檸檬:梶井基次郎著:武蔵野書院:昭和6年5月発行(復刻版ほるぷ出版昭和60年1月発行)
檸檬、という小品を読んだのはたしか中学か高校の国語の教科書だった。どうということはない話なんだけど文学的な匂いがした。これを取り上げた人もそれを伝えたかったんだろう。文学て何?
まぁそれはさておいて…この作品が1930年代日本が全体主義を国是?として軍国主義まっしぐらの時期に書かれたという背景をまず押さえておいて、肺を患って夭折した作家の日常とみてよいのではないでしょうか。なんとなく社会の重苦しい中自分の心象風景と目にする風景を重ね合わせて歩いていた作家、と言ってみる。
城のある町にて、、より引用します。21ページ…
今、空は悲しいまで晴れてゐた。そしてその下に町は甍を竝べてゐた。
白亜の小学校。土蔵造りの銀行。寺の屋根。そして其所此所、西洋菓子の間に詰めてあるカンナ屑めいて、緑色の植物が家々の間から萌え出てゐる。或る家の裏には芭蕉の葉が垂れてゐる。糸杉の巻きあがった葉も見える。重ね綿のやうな恰好に刈られた松も見える。みな黝ずんだ下葉と新しい若葉で、いい風な緑色の容積を造ってゐる。
遠くに赤いポストが見える。
乳母車なんとかと白くペンキで
書いた屋根が見える。
日をうけて赤い切地を張った
張物板が小さく屋根瓦の間に見える。ー
引用以上
今の若い人たちにも上の風景が思い浮かびますように…。
(※ついでだからここでメモしておきましょう…朽ちてゆくものを記録するのは文学の仕事だろう掘るべき井戸の場所を示すのも文学の仕事かもしれない詩人の誕生を手助けするのも文学の仕事かもしれない朽ちていく場所を見つけるのは大変な時代掘るべき井戸の場所が見つけにくい時代詩人が隅に追いやられている時代
理由は明らかだ朽ちていく場所を目にしないようにつぶしている人がいるからだ井戸が掘れないように硬いコンクリートで固めている人がいるからだ詩人なんか非生産的、必要ないと思っているからだつまり加担しないまでも看過している僕ら一人一人がその真犯人だ、
とでも言わなければこの圧倒的な時代の流れ、奔流に悪ノリしてる僕らを表現できないんじゃないかと自虐的に言ってみました😔)
わかります、、、