幸田露伴著「努力論」: 訳・責任編集:齋藤孝(小さな努力で「人生の幸福」を増やす法): イースト・プレス2010年5月刊
はじめに、、、中略…だが、いかんせん大変な文豪。教養が高すぎて、この本の原文も漢語調、現代人にはとても歯が立たない。そこで、本書では、文脈・論旨を曲げずに読みやすく「書き下し」た。
引用以上
と、ある。この本も図書館のオススメ本です。
この本は僕が若い時に読んだら大変役に立った本だと思いました、
飽きっぽい僕に適切な助言がちりばめられていたからです。考えてみたら僕はいつの間にか飽きっぽいという性格を克服していました。きっと30年以上やった仕事のせいだと思います。便利屋という職業は飽きるということは無い。目まぐるしくお客の要求に対応していく仕事だからです。次から次にいろいろな仕事が舞い込むので飽きている暇がない。今もそうです、飽きる前に目先が変わる(一時的にしろ太陽がサンサンと当たる、夏は蒸し風呂になる家だったのが、今は、まさに日陰の陋屋、しっかり目先が変わりました、この家で我慢して住むしかないのでいろいろ工夫をしないと、居心地が悪い、寒い。集中するも散漫になるも関係ない。あちこち直さないと、とてもじゃないけど住んでいられない、いじる、直す、工夫する…つまり、それは僕の好きなことで、好きなことだけやっている感じなのです。ですからこれはどなたがやっても同じことだと思います。飽きている暇は無い。
若い時、つまりお勤めしている時にこの本を読んだら身に付いたとさっき言いましたが…多分わからなかったかもしれません。なぜって仕事のペースは他の人が作るからです。勤めている限り自分のペースでは仕事ができない(ちょっと大袈裟ですけど)。
仕事の話が出たついでに、、、これは自慢の一つですが…僕と一緒に仕事をしていた人たちが僕に言ってくれたこと… (工賃は安いけど)仕事が自由にできたから長居(ぼくのところで仕事をしたという意味)したんだな、、と言ってくれたことです。だって、それは僕が一番気にしていたところだからです。僕だったらそうしてもらいたいから…これも今気がついたことです。仕事はどこでやっても同じ、でも気分よくやってもらいたい…ただ僕はウォッチャー(監督官)を置く管理費が惜しかった。だから仕事さえきっちり納めてもらえば文句は無し(共同でする仕事を極力少なくしました…一人一人が一人親方)結局は僕自身が手抜きをしたかったからだった。露伴の考え方をなぞっていくと自分自身の振り返りになりました。
ところで福沢諭吉は自分でも何か商売をしていたと思う(うろ覚え)。商人で一番大切な事は日々軽々の損に留意し一時の大損にうろたえるな、というような意味のことを言うぐらいだったから。露伴も商売をしていればきっと上手だったろうなと思いました。うへー、ごめんなさいこの僕が商売論!(身の程知らずにも程がある😅)僕の自慢話(腐るほどある、聞きづらい、一般的な男の自慢話、男は女にモテたいので所詮自慢する動物、男の性:さが?)で話が終わるのが恐縮なので、引用します
194〜195ページ
社会のわずらわしい出来事やもめごとは、世俗の文明にはつきものである。言い換えれば、世俗の文明というものは、われわれの生活の本質にはあまり関係のない多くの無用な物とこまごました雑事を提供するだけのことである。この世俗の文明が真の文明であるなら、文明というものは、われわれにとってさほど感謝すべきものでも期待すべきものでもない。
電信電話ができ、蓄音機や映画、自動車やモーターボート、飛行船や飛行機、水雷艇や潜水艦、タービン式の快速軍艦や壮麗な郵便船ができ、広くて美しい住宅や劇場が建ち、ガスや電気が夜を飾り、めずらしい飲食物が胃を満たし、軽くて暖かい衣服が身体を包んでくれる。
これらすべてのことの発達と進歩が世界の真の文明であるなら、文明というのは結局のところ、われわれの五感に目まぐるしい刺激を与え、われわれの真の生命のエネルギーを無益に表示させるだけのものである。そして、われわれから真の生活の意義を断片的に奪い去り、盗み去り、真の生命を絶え間ない小刺激で麻痺させ、その本来の精神活動を発揮し展開する閑を与えないで、外界との応酬に忙殺させて死に至らしめるだけのものである。引用以上
(この本の中で露伴は「分福」について語っていて…家康は、それ(配下に対する報償)が少なかったから子孫が明治維新でまずった…みたいなことを言っていましたが…おいおいそれは言い過ぎだろうと僕は思いました…家康が悪いんじゃない…あまりにも長く続いた平和の代償だろうと、、
家康も露伴に反論したかったろうなと思いました(それと同時にそのような大胆な言い切りが露伴の魅力なのだと気が付きました、そういえばな名を残すような物書きは誰でもそれがうまいなぁ、、あ、ばかばかそれは言い過ぎ…もとい!文豪は尤もらしい我田引水が、うまい…あー😮💨だめだ所詮僕は三文文士がいいところ、、一文文氏イチモンブンシ、あ、これでいこう、一言文子、決定❣️ひとことふみこ、このペンネーム1000円で売った!誰か買って😉せこい!僕に合ってる🤪ん?瀬古一丸?)。さ、今日も兄と会った後で、本読むぞ😘
いちまるさん、まあ、こんな難しい本を。これ、青空文庫にあるので原文を読み始めましたが、今のところ読み終えたのは「自序」だけ。これで全体の100分の1くらいなんだわ。日暮れて道遠しってこのことね。
訳・責任編集:齋藤孝ってあるのが可笑しい。確かに漢字がやたら多くて知らない表現も頻発しますが、ゆっくり読めば意味は分かります。でも現代人はその「ゆっくり」ってのが苦手なんでしょうね。私はもはや現代人ではないから、これから時間をかけて読んでみようと思います。
外国語を学んだ経験が役に立つのは、文法を一通り知っていて辞書を脇に置き、時間さえ気にしなければ、8割がたは理解できると分かっている点です。で、露伴さんの原文も一種外国語と考える。ただしこれは読解力だけで、話す・聞くという能力に関しては、瞬発力や反応の速さ・適格さなど、運動神経系の資質が求められるので、齢とるともう格段に不利ですけど。でも、露伴と露伴語で話すことを要求されることはないから。
自序の最後の方に「三阿僧祇劫」って言葉が出て来ました。パソコン辞書が使えるのが本当にありがたい。でないと、いかに暇な私でもやる気が萎える。
これを読みながら、かつて(今は廃れたらしい)パブリックスクールの生徒がギリシア語やラテン語の古典を読まされたときの苦労を想像してしまいました。習う方も大変だけど、教えるチップス先生の苦労も偲ばれます。あら、私、いまやそのチップス先生よりも年寄りなんだ。