わかる・読ませる 小さな文章: 村上玄一著:幻冬舎2006年2月刊
本を読むときはこの本が本当に伝えたいことは何かを探りながら読んでいく。ちょっと横道にそれますが…「人を読む」場合も、この人が本当に大事に思っていることは何で、何がしたいのかをお聞きするようにしている。
試験問題の裏を読んでどんな答案を書かせようとしているのか、どう書けば良い点数をもらえるのかを解読している人みたいだ、本を書くからには伝えたいものがあるはずそれを外したいくない気持ち、ちょっと味気ないけどこれはもう僕の癖になってしまった、向こう合わせ、そうしたほうが効率的と思っているのだろう、常にコスパを考える人間に成り下がってしまったのかも。
この本で読んでいて気がついたことがあります。それは人の文章を読むとき、ぼくはずいぶん細かいニュアンスまで捉えようとしているな、ということです、その言葉が漢字で書かれたのかカタカナで書かれたのかひらがなで書かれたのかよって受け取り方は随分違うし、「読み方」にも、その人のセンスが反映されるような気がいたしました、先日、これから知人に送るメールを兄に見てもらったら、、僕はある箇所を強調するためにカタカナでゴマンとある、と書いたのですが兄はそこをひらがな「ごまん」にした方が良いと言いました、言われてみるとそんな気がして参ります、思わずぼくは、そんな、文字の細かいニュアンスには無頓着と、決めつけていた兄の顔をしみじみ眺めてしまいました。文章って怖いなぁと思いました、いろいろなことを瞬時に伝えてしまう、理解や誤解を超えて…。そこが面白いとも言えますし、そう言って済ませられない問題も起こるので更に厄介ですね。そういえば目に優しいひらがなの効用について著者も言及してましたっけ。
ターゲットになる読者層を考えて文章を構成する大切さも強調していました。そういえばそれは人付き合いでも同じことで…たとえ自分とは興味ある分野が違っていても、相手が何に興味があるかを教えてもらえばその後のお付き合いも何かと楽しくなるような気がします。配線がつながる、パソコンに拡張機能をつけたような気がする。人間てそういうふうにできていると思う。「そういうふう」とは、、人の頭も自分の頭のようにして使っちゃう、ちゃっかりシステム?!
印象に残ったページを引用します、文は人なり、だなぁと以下に引用した文章の最後の部分を見てしみじみ同感しました。
206ページ
小説以外の文章では、内容を自由に書き変えることは無理である。嘘を書くわけにはいかない。だが、その表現の仕方にルールはない。
表現の方法は際限なくあり、目の前のコーヒーカップを描写するにしても、人によって見方や捉え方が違うのは当然のこと。百人が同じものを観察しニ十字で書いたとしても、まったく同一の文言はないだろう。文章とはそれほど個性的なものなのである。
引用以上
今日もまとまりのない話にお付き合いいただきましてありがとうございました。
(あ、そうそう… 12月と1月は少し冬眠いたします、クリスマスと正月が苦手なぼくは、この時期なぜか冬眠したくなります、世間が忙しい時はゆっくりしていようかと思うのです。でも、たまに顔出しいたしますのでその時は引き続きよろしくお願いいたします😌)
じっくり追体験ができるなんてやっぱり本て凄いと思いました
その人を読み解く鍵になるような、そしてその表現方法(感性)が自分と似てる(というか、こうありたいという願望なのかわかりませんが)と無上の喜びを感じます。その意味で、田辺聖子さんの小説は(特に清少納言の生涯の本)ワクワクしながら読めました。
また、自分と似て無くても物事に対する感想とか、見ての描写が、あまりにもリアルだと引き込まれます。
宮尾登美子とか、柳美里などはわたしが経験した事の無い内容(悲惨さにおいて)の小説だけど、見た事をそこまで詳しく自分の頭の中で表現できた文章はやはり一気に読みたくなります。
そして、ものすごい苦労をしてても、それを明るく判断して書けるさばさばした
思い切りの良さを感じる文章が好きです。
こうしてみると女性作家が多いですね、ただ女性作家はきわめて個人的なものが多いので、
男性とは捉えどころが違うのかもしれません。
でも、男性の書いたものでも、やはり抽象的な表現より、人間同士の会話が主体のコミュニケーション主体の文章が好きですね。親近感は
司馬遼太郎<池波正太郎かな?