複雑化な世界、単純な法則(ネットワーク科学の最前線):マーク・ブキャナン著:阪本芳久訳:草思社2005年3月発行
アメリカに1人の友人がいればアメリカと繋がれる(アメリカという国がある程度類推できる)中国に1人の友人がいれば中国と繋がれる…という幻想は、ぼくがだいぶ前から持っていたものです。ちょっと知り合っただけでその方のお国が身近に感じられたこともあります。そうそう、こんなこともありましたっけ…
イギリスのその方がある日分厚い手紙の束を僕に見せてくれました、宛先のアメリカ、南米、ヨーロッパ、東南アジアに至るその手紙の束にびっくりしました、ネットワークの凄さにです(親戚と言ってました)
僕が世話してあげたカシオの軽量のワープロ(といっても結構重い)で一晩で書き上げたとか。
今だったら誰でも別に驚きはしませんよね、コロナだってやすやすと地球を巡る世の中ですもんね、と枕をふって、、
偶然にしては面白いめったにない出会いと思われる例(世間は狭い、これは僕ら日本人でも割と経験している人が多いのではないでしょうか:スモールワールド)を取り上げた、、
第1章、「奇妙な縁」はそれほど奇妙ではない、、31ページから引用いたします
中略…地球上には膨大な数の人々がいて、その大多数は私が訪れたり住んだりした場所の近くはおろか、その周辺にすら暮らしたことがないのを考えると、このような偶然の出会いは信じられないもののように思われる。だが実際にそうだったのだ。だれもが同じような経験を一度ならず何度もしているのだから、こうした奇妙な縁はわれわれに何かを教えようとしているのではないか、と考えてみてはどうだろうか。人類全体を表す社会のネットワークは疑いもなくきわめて大きなものである。国連経済社会局によると、世界の人口は1999年10月12日に初めて60億を超えたという。この純然たる数字にもかかわらず、世界が実際に見かけよりもはるかに「狭い」(スモール)といえる道理のようなものがあるのだろうか? われわれが知らないだけで、不思議な巡り合わせを説明する何かが存在しているのだろうか? 引用以上
結論から言ってしまうと…クラスター(コロナでおなじみ、集団の拡がり)同士を結びつける弱いつながりがスモールワールドを作るポイントになる。橋渡しをするコネクター(弱いつながりをたくさん持っている)の存在が重要。
ただし、今回のコロナ騒ぎで明らかになったように長距離リンクは要注意の場合がある。つまりネットワークの広がりの功罪について常に考慮しておくことがポイントだと思いました。ネットワークが効率的であるためのポイント、それは信頼関係です。アメリカの政治科学者フランシス・フクヤマの研究から引用します
328ページ
フクヤマは例として、ドイツとフランスの工場における組織と労働者たちの行動を比較している。ドイツでは、現場の職工長は部下のほぼ全員について、彼らがどのように仕事をやっているかを掌握している場合が多い。必要とあれば、躊躇することなく作業現場に赴き、部下に代わって作業をする。職工長はたんなる監督ではなく、グループの親密な一員として信頼されている。職工長は、自身の経験をもとに部下たちの働きぶりをじっくり見て彼らを評価するし、効率を改善するために彼らの持ち場を変更することもできる。
対照的に、フランスの工場では、職工長と部下の労働者たちの関係にドイツよりも形式的で非効率的な傾向が見られる。それは、両者の関係がドイツに比べて、信頼を確立した状態のうえに成り立っていないためだ。歴史的・文化的理由から、フランス人は上司を信用しない傾向があり、上司が自分の仕事に対して公平無私な評価をするとは考えない。さらに、パリの省庁はさまざまな規則を課して、職工長の裁量の範囲を定めている。職工長は部下の労働者を他の仕事に移すことはできないので、当然ながら、能率は低くなりがちである。信頼の絆が欠如しているため、連帯感は損われるし、より効率的な新たな生産方式の導入への抵抗を招くことになる。引用以上。
話は前後しますが面白い例が載ってましたので、引用します
299〜301ページ
前略…ある白人男性は黒人の友人や同僚が何人もいて、近所には黒人のほうが多いけれども快適に暮らしているかもしれない。それでもこの男性は、付近に住む唯一の(唯一の:傍点付)白人にはなりたくないのだ。この気持ちはいささかも人種差別ではなく、黒人であれ、白人であるヒスパニックであれ、中国人であれ、だれもが同じ気持ちをもっていると思われる。人は本質的に、同じような趣味、環境、価値観をもった人々のなかで暮らすのを好むものなのだ。
中略…極端な少数派にはなりたくないという個人のささやかな好き嫌いは、奇妙ではあるが厳然たる影響をおよぼし、種々雑多な人々からなる社会を完全に消し去ってしまうのである…中略…たとえ明日、あらゆる人種差別の名残が消えたとしても、人種ごとに分離していく自然の流れは残るだろう。このことは水と油が混じらずに分離していくのとよく似ている。社会の現実の姿を形作るのは、人々の強い願望だけではない。無意識のうちに盲目的に作用する力も社会を形作っているのだ。そして、いまの例で言えば、そのような力によって、個人のうちにある一見無害な、どうということのない好みの問題が増幅され、劇的で厄介な結果を生じてしまうのである。引用以上。
この本全体のまとめになりそうな、、336ページから少し
長くなりますが引用します。
中略…したがって社会的な事例では、スモールワールド・ネットワークは、クラスター化と個々のクラスターどうしを結びつける弱いリンクがともに有効に組み合わされているように見える。クラスター化は、社会という織り地をきめの細かいものにするのに寄与し、社会資本の形成を可能にする。そして、この社会資本が今度は、決定を下すさいの効率性を高める。同時に、弱い絆の方は、コミュニティーがどれほど大きなものであろうと、すべての人がコミュニティーの残りの人たちと社会的な意味で身近な状態になっているのを保ち、そうすることで、だれもがより大きな組織がもつ情報や財産を利用できるようにしている。おそらく、組織やコミュニティは、スモールワールドの線に沿って意図的に作るべきなのだろう。
さらに、スモールワールドという発想は、複雑な世界でどう生きるべきかについて、より深遠な洞察をいくつか読みとってもらおうと、懸命になっているかのように思えてくる。その中心にあるのは、規則正しさや馴染み深さも度が過ぎるといいものではなくなる、という考え方である。あまりの秩序のなさや、度を超した斬新さがいいとはかぎらないのと同じなのだ。必要なのは、この二つの中間で微妙なバランスを保つことなのである。引用以上。
(今から数年前にボランティアグループのお祭りの準備会ときの会合でぼくはあることがとても気になり質問しました、、こんなふうに…
、、ところでここにお集まりのボランティアグループの皆さん同士は連絡を取り合って(つまりグループ交際はして)いらっしゃるのですか… 3秒4秒…無言…(せっかく一堂に会しているのにもったいないなぁとがっかりして僕はまもなく退場しました、後で考えればコネクターがいなかっただけの話、コネクター(またはクラスターの核になる人:もちろん疫病の場合にはマイナスに働く)は弱いつながり、弱い絆をたくさん持っている(つながりをたくさん持つために弱い絆でなければ、身がもたない?!という言い方もできるのかもしれません:私見)人物がよかろうと思います。
ウェブや疫病感染との関連はこの本でも度々取り上げられていますし、悪影響に対抗するためにもスモールワールド:狭い世間の正しい理解は喫緊の課題だと思いました、偉そう😅)
ありがとうございます…何がって、いろいろ考えるネタをいただきまして凝り固まった頭がなんとなくもみほぐしされた感じがいたします、つくづく僕は日本でちまちま暮らしていた方が合っていると思いました、半径500メートルに暮らす男で一生終われそうです、僕にとっては充分広い、これストレスに弱い男の本音です、今日はおしんこ研究会の初顔合わせでした、、生の里芋の漬物をくたっとさせて刺身のようにして、日本酒に合うように工夫している最中です^_^
グローバルだか、スモールワールドだかのネットワークについては、このところ私もちょっと考え込んでいたんざますのよ。クリスマス(やっと終わろうとしている)が近づいて独・英・米の親戚や知り合いから夫にカードが続々届くのですが、どれも一族の和気あいあいの写真を何枚か印刷して、添付の手紙(もちろん印字)には、息子の勤務先がXXに変わった、娘は大学で○○を専攻している、孫は上がいくつになった、下はまだ幼稚園とか、細かく家族の近況を書き記している。
昔々、60年代から70年代にかけて年賀状に家族の写真を刷り込むのが流行始めたとき、ひえ~と思った。当時は「私」の部分を他人に広く知らしめるという慣習がなかったから、今や普通の家族もまるでスターなみなんだなあ、と知り、しかし一方で「他人さまが自分と自分の家族にそれほど興味を持ってくれているという前提が、そもそも思い上がりなんじゃあ」と感じたものです。(だから自分の弟が同じことを始めた時はショックだった。父母はそれまで私と同じ意見だったのに、自分の息子もやっているとなるとコロッと態度を変えて、それも腹立たしかった。)
しかし今の風潮に比べれば、それなんか素朴なものでした。いやあ、私もドーバー海峡の向こうで夫の7親等・8親等の婆さんの孫娘が何才になろうと知ったこっちゃない、と思うものの、あからさまに馬鹿にはできない。で、ちらと写真を横目で見てパス。
しかも全部印刷物ではさすがにちょっと不愛想、とでも思うのか、「お元気ですか」とか「来年は会いたいね」など5,6ワードを自筆で書き添えてある。それすら姑息な感じ。(齢とって圭角がますます増えてきとるなあ、と自分でも思う。)
お付き合いとはそんなもんじゃない、という思い込みが私の老体に沁みついていて消えないからでしょう。相手は5,60人、いや100人を超える親戚・友人の同じカードを出して得々としているわけね。「あんたも100分の1やで、あり難いやろ」と言われているような気がしないでもない。
それで「元気ですか」以外に書くこともないような相手とはもう交信を止めよう、と思っていたら、「年賀状もクリスマスカードも来ないと死んだことにされる」なんて誰かが言っていた。親しくもない人がそう思っても私は構わないんだけど、私の日本の親戚には他人の不幸がご馳走みたいな人間もいるので、その連中が集まって乾杯したりするんじゃないかなあ。
グローバルネットワークって、個々人の関係を希薄にするだけ。でもスモールワールドネットワークを「狭い世間の繋がり」と訳せるなら、それはそれで結構なことだと思います。地球上の数万人とお友達になったところで、ヨボヨボの老人には大して役には立たない。これって「人類愛」「博愛」を説きながら、マンションの隣の部屋で誰かが一週間前に亡くなっていても気づかない、という風潮の延長線上にあるような気がする。
あら、ごめんなさいね。コロナ・コロナとみんながマナジリを決して接種に走る(私の場合、意外に神経質な亭主に走らされている)今のドイツにつくづく嫌気がさしているので、こんな風に不機嫌な述懐になってしまって。
そうそう、フランスとドイツの違い。概ねその通りだと思いますよ。独・仏では国民の気質がまだ異なっているので(どんどん低きに流れているけど)、おっしゃる通りの労働慣習が残っています。それが顕著なのは保守的とされる南ドイツ。労組が強くて「リベラル」を固守して失業率も高い北ドイツとはちょっと異なる。
その話になると、レーリングと言われる見習い生や実習生の制度の説明をしなければならないので、今回は簡単に言うと、南の産業地帯では同じコミュニテイの子息を彼らが実習学校に通っているときから預かって研修させ卒業後に雇う、という風習がまだ残っているんです。そしてそういう企業は地域から尊敬される。少なくとも「搾取のブタ」などとは罵られない。
私がこちらに移ったとき、16歳で研修に来ている坊やがいて、それが何とも幼稚なので夫が雷を落としているのを見たことがあり、可哀そうにと思っていました。その彼が今や36歳の立派な組長ですよ。彼の姿を見ると私は感激してしまう。フランスではそういうケースはまずあり得ないでしょうね。全員がそれぞれ疑心暗鬼の世界だから。
白人と黒人の問題。ちょうど一昨日に私はふとこの世界で白人・黒人・黄色人種が人口に占める割合はどのくらいなのだろう、と思って調べてみました。ざっくりで、30%が白人、それぞれ25%が黒人と黄色人種、その他は褐色、というデータらしきものを見ましたが、どの程度正確かは分かりません。そういう統計は差別に当たるので忌避されているらしい。
このことに私が興味を持ったのはやはりコロナに関係していて、人種ごとに体格・体質も異なるため罹患率・死亡率に差が出るのではと考えたからで、その点は間違いないと思います。米国などは国内にいろんな人種、起原の異なる人々を抱えているので、国として非常に留意しているのがFDA(食品医薬品局)の医薬品承認のとき。臨床試験はあらゆる人種を対象にしないといけないんですね。今欧州でも人種差別撤廃運動が口さきだけ盛んですけど、実際には白・黒・黄色・茶色に対して同じ薬が処方されているわけで、これは平等というより差異の無視です。私がこちらで極力治療を受けたくない理由はこれです。
これもまた、理念だけ立派で実践となると手抜きだらけの昨今の欧州の風潮を示しています。またもや長くなったので、この辺で。