女たちのロマネスク…「にごりえ」から「武蔵野夫人」まで:光村図書1984年11月刊
6つの作品を取り上げています。読んだものもあるし読んでないものもある(にごりえ・金色夜叉・雁・或る女・痴人の愛・武蔵野夫人)読んでないものも読んだ気になりました。(僕の母が若い時分、母が見た映画を他の人に話すと、聞いた人が…〇〇ちゃんの話を聞くと映画見た気になれるわとよく言われたという話です。それと紙芝居を一時やっていた父が「語り」がそこそこうまかったろうと…これは想像です、なんでこんなことを言ったかというと…僕も語り部になれたらなぁと小説を書く野心を抱いているからです。誰かに読んでもらいたい、というよりは作り事を書く行為を通して自分がどう変わるか見たいのです)この著者が作品の生まれた時代環境と作者の事情を説明してくれるのですが、それだけで小説のキモを読んだ気になります。小説の成り立ち、つまり外堀を埋めていって、そのカラクリを明かしてくれるからだと思いました。森鴎外の「雁」が最初から最後の着地まで、最初からしっかりと構想が組み立てられているところから来ているという解説を聞いていたので、この小説の最後のところを読んだだけでわかった気になれるのだと思いました。
孫引きになりますがこの小説の最後のところを、この本のページから引用します、引用文の中の岡田と女は男女の交わりはなくても強く意識しあっている、岡田は明日にも洋行と言う状況、、
128ページ
…。果たして僕の想像は僕を欺かなかった。女は自分の家よりはニ三軒先へ出迎えていた。僕は石原の目を掠めるように、女の顔と岡田の顔を見較べた。いつも薄紅に匂っている岡田の顔は、確かに一入(ひとしお)を赤く染まった。そして彼は偶然帽を動かすらしく粧って、帽の庇に手を掛けた。女の顔は石のように凝(こ)っていた。そして美しく睜(みは)った目の底には、無限の残惜しさが含まれているようであった。
どうですかこれだけでこの物語全体を類推する事はそんなに難しくないのではないでしょうか
ところが「或る女」のほうは解説読む方だけで…果たして僕はここまで読み込めただろうかと思いまして、簡単にシャッポを脱ぐ(:降参する)気になりました、著者は生き物としての女を持って回ったほのめかしを感じさせずに表現していると思いました、舌足らずな言い方ですいません(偉そうですが残念なことに僕は解説から感想ぱくってます、あはは)
引用します…どのシーンを描いていると言うよりは文章をちょっと引用したかったのです… 167〜168ページ
…。人間を眺めあきたような気倦るげなその眼は、濃い睫毛の間からinsolentなの光を放って人を射た。葉子はこうして思わず眸をたじろがす度毎に事務長に対して不思議な憎しみを覚えると共に、もう一度その憎むべき目を見すえてその中に潜む不思議を存分に見窮めてやりたい心になった。葉子はそうした気分に促されて時々事務長のほうに牽付けられるように視線を送ったが、その度毎に葉子の眸はもろくも手きびしく追い退(の)けられた。
引用以上
(金色夜叉の解説を見ると貫一とお宮の明治の富国強兵、日清戦争後の経済界の活況を下敷きにした当時の人の「金銭感覚」の現実性に正直な庶民感覚も反映していると思いました、その時代の金銭感覚を類推しながら本を読むことで読書の楽しみは倍加すると思いました)
著者名が明記されてないので書名もちがっているのでは、これは何かの間違いかと思って調べてみました。副題と内容から、今岩波文庫に入っている前田愛さんの「近代文学の女たち : 『にごりえ』から『武蔵野夫人』まで」の初刊本だとわかりました。「女たちのロマネスク : 『にごりえ』から『武蔵野夫人』まで」(光村図書出版 1984年刊) の改題。早世された前田さんとは筑摩の「近代漫画」というシリーズの企画段階で随分お世話になって藤沢のお宅に何度か通ったことがあります。
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