武蔵野夫人:大岡昇平著:新潮文庫1953年6月刊
最近のKBCのLINEトークで…武蔵野ってどこ?ということがちょっと話題になりそれがきっかけになってクレマチスさんがこの本を紹介、僕がすぐに「イモヅルして」図書館にリクエストした本です、武蔵野夫人と言うタイトルはこの小説にぴったり合っていると思いました、結末の道子のうわ言に父親に対する思い(重し)が交錯するようで、感動的で、悲しくて、重く、かつ象徴的でした(私見)。状況は不条理に変化する、僕らはある意味、武蔵野の風景(心象風景も含む、与えられた「状況」の中で無理矢理、戦争体験させられる!この小説の真骨頂だと思いました、(戦争体験:本人の成熟度、年齢、経験とは関係なく否応なく突き付けられる現実、選び取らなければいけない現実の、つまりはその疑似体験)
第二次世界大戦後から、十年一昔になる前の話…武蔵野の風景の中に男女の思惑が交差して最後まで飽きさせない。作中の人物が読み取った人物評価を第三者の目でつまり著者の目で解説していく二重構造の緻密な念の入りようだ。つい、ツボにはまってしまう。感情移入して気持ちの動きについて行く分、肩が凝るわけだ。ちょっとした弾みやきっかけが登場人物のの人生を変えていく。人同士が行き違ったり勘違いしあったり秤にかけたりかけられたりすることで何とか体裁を保って織り成す綾(体裁を保ってないことも含めて)、これからも多分変わらない人間模様。今から70年前に書かれた本であることに改めて驚く。変わらない人間の一面を見た思いもいたします。
単純な僕は…男女間の事は趣味の問題ではないかと思い切って言ってしまいたい。色を好む、のは男も女もおんなじだとも言ってみる。あ、そうだ僕の感想を思いつくままに箇条書きにすれば僕自身が浮かび上がる…やってみよう。文章の辻褄合わせ、論理展開よりもパッチワークの方が自分自身を表現できることもあるような気がします。それで本の感想に蛇足を承知で以下付け加えます。
と、その前に、、、このコーナーの体裁を整えるために引用を少し…道子の夫、秋山 と 道子の従兄で富子の夫大野、道子の従弟の勉、大野の会社の社員貝塚(共産党員)が大野の家に寄り合って、その会話
57ページ
勉は黙って下を向いていた。彼の女学生達との交際はやや集団婚に近いものであった。男の学生はしばしば女を交換し別に嫉妬も起きなかった。ただ彼はそれがちっともいいものだとは思っていなかった。楽しくなかったからである。
彼は今問題になっているエンゲルスの本を友達から薦められて読みかけたことがあった。しかし冒頭に人類が食料獲得の不確実から、互いに喰い合った時期があったということが、ほとんど当然のこととして記されてあるのを読んで、後が読めなくなった。彼はビルマの前線で人肉を喰うのに人間がどんなに良心の苦しみを冒さねばならなかったかを知っていた。人肉喰いが人間性の自然の結果であることを認めるのは、彼には苦痛であった。引用以上。
(この暗い記述も、著者自身戦争から帰ってきてまだ間もないと言える時期に書いた小説であることを思い出してください)
これからこの本を読む方の邪魔にならない程度にちょっと紹介させていただきますと、、本の筋立てとしては…勉と道子(秋山の妻)、勉と富子(大野の妻)、秋山と富子、が男女関係に絡んで行く話です。
※ さて、以下はぞろぞろとこの本を読みながらメモした僕の感想です、前述したように、支離滅裂なので、チラ見していただければ充分です。
たで食う虫も好き好き…それで済めば世の中世話は無い。美男美女はいつも不足している。したがって美男美女がいればただでは済まない。生活力と人間の価値は関係ない、関係ないが人間をあぶり出し、光と影を与える。お金は社会全体に不均衡に存在している。個人は本人に関係ないところで育まれる場合が多い。生まれた場所に人間は責任を持てない。生まれ落ちたところで人生の半分以上決まる。人は不均衡にして生まれてくる。生まれた瞬間にたくさんの洗脳が、、生まれ育っていく中からさらなる洗脳を受け与件のなかで、自分の文法を作っていく。そのぐらい僕らは不公平に、不条理と言えば格好がいいかな、取り囲まれている。そうした途中で人間関係を結べば、力学的に不均衡を生み出し、ましてそれが男女間であれば物語は生まれるべくして生まれていく。ギャップを埋めたくなる人情がベクトル(力の大きさと方向)の決め手、なんてね。
小説は一般的な定石を学ぶのにとても良い実践書だ。知らないことを経験する。畳の上の水練も知らないよりマシ。男と女の化かし合いの中に、真実が混じってくるからややこしい。それは実際の肉体関係とは関係ないこともあるから、熟慮を要する。肉体関係に大いに関係することもあるのでさら熟慮を要する。ややこしくなるから本能が知性を上回ってしまわないようにする。聖人君子であろうとするととても無理なことが早晩わかる。では人間どうしたら良いかというと…たくさんの悩みを抱えたまま本能と折り合いをつける。人が集まればややこしくなるけどそのややこしさを上回って社会あるいは共同体の推進力にもなっていることを認めれば妥協点は見つかるだろうと思う(そんなに簡単にいかないことは承知)人が集まって、集まることにおいて便利なことが不便なことをしのぐので我慢して社会を作り続けなければならない、こう結論してこの本の感想を述べることを避けます。僕はフランス人のように考えない。奥があることを知っていても奥に行かない。楽しいと思っても自分は楽しめないと思ったらあっさり身を引く。そのかわりこんな手を使う、例えば…頭の中だけで人を犯す事がある。これは犯罪では無いのかと思いながら。小説のテーマにもしたいと思ってる。
アバンチュール(こんな言葉が一時流行った事はありませんでしたか?)を楽しんだ話とか、ああしたこうしたという男の自慢話、それに比べれば、まれにですが女性のそれもまた聞くに耐えません。何が純潔で何が不潔なのかも僕は、男女関係に疎いのでよく分かりません。
所詮人生の楽しみ方の問題ではないのか?それとも別に…それが1番人生で大事なことなのではないか?女も男も時期が来れば色っぽくなる、そんな自然の摂理がどうしてややこしい問題になるのか、そこをゆっくり考えれば僕らはもっと暮らしやすくなるんじゃないか?割れ鍋に綴じ蓋…たで食う虫も好き好き…これは単なる世間の知恵ではないと思います。不公平は存在する…それをどうなくそうかということも…不公平がない世の中を作ろうとすることも含めて(不公平をなくそうと言うよりは不公平を利用しようという力の方がいつも強いと思っています、公平なんて人によって解釈がいかようにも動くからです)少なくとも僕らは他人の一部を構成していると思えば謙虚になれると思いました、どうしたってそこは避けて通れない、自分一人では到底暮らせないのだからとさっさと観念する。
そもそも人間に精妙に埋め込まれた意識を乗り越えるものとして衝動的な性衝動をセットしておかなければバランスが取れませんよね、そんな生きていくために必要不可欠な爆弾みたいな、ややこしいものを抱え込んだまま生きているという事をいつも念頭に置いておく必要があるのかもしれません
これは僕の偏見かもしれませんけど小さな女の子が性衝動を抱えて叫びだすのをなんとかこらえてバランスを取ろうとしているところを最近見たことがあります
勘違いかもしれませんけど感動的でした。知性だか何だか知らないけどそんなものでなんとか抑えこみ、なだめすかして僕らは成長していく、この現実を子供の立場になってよーくしみじみ思い起こす事は大人の責任ではないでしょうか
マインドセットなんて言う気の利いた言葉が発生する前に僕らは既にセッティングが終わって世の中に出てくる。その現実をこそ認め、訪れる次の事態に備えることが僕らの課題だと思います、そんな当たり前のことを行ったり来たり逡巡しているなら、僕らはすでに頭がおかしいのではないかと思います。迷っている場合ではない(自分で自分を引き立てています)。
大岡昌平はこの小説の話の中で何度も何度も怖いものを見たという表現を使っています、戦争体験が反映していると思います。普通に平和に暮らしていれば見なくても済んだものを見させられた、覗きたくもない人間の深淵を突き付けられて、見させられた正直な吐露だと思いました。人の心の闇を見ずに死んでいく人もたくさんいると思います。見ることが良かったのか悪かったのか僕にはそれもわかりません。見ずに死にたい人だってたくさんいるはずだと思います。与えられた状況が悲しいゆえに、こんな人(暗部を見たくない人、でもなぁ…遭遇しちゃうんだよなきっと)の方が多いのではないでしょうか。かつて僕は苦労が身につかない人を軽んじていた時期がありました。今はそうは思いません。苦労したことが身に付かない、勘違いですます。これも人間に仕組まれた素晴らしい能力ではないでしょうか、あえて奥に行かない、追求しない(ここちょっとだけ保留…死ぬまで保留したりして😉)
スタンダールやマルクスをまとった人間も出てきますがまぁ、借り物の薄っぺらいビラ扱い(私見)。俘虜記を書いた著者が男女間を冷めた目で見ているので、安心して読み進められました。僕は、猫や犬がじゃれあったり、ちょっかいを出したり、いじくりあったりする…男女間もその延長としか見えない。それも含めて好もしい…という予定調和的な結論を僕自身は温めているのだと思います、たぶん)
…今回も読み終わってびっしり肩が凝りました。昨日の昼過ぎから降り出した雪や寒さのせいばかりでは無いような気がいたします。登場する人物の気持ちにいちいち情移入していったせいだと思いました、あ、大体みんなそうなのかな…感情移入できるように書くもんね普通、ぷっ。
男も女も観念的な勘違いの中で行き違いを理解しないまま自分の都合の良いように解釈して死んでいくとまぁ思い切って言ってみても大きくは間違っていないと思いました。たとえそれが間違っているとしても、そう考えていた方が謙虚でいられる、アクセルを踏みこまずに済む。
他人なんて気にしたらきりがない。人って食べ方まで気になるし飲み方まで気になるし喋り方とか声のトーンとか体型とか顔つきとかいろいろな癖とかの好みまでちゃんと決まっているのかな。その辺、単なる自分の作られた好み、作った好み、と考えればそういうことに対しても楽になれるんじゃないかな、というかそれも含めて楽しめる(ところがどっこいそれが案外難しいみたい、例えば僕は長いこと…計算ができない女の人が好きになる傾向がありましたが…もし一緒に暮らすとなれば…それが逆に欠点になる…自分の身に降りかかってくるからね…ことほど左様に立場が変われば考えも変わる)
男の計算高さも女の計算高さも同じようなもんじゃないでしょうか
目くそ鼻くそを笑うみたいなもん、そもそも計算高くなきゃ世の中渡っていけないでしょう。利用したり利用されたり自己ブランディングしたりブランディングされたり、はたまたそれを利用する奴がいたりして混乱に乗じて漁夫の利を掠め取る、これも社会の常道のような気がします。
はいおしまいにします、、ここまで、うっかり、ばかっ話にお付き合いくださった方ありがとうございました。
(何やら難しい解説が巻末についていましたが多分読んでもわからないので読んでません、今日のところはこれ以上奥に行きたくない気分なのです、今日は夕方から兄とちょっと出かけます、このコーナーもちょっと間をいただきます)
武蔵野といえば、昨秋に読んだものがきっかけで私の心を占める心象の一つになっています。読んだのは更級日記の中の「竹芝寺」というごく短い章で「今は武蔵国になりぬ。ことにをかしき所も見えず」で始まります。この武蔵国についてはいずれブログで取り挙げようと思っていますが、今回大岡昇平が出てきたのはへええという感じ。
私はこの人の作品は読んだことがありません。ただいろんな評論家の書いたものを読んでいると出てくるので、その履歴のあらましは知っています。35歳の老兵として戦争に取られフィリピンで想像を絶する体験をする。彼がその警備員だったミンドロ島に渡った日本軍兵350人中で60人のみが帰還。大岡は奇跡的にその60人の中に入っていて、帰国後の自分の人生は「余生」とみなしていた。
あと、あらすじで読んだところでは、武蔵野夫人の秋山夫婦の場合に夫は30歳、妻は18歳で結婚となっていますが、おや、これ私の父母と似ているなあ、などと感想が妙な方向に向きました。結婚したととき父は29歳、母は17歳、まあ当時は特に珍しくもなかったのでしょう。無知で無邪気な母は結構もてて、父は母の周りをうろつく男がいると激怒し、たまたま訪ねて来て室内で和裁をしている母と窓にもたれて話し込んでいた村の男を帰宅して目にした父が、その場で彼の妻に電話して「亭主を連れに来い」と怒鳴ったそうな。いや、母は本質的に異性に興味がなかったので、浮気なんてありえなかったのですが。
私も50歳過ぎて結婚した今では「他の男に目移り」なんて、全然分かりません。自分の相手さえちゃんと見てないから。昔から恋愛小説はちょっと苦手で、このところ、もらって来た本の何冊かをパラパラめくってみて、うーん、こういう登場人物やシチュエーションを考え出す作家の頭の中はどうなっているのだろう、それにしても凄い想像をするもんだな、エッチだな、なんて考えてしまいました。(でも上記の「竹芝寺」に出てくる武蔵野出身の火焚き衛士と京の姫のカップルはすご~く好きです。)
作家といえば、女性作家の場合に特に面白いと思うのは、年齢が上がるにしたがって相手の男が若くなる。サガンなど最初の頃に書いたのは若い娘と「おじさま」の恋愛だったのが、サガン自身が50過ぎると相手の男が20代になったりする。
若者にバアサンが慕われ恋されるなんて、ただのむなしい「願望」とちゃうか、なんて思っていたら、マクロン現大統領夫妻のまさかの25歳の差と言うのもあって、さすがフランス、なんでもありなんですね。でも日本の小説(私が読むのは短編が多い)でもその手の話は結構ありますよ。これも読んだことないけど、瀬戸内晴美なんかもその系統ではないかしらん。
そうか、潜在願望をどんどん無制限に膨らませていくと、文才のある人はとんでもない恋物語を書けるんだ。