活がもたらしたもの、、、ここは島内の翻訳文をそのまま引用いたします268〜270ページ
結婚したことにより、現実と物語の落差を知らされた私であるが、家庭を持ったことで、様々な雑事に忙殺されることになった。すると不思議なもので、私の人生の全てであった物語への憧れが、結婚する以前とは違ってきたのである。家事を営んでいる、物語が描かれている華麗な世界とは全く次元の異なる事柄と向かい合わなければならない。おのずと、物語という存在を、忘れている時がある。その結果、現実に足をつけるというよりも、現実生活そのままのことだけしか考えられない「実直」な人間になってしまう。そういう心境になり果てた頃の私は、次のようなことを考えていた。
「今の私の生活が証明しているように、人間と言う生き物は、物語がなくても生きていけるのだ。なのに、私は、33歳になるまで、物語の事しか考えずに、朝起きては物語を読んで、読んだら夜に寝る、と言うサイクルで生きてきた。どうして、今まで物語以外のこと、たとえばお経を誦むとか、神社仏閣に物詣(ものもうで)するとかに、少しは時間を割いてこなかったのだろうか。そもそも、私が物語を読みながら、「自分の身の上に、こういうことが起きないかなぁ」と夢想してきたことにしても、それらは現実の世界でありうることなのだろうか。光る君のように超人的な素晴らしさを持っている人間は、実際に存在するのだろうか。私は、浮舟の君のように、薫大将の愛人として宇治のような山里にひっそりと囲われていたいと熱望していたけれども、そんなことが自分の身の上に起きる確率は、限りなくゼロに近い。ああ馬鹿らしい。そんなことがありうると信じていた自分は何とつまらない考えに取り憑かれていたことだろう」。
ところが、これがまた不思議なことなのだが、ここまで物語に対する懐疑心を抱いた当時の私は、心を入れ替えてひたすら日々の現実世界の中で生きる喜びを見出そうと、思い切ったわけでは無いのである。引用以上
宮仕え仲間の女性と孝標女はふとしたことから源資通(すけみち)と出会う機会を得て、巡るゆく季節について3人が語り合う、、君はどんな季節が好きですか…
295ページ
(孝標の女)浅緑花も一つに霞みつつ朧に見ゆる春の夜の月
(源資通すけみち)今宵より後の命のもしも有らば然(さ)は春の夜を形見と思はむ
(同僚の女房)人は皆春に心を寄せつめり我のみや見む秋の夜の月
なんて、なかなかありえない宮中での会話を楽しみ、その後も資通と遭遇する場面があるのだが傍目もある中、すれ違いのまま37歳の年は終わる。
作者38歳、天皇の交代もある中、息子をもうけ、最も安定した身分を得ており経済的には裕福になり、若いときにはできなかった神社や仏閣など物詣ものもうでも自由にできるようになった毎日…父母がなくなっていることが日記に記されている。
宮中では大嘗祭が営まれている中作者は奈良の大仏詣をしている、大嘗祭見物よりは若いときにはできなかった神仏の加護のチャンスを優先し、貴族社会しか知らない人々たちに比べ作者は下層の人々の生活を垣間見ている。
334ページ
(孝標女)音にのみ聞き渡り来し宇治川の網代の波も今日ぞ数ふる
(宇治川の網代は、これまで何十年も噂でだけ聞いて、和歌や物語の描写を理解したつもりになっていたが、まさか、ここまで風の音が激しい環境の中に設置されているとは思わなかった。冬風が強く吹き付けるので、網代に打ち寄せる波の数は無数にあるが、今日はそれをまぢかに見ているので、数えられるほどだ。)引用以上。
この先の物語は老年時代の時間の経過に前後が錯綜する、…それを島内は… 339ページ…中略…三島にならって言えば、「老年時代から回顧する人生は、時間と空間の紛糾した舞台であった」という、孝標女なりの「仮面の告白」が試みられているのではないだろうか。引用以上
(三島由紀夫は、「幼年時代とは時間と空間の紛糾した舞台である」(「仮面の告白」)と述べている。… 338ページ)
宮仕えの苦しさもかつての同僚と分かち合い、過ぎていく日常…そうこうするうちに、、50歳になる作者と56歳になる夫との生活…夫はその年信濃の国の国司に任命される、15歳になる作者の男の子も随行するが、一年後突然夫はあっけなく亡くなる、島内は最後のところで更科日記の「さらしな」の意味するところを「古今和歌集」に「更級や」とあり、、姥捨山の想起からの連想から来ていると言い、おそらくは孝標女もそれを受けての自身による物語のタイトル付けだったろうと言っている、389ページ。
さてと、日記も晩年にかかります、、、
38Iページ
さすがに、命は、憂きにも絶えず、永らふめれど、(孝標の女)
「後の世も、思ふに叶わずぞ有らむかし」とぞ、うしろめたきに、頼む事、一つぞ有りくる。
あ、ごめんなさい…これより引用は訳によります、、、
382ページ
夫の死によって、人の世の無常と、人間の命のはかなさを痛感した私ではあったが、まことに不思議なことに、どんなに生きることが辛くても、そう簡単には死なせてもらえないのが命であるということも、また、人の世の真実であった。ただし、私には自分が「生きている」という実感はない。何だか悪い夢を見ているような、ふわふわと空中を漂っているような気持ちで、命を永らえているだけである。私は、「こんなことでは、来世での極楽往生もできないだろう」と、不安でならない。だが、こんな私にでも、たった1つだけではあるが、来世での幸福を得られるのではないかと、期待できる根拠があるのだ。そのことを、ここで書いておきたい。引用以上。
この後作者は阿弥陀仏の夢を見る… 384ページ…すると、阿弥陀仏は、「そうか、まだ、この世でしたいこと、見たいことが、そなたには残っているようだな。そういうことであるならば、今回は、このまま極楽に引き返そう。また後で、そなたを迎えに来ることにしよう」とおっしゃるお声が、私の耳にありありと聞こえた。けれども、私以外の家人にも、女房たちにも、そのお言葉は聞こえていないようだった。引用以上。
訪れる人も少なくなってきた晩年期の作者の歌をいくつか挙げておきます
394ページ
茂り行く蓬が露に濡ちつつ人に訪はれぬ音をのみぞ泣く
(私の庭は、手入れもしないので、荒れ放題で、蓬が生い茂っています。その蓬に露がびっしりと置くように、私は荒れ果てた庭を眺めながら、懐旧の涙に浸っています。「源氏物語」の蓬生巻で、荒れ果てた庭園に住んでいる末摘花を、光る君が数年ぶりに訪ねてくださったように、あなたが訪れてくださったならば、一人で泣いてばかりいる私の涙も乾くかもしれません。ぜひ、お訪ねください。)引用以上。
395ページ
世の常の宿の蓬を思ひ遣れ背き果てたる庭の草叢
(私が住んでいる家に生い茂っている、一面の蓬を、想像してみてくださいな。私はあなたとは違って、出家していない俗人です。けれども、姿こそ俗人ではありますが、心の底からこの世を捨てきっています。この世のすべてを捨てきった私の眺めている庭の草叢を、思いやってください。きっと、尼であるあなたの住んでおられる庭の草叢よりも、私の家の草叢のほうが、蓬の高さも、露の多さも、増していることでしょう。)
(飛ばし読みしたにしては…時々考え込みました。一人一人は本当に宇宙ですね。1000年前を生きた女性と1000年後を生きる僕ら、袖すり合うも多少の縁は浅からぬ縁だなぁと、時々人間嫌い、たびたび人間大好きになる僕自身、ナルシストよろしく自分を好きにならなければやっていけるもんじゃない、あはは、あ、そうだ最後の方で触れた孝標の女が夢の中で出会ったという阿弥陀仏…で、思い出した…最近会った甥っ子の長女…来年小学校だとか…やけに僕になつく子と思ったら…憂い顔が、幼いときの母の写真にそっくり、お手洗いで座っていたらそれを思い出し…多少の縁は多少じゃないと来世を信じない僕が、妙だけど、悪くはない気分を味わいましたっけ)
三島由紀夫の「仮面の告白」は読んでいないので、引用された言葉は知りませんでした。でもその通りだと思う。この作家と自分とは何の共通点もないのに、自分の人生もまた本当に紛糾していたと、越し方を振り返って感じる。
そうですね、1000年前に生きた人に共感を覚えることは多々ありますね。日本の場合、多くの(といっても他の国々に比べて、という意味ですが)女性が日記を綴って日記文学をいうジャンルを作ってくれたので、遠い祖先を身近に感じることができるのでしょう。加えて華やかな女流歌人たちも本音や望みや溜息や諦観や気取りをあまた残していて、その人達と(ウーマン・トゥ・ウーマンで)語り合えるという贅沢ができる国は、他には無いと思います。
当時の女性の寂しい最晩年が千々の思いを結晶させたということもあるのでしょうね。虚しさや侘しさと向き合わざるをえなかった。何やら浮かれて騒ぎ立てて終わる老年期も、まあ、悪くはないでしょうけど・・・
田芹はキンポウゲ科なので有毒なんじゃないのかな。近年は田舎の植物すらグローバル化して、うちの辺りの小川にはクレソンが繁殖しています。これはアブラナ科だから心配なく食べられる。ステーキの飾りだけではもったいない。
蓬については、先日アブサンとかヴェルモットの話が出ましたね。日本の蓬だって蓬餅になるくらいだから、香りは強い。蓬髪とか廃屋に茂る蓬とか、余りいいイメージがないのは残念です。あの話をしたあと、一昨年に日本で蓬の野道を歩いていたときのことを思い出しました。
・遠い香の記憶たがわぬ蓬道 びすこ
それにしてもこれは長い本ですね。読み通す忍耐力・持続力は若い人に勝るとも劣らない。そのダイジェストを示していただいて、ちゃっかりただ乗りしたような気分です。ありがとうございました。
追加:
この女人もまた、人とのコミュニケーションに飢えていた。自分を物語の登場人物に置き換えて楽しんでいた若き日から、現実の檻の中に生きるほかない身となって、それまでの人生は幻だったと感じる。「未だ人目知らぬ山辺の松風も音して帰る物とこそ聞け」そうか。訪い(おとない)とは音を立てることなんですね。静かな暮らし、とかいうけど、何の音も聞かない日々は生きていることすら忘れさせたのかもしれません。だから暮らしの賑わいとして鹿威しや風鈴を思いついた・・・のかな。