アメリカの大学の裏側:アキ・ロバーツ+竹内洋著:朝日新書2017年1月刊
クレマチスさんが今朝KBCのLINEトークで今またぼくらを脅かすコロナウィルスの新型の対処情報を詳しく述べた最新の12月25日号の「デモクラシータイムス」を紹介してくださいました。ウィルスのタイプに合わせ当然、対策も変わってきますが正しい対処方法の周知徹底の遅れが命取りになる、この時期、ウィルスにとって空気伝播の好条件、集合の機会の多い年末年始の行事、受験シーズンとも重なり、ちょっと気を許せば蔓延の恐れがある中、ポイントを押さえた貴重な情報です。
それにしてもそれとは別に政府筋の情報発信の根拠が気になります。発信するためのキーポイントに絞った情報をどう結集しているのか…素人のぼくらとしては日常化したコロナ禍の試行錯誤を通じて学んだプロフェッショナル集団の最先端科学の知見のエッセンスが流れてきている思うのが正直な気持ちですよね。首相が国民に流す情報はどのように作られているんでしょうか。専門家はどこにいるか、知見はどのように議論しどのように結論しどのように国民に流してくれるのか。
令和と共に歩んでいるコロナ禍、来年もまだまだ続きますね。昨日図書館の閲覧室で読んでいた本が冒頭の本です。情報の受信者として何かヒントになるものがありはしないかと思い取り急ぎこの本を取り上げてみました(どうつなげようって言うんだろう…ちょっと強引ですが、ぼくにも都合ってものがありまして…)
アメリカの名門大学、営利大学(大学経営はビジネス、と認知している大学:私見)、、テニュア・トラックのアシスタント・プロフェッサーなどの位置づけと役割などを日本の制度と比較しながら我慢しながら読んでいくと、、多分日本と変わらない利権にしがみつく「枯れ木」教授の必然的存在だの、かつてあった教養課程、就職面の不利からあまり人気のない社会学科などの軽視、それに反し就職に有利に働く数理系専攻の箔付け重視の歪みなど、著者自身がアメリカの大学の教員として内側から観察したアメリカ大学の分析(伝統、人種、貧富対応の有利不利などと、卒業後の待遇調査)になっていました。ざっくり言いますと、、予想されたようにアメリカはやっぱり資格社会だなぁと思いました。大学に行く目的の一つにアメリカも日本も社会の上層部のプレーヤーになるために良い学校に行き社会に出たときにさらにキャリアアップを積める地位を手に入れる、ということがあると思います。ま、ぼくごときが心配することじゃない事はわかってます。それがどうこうじゃなくて、行政手腕のまずさは、学会の手綱さばきのまずさ…逆に言えば学会の行政に対する毅然とした主張のなさが露呈したような気がしたからです(今つなげている最中です😉学者連中がんばれ)
今回の新型コロナについて、デモクラシータイムズで取り上げている内容をなぜ岸田さんは発表しないのかが不思議でしょうがない。学会の集合知を利用していない、おいおい大丈夫かみたいな感じで受け取ってしまいます。発表するからには、知見の集合知であって欲しい、何事も疑りっぽいぼくは政界学会のセクト主義?のとばっちりを国民がもろに受けているのではないか、いま官僚行政研究機関のネットワークの欠如をぼくらは目の当たりにしているのじゃないかと思ってしまいます。
専門家が対応すべき行政窓口に素人集団が集まっている事実は少しずつ知られてきました(ジェネラリストがスペシャリストにはなり得ない事実)力関係の誇示は後回しでいいからというかそんなもん捨ててもいいから、、「産学共同の利点」を最大限発揮してほしい。つらつら見ているといい大人同士が国民をダシにした力関係の内輪もめを見せているようにも思えてきました、おふざけも大概にしてほしい。
(大学に行く目的の大きな1つにアメリカも日本も社会の上層部のプレーヤーになるために良い学校に行き社会に出たときにさらにキャリアアップを積める地位を手に入れる、ということがあると思います、高級官僚の地位もそうやってつかんだ…その問題は今日のところは一時棚上げにして、問題の局面つまり今回のようなコロナ騒ぎの場合行政+産学共同で行ってもらいたい。とゆうぶっちゃけた話続きます)
なぜことはそうのように簡単に運ばないかを考えてみました…毎度のことながら官僚は法律を盾に予算を例えば学会の手綱のコントロールのための手段として使う、また、かたや、大企業の代弁者のように振る舞う政治家、旧態依然とした組織の職制を始めとする利権は手放さない大学教員、命運はパトロン次第、あるいは国民健康保険制度にべったりの医学界、それらの間の覇権争いとわかりづらい綱引き、制度疲労、もう飽き飽きだ…と言ったところで、後がつかえたまま組織上層部が変わらなければ、まだまだ続くだろう、金と権力の魅力は尽きないから。多分誰だって、棚ぼた式にせよ、努力した結果にせよ、いわゆる利権にありついたときそれを簡単に手放すだろうか、自己保身に走るんじゃないか。自分はそうじゃないというから話がコンガラかる。時間の経過に任しておけば組織はくたびれていく。腐敗ではなく疲労。そういうもんだと決めた方が角が立たない、いつだって立場が逆転する可能性があるからなおさらだ。たなぼたを期待するのは人間の性さが。あー、長い前置き。
そういう事情は先ほども言った通りコロナ騒ぎのような国民的大問題の際には組織も利権も思惑も覇権争いも一時棚上げにして、最適解を出してもらいたいものだ。緊急事態においては利権だの覇権だの学術論争だのは凍結して鳩首談合して最適解を示すのが国民の付託を受けた公僕たる官僚組織の役目、最新の研究結果を以って社会に貢献するのが研究者の役目、人の命を守るのが医学界の役目じゃないんだろうか。こんな小学生でもわかることを複雑にしているのは誰だ、許しているのは誰だ、ごまかしているのは誰だ、政治家何してる、行政、つまり法律を整備して官僚に指針を与えるのは政治家じゃないのか、法律に則り国民を守るのは公僕としての官僚組織じゃないのか、国民皆保険制度に守られた医学界が自浄作用を持てないのもこの際等閑視しよう、問題をわざと綾織りのように複雑化し国民が利口にならないようになまじ社会学などを学ばせて哲学者を養成しないようにし思考停止に陥らせているテクニックばっかり150年間も磨いている連中にいいようにやられているのにアカデミズムは何も答えようとしないのか?な〜んて疑ってみたりすることも、良き伝統も時代が変われば評価が変わることも、緊急順、重要度順からいって後回し(え?そ、そうなの!)
情報の真偽に疑いの目を向けることなく無関心、実態を知らされなければ調べようとしないぼくら、官僚はどうすべき、研究者はどうあって欲しい、医学会はこうあって欲しい…結局考えなければいけないのはぼくら一人一人だと言う結論も後回し…こういうことは、ことが急を要することだけにそういうわけには参りません。クレマチスさん良い刺激になりましたありがとうございました、がんばって対策を見据え、頼りになる官僚も政治家も哲学者たるインテリも育ててこなかったぼくらの責任です
(言ってみただけ…第一どうやって責任とればいいって言うんだ…居直り…日本の半分が清き1票を使ってないんだもん、無関心層、為政者織り込み済み)
(アメリカの大学のキャピタリズムむき出しの内情を静かに具体例をあげながら冒頭のこの本はアメリカの大学業界?の暴露本と僕には読めました。この本の詳しい紹介は別の機会に回す(え?いつ?)として、ご参考までに日本の大学について書かれた次の本の紹介をさしていただき、お茶を濁すことにいたします、毎度、支離滅裂のつまみ食い、竜頭蛇尾ですいません。この本が出版された10年後の現在は皆さんで類推してくださいませ。
2012年9月発行の…(グローバル化時代の大学論①) アメリカの大学・ニッポンの大学: 苅谷剛彦著中央新書ラクレ429、、、第5章 2 コミュニケーション・スタイルの違いと大学の授業…中略… 221〜222ページ
ところで、コミュニケーション研究者として著名な中野収氏は、日本型コミュニケーションの特質を、ダイアローグ的ではなく、モノローグ的、あるいはモノローグの連鎖であると指摘している。その典型は、村の「寄り合い」の衆議に見られる。そこでは、意見を互いに主張し合うのではなく、それぞれが関連のありそうなことをもち出して話し合う(「言よせる」)うちに、収斂点が見えてくる。理屈や論理ずくめで相手を説得しようとするのではなく、メッセージも特定の相手に向けて発信されるのではない。独り言(モノローグ)のようにして発せられたメッセージが、積み重なるようにして、ひとつの結論に導かれていく。メッセージははげしくぶつかり合わない、というのが日本的なモノローグ型のコミニュケーション・スタイルだと言うのである。
このように日本型コミニュケーションの原型を措定すると、日本の大学における教育のあり方にも、日本的なコミニケーション・スタイルが浸透していることがわかる。学生たちからの質問や質疑応答はほとんど含まない講義形式の授業は、まさしくモノローグ的なコミニケーションの典型といってよいだろう。引用以上。
、、お茶を濁していないかもしんない、単なる蛇足かも😜本人は話の続きのつもり、、
十年一昔と言うけれど今は状況が変わっているんだろうか?大学教授の入れ替わりがどれぐらいあったか調べたほうが早いかもしれませんね。日本的な意見のまとめ方は、昨今のように、すぐにリスクが世界中に伝播する緊急状況の常態化がさらに加速しつつある世の中にはどうしても対応しきれない。明治以来の社会制度見直しの時期なのだと思います(すげー大雑把、ところで一体何を見直せば?、、そうやってすぐ人に聞く態度を見直してくださいませ…自分に向かって言ってます🤪読み直す元気なし、何も書かないよりマシ)
(今日もしっかり寒いので、温かいもの食べて早いとこ寝ます。寝るほど楽はなかりけり、内職をしていた頃母はよくこのセリフをいっていたのを幼いぼくは覚えています、あはは)
若いとき読んだ小説に大学(オックスフォード)をアルカディアに譬えたエピソードがありました。作者はイヴリン・ウオー(1903-1966)だったと思います。アルカディア、理想郷。そんなイメージを今、大学に対して抱く人がいるでしょうか。
おっしゃる通り、現在では大学というのは一種の業界で、教授などもそれで儲けて生計を立てようとする業界人、と言ったら言い過ぎ?いえいえ、言い足りないくらいですよ。
資格社会、そうですね、社会で重要なプレイヤーになるための資格。教養などというカビ臭い言葉を聞くことは近頃ではほとんどありません。今は高学歴・低学力社会と言った人もいました。低学力を無教養と言い換えてもいいような気がします。
なぜそうなったか。社会のニーズでこうなったのか。これも最近目にした言葉ですが、現代に生きる人はすっかり「他人志向」になっているとの批判もあります。要するに他人からどう見られるか、どう評価されるかが人生では最重要で、他人だか社会の諸制度だかが決めた基準を満たさねば、世の中から弾き飛ばされ、無視され、忘れられる。多くの人々にとって、これほど恐ろしいことはない。
ああ、よかったわ、これから学生やるんじゃなくて。もっとも明治から終戦までの高等学校・帝国大学の制度の方が優れているなどというつもりは毛頭ありません。あれは特権階級のよいお暮しのためのもの。明治といえば、日本から持ってきてすっかり忘れていた日本唱歌集の中にたまたま昭憲皇太后作詞の歌を見つけました。
「金剛石もみがかずば、玉の光はそわざらん・・・時計のはりのたえまなく、めぐるがごとくときの間も、日陰惜しみてはげみなば、いかなる業かならざらん」
こんな言葉を信じて勉学に勤しんだ当時の華族女学校生のなんと幸せだったことでしょう。まさにアルカディア。その幸せな世界の外に、どれほど不条理や不運に泣く人々がいるかとか、明日へと命を繋ぐのに必死の人民の存在なんて、考える必要もなかった。
今私たちは世の中の弱者のことも貧者のことも、極悪人の存在も欲望も知っているけれど、それに対して無力であることも知っている。にもかかわらず「こころのこまにむちうちて 学びの道にすすむべし」っていうの、皇太后さま?