おとうと:幸田文著:新潮文庫1957年3月発行
三歳違いの弟(碧郎)と姉(げん)、向こう見ずに見えて心根は優しい弟を見るまなざし…弟が姉を見るまなざし。さりげないやりとりの中からイライラしたり和んだり相手との距離を図ったりどうすれば怒るかどうすれば気を取り直すかが、弟の少年期から青年期に寄り添いつつ姉弟の心の揺れ動きの機微が継母としっくりいかない行き違いを絡めながら語られていく。
言葉の上げ下げ所作のあれこれやりとりが煩わしいと読み始めの時は思い…我慢しながら読み進め弟が肺病患って病状が悪化の一途を辿る…ここでやっと言葉のひとつひとつに今まで込められてきた感情に追いつくぼく。弟の一喜一憂にぼくの気持ちもざわつかされる、、病室でのやりとり、246ページ…
「また検温か! 結局は無意味なことじゃないんですか? あなたは無意味なことでも平気でやって、月給を取るんだな。」下品なことを云う碧郎にとりあわず、彼女(看護婦:註)は蔭でげんに教える。「御病人がまえから持っているだけの悪たい(傍点)をつかしておあげするのが、この職業だという気がするときもあります。洗いざらい云いつくさせてあげて、そのかたからすっかりいやなことばを抜いて、お見送りするんです。おねえさんも折角こんなにしておあげになってるんですから、気を平(たいら)にして聞いておあげなさいまし。」…中略…
同じ「ねえさん」と呼ぶ呼びかたも幾通りあるか、げんは神経を立てて、「ねえさん」の一ト言だけですべてを悟ろうとする。「ねえさんと呼ばれて、「え?」と返事をする、その「え?」の調子一ツで碧郎は機嫌をかえた。つまり病気は碧郎をあやつり、げんをあやつり、病室を支配するようになった。
248ページ…いつもげんが何とかかとか心にかけてきた弟なのだ。げんはいつも姉だった。それだのにここへ来て碧郎は、以前の弟というものとは少し違った人になってしまったようだった。げんに太刀打ちできなくなった部分が生じていた。弟が背高く思われて、自分が背低く見え、姉の位置からずった気がしてたまらない。適当な返辞ができないことがしばしばだった。そういうとき、げんは考え沈む。なぜきょうだいが一緒にいて、自分だけ取り残されたように思うのだろう。碧郎は現在まだここにいるのに、なぜこう離れたと感じるのだろう。げをは置いてきぼりにされ、一人にされている気がする。別れもしないのに、もはや別々になったと思う。しみ入るような寂しさ、泣く気も起きない寂しさだった。引用以上。
(げんの親であるこの本の中に書かれている父親はほとんど露伴の事だろう…苦労人でがっちりとした骨組みの人物だという事は昔、露伴の五重塔を読んだときぼくが勝手に想像していたことと合致していた。小説五重塔を読んだとき、よくも偏屈な?(一途な)職人の気持ちがわかるなぁと思いましたが、幸田文の文章も説明的なのにさっくりとした書き方でぼくは好きです(偉そうですいません)
255〜256ページ…
碧郎はある朝、「ゆうべ夢だかほんとうだかチャルメラの音を聞いたけど、鍋焼きうどんがたべたかった」と、久しぶりに食欲がありそうに話した。けれども彼の食事は養ってもらって食べるのである。うどんや蕎麦は長さにうまさがある。熱く煮た鍋焼きうどんをどうやってたべさせるか。ぶつ切りにしたうどんを匙ですくってやるほかない。それではきっと見た眼にもまずそうで、おそらく癇癪を起こすだろうと思う。ロースを入れて、葱を入れて、蒲鉾を入れて、車海老を入れてこしらえてくれと云っている。ほんとに久しぶりに。「望まれたたべもの」をげんはこしらえるのである。薬はもう大ぶ利かなくなってきている。うどんのできあがる直前に先生を呼んで、薬を塗ってもらってただちにたべさせなくてはたべ了えるまで保(:も)つかどうか心配だった。食事の終るまえに薬の利き目が切れてはたまらないのである。げんはその点、これまで一度もへま(傍点付き)をしていない。…後略)
263ページ以降の引用は致しません。手品の種を明かすようでつまらない仕業だと思えますが、、ざっくり言うと父親、継母、げん、それぞれの切羽詰まった碧郎との別れの場面のそれぞれの決着の付け方に僕は感動しました。こういう場面、男にも書けない事はないが、女の立場に立つのが難しいと思う。何故か?…男は真実を受けいれるのが不器用、口にするのが恥ずかしいからだ。だから問わず語りに語る独り言になると思いました、相槌はいらない…ただ、聞きおく、独り言に感想はいらない、、かな。返答によって、相手を試す行為ではないからだ、と思いました。ただいまの感情のありか、つ、つまり、今その時の気持ち、を相手に示す行為かな。相手に返答を求めているのではない、中ぶらりんのまま、聞きおいてくれればいい、、ここまで言うと、吹けば飛ぶようなプライドを問題にしているような、自分自身の弱さのような気がしてきました、ま、僕の課題ですね(何をいってるんだか…はっきり言えなくてすいません…こんな男です)人の営みっていろいろな向き合い方と照らし合わせ方があるもんだなぁとしみじみ思いました。この辺はまぁ…へっぽこ小説でも書きながら考えますわ…ハハハ。
前回のKBCで「おとうと」の映写会を行ったそうです。文章と映像とでは鑑賞する方の間の取り方が全然違ってくるので印象もまた違ったものになるのはやむを得ないと思うしそれが面白いですね。全く別物と言う言い方をして贅沢に両方を楽しむのがいいと思いました。映像の情報量と文章の情報量の質の違いとも言えそうです。「読書」は…適当に止めたり切ったり部分を拡大縮小できる映写技師、「映像」は自分もセリフに追いつかなければちぐはぐになってしまう…つまり見ている自分も登場人物…と言ってみたら何か意味あること言ったかな?ちょっと違うような気もする。「自由度」と言う言葉があるとすれば読書のほうに分:ぶがあるような気もするし、感情移入で忙しいけれど見るものが圧倒的な具象心象風景の参加者足り得る、、映像、というふうに考えるとこれはもう好みの問題にもなるのかもしれませんね。
同じ著者の「きもの」をゆっくり読んでから近々取り上げたいと思います…映画の予告編風🎬あはは。
KBCの集まりで「おとうと」を見たことは、ろれちゃんが「ひょこむ」に書いておられたので知りました。ということで中身は皆さんご存じですから、私は周辺の、人によってはどうでもよいと思われることを書きます。
幸田文は露伴の体格についてはどの随筆でも記していませんが、自身が大きかったことは、露伴仕込みの家事やら大掃除をこなすときの話が出て来ます。畳を二枚それぞれ両脇に抱えられたそうです。そこへ風が吹いて来てもろに畳に当たったものだから倒れそうになったとか。
(先日古いインタビュー記事を読んでいたら、壇ふみさんが「うちは大男・大女の家系です」って言っていました。壇一雄が大きかったらしい。腹違いのお兄さんも大きいそうだから。彼女も170センチあるんですって。今は大いばりで言えるけど、幸田文の時代は「大女」というのは悪口だったようです。)
幸田露伴は最初の妻、文のお母さんが本当に好きだったみたい。エピソードを聞くと気むずかしそうな露伴に愛されるだけの女性だったのだと納得します。そもそも私が露伴や文に関心を持つようになったきっかけは、私がまだ20代の頃だと思いますが、文のエッセイでこのお母さんについて書かれていたことが印象的だったから。名士であった露伴は、よく料亭などの高級な食事に招待される。帰宅してそこでおいしかったものを妻に話す。妻はどんな見かけで何が使われていてどんな味だったかと尋ねる。数日後にその料理が家庭で供され、露伴によると、それは料亭で食べた物とほぼ同じだったとか。
私はこの話で露伴の夫人は本当に賢い人だったのだなあ、と思ったのですが、今ちょっと考えなおしています。夫人の賢さはその通りですが、露伴の説明・描写も素晴らしかったのでしょう。大抵の男は食材なんかに注意を払わず、味の描写もできませんよ。最初の妻の幾美さんと露伴とは抜群の相性だったのですね。
幸田文の随筆集シリーズの「きもの」、何年か前に私は定年退職してきものに目覚めた友人に送ったことがあります。ついでに「季節の手帖」という巻も送りました。そしたら、その中に「秋の電話」を見つけて驚いたというメールが来ました。
彼女は視覚障害者のために朗読のボランティアをしており、協会からこれを読んで録音してくれと指示された原稿が「秋の電話」でした。作者が誰かは全く知らず、いい文章だなあ、と思いながら朗読したそうです。そこへ私から本が送られて来て、めくっているとその話があったと喜んでくれました。
もう一つ(長くなってごめん)、私は幸田家の家系を見ていて先祖が幕臣であったことを知ると共に、兄弟姉妹誰もがひとかどの人物であることに感嘆しました。実業家、軍人、学者等々。その中で特に注目に値するのが二人の妹の幸田延と幸田幸。この二人による日本の音楽界への貢献は有名ですが、これがきっかけで私はだいぶ前の映画「滝廉太郎・わが愛の譜」を先日観てみました。ドイツから帰った幸田延役を壇ふみが演じていて(ぴったりの大女)、幸ではなく延の姪という設定で滝廉太郎の恋人役の鷲尾いさ子が廉太郎と共にドイツに留学する。(鷲尾いさ子は演技が素人っぽいけど、美しくて当時のドイツの環境の中に自然に溶け込んでいました。)
すみません、まだ終わりません。
それで思い出したのは、音楽の幸田家に対する絵画の森家です。森鴎外のご先祖も立派で親戚縁者やはり文人の多い家系ですね。そして鴎外の子供たちには絵画に興味を持つ人が多かった。末子の類は藤島武二に師事しているし、次女の杏奴は画家の小堀四郎の妻になる。自身も絵心があったようです。
この辺りの対比は興味深いですが、もっと興味深いのは鴎外と露伴が犬猿の仲だったということ。露伴は鴎外について「金と出世にしか関心のない男」と切って捨てています。
でも森茉莉は幸田文について悪くは言っていません。家事能力ゼロの甘やかされた茉莉と、家政能力だけでも食べていけた文とでは比較にならないということもありますが、小説の型も文体も全然違いますからね。
はい、喜んで下さい、これで終わりです。今日のところは。