彼女たちの売春(ワリキリ):荻上チキ著: 新潮文庫2017年11月刊
裏表紙の説明文から引きます
風俗店などに属さず、出会い喫茶や出会い系サイトで知り合った客相手に行う、個人売春=ワリキリ。彼女たちはなぜこの稼ぎ方を選んだのか。都市や地方で女性たちに取材を続けた結果、貧困、精神疾患、DV、家庭環境などの様々な要因と、問題を重視しない社会の姿が浮かび上がる…。女性個人の事情として切り捨てず、社会の問題として捉え直すために見つめた、生々しく切実な売春のリアル。
引用以上。
解説巻末の368ページの解説を作家の三浦しをん、が書いてます、ここを引用するのは、重苦しい本の内容に関しもう一方の重要な「欠けている視点」に触れた箇所があったからです。
369ページ
彼女の目は、何の感情も光も宿していなかった。つや消しした、黒。一番近いと思うのは、被害に苦しみながら死んでいく幼い子供の目だ。背が止まってももう振り払う力もなく、ただぽっかりと目を開けて横たわっている子供たち。ユニセフのポスターとかテレビの映像とかで見た、絶望と言う言葉すら超えてしまったようなあの目をして、女の子は歩いていた。
若くて綺麗な女の子が、こんな目をして歩いている。人間に、こんな目をさせるおっさんがいる。その事実を突きつけられて、衝撃を受けたのである。
371〜372ページ「売春をするようになったのは、個人の責任だ」と言う言説は、明確に誤りだと、本書を読んで私は思った。本書に登場する女性たちの多くが、家族や恋人からDVを受けていたり、教育の機会が与えられていなかったり、精神的な疾患を抱えていたりする。その根幹に「貧困」の問題が横たわっているケースが多いのは、一目瞭然だ。
374ページ
女性たちが「気持ち悪い」と思っている時、男性たちは何を思っているのか?彼らが女を買うのは「男は性欲が強いから」が理由なのか? (どうもそれだけとは思えないのだが…汗)彼らの女性観、生育環境などに迫ったインタビューやアンケートもぜひ読んでみたい。「なぜ売春しているのか」と同様になぜ買春しているのか」を男性側が言語化することによって、もしかしたらそこにも何らかの社会問題「女性差別や、社会が男性に過剰なプレッシャーをかけている、等)が存在することが明らかになってくるかもしれない。引用以上
僕がここを引用したのは他でもない実はここが一番見逃されているからだと思うからだ。男、女、子供が性の商品として、市場に出てくるのは社会問題であるとして、取り沙汰されても一向に改善されないのはそこに需要があるからだろう。取りざたされるあからさまなメッセージだけでなく気をつけないとそれがノイズであるとスルーしてしまう自覚そのものが危うい。あ、つまり、、「売春なんてそんなもの」として一瞬にして忘れ去るべき雑音として合理化するその行為そのものが危うさを含んでいる。
男も女も本当は自分が商品だと思っているからかもしれない。根の深さはそこにあるような気がする、強弁承知。意識的に自覚しないと自覚できない感覚麻痺。僕らはもしかしたら、すでにそんなもので足元をすくわれてしまっているのかもしれない。社会問題は実は自分自身の問題であったりして。
のほほんとイモヅルシキに頼っていては引きずり出せない問題も山積している、と思いました。病根は深く広く、どこまでも僕を追いかけてきます、逃げろ…と言ったってどこへ?
食べられない、つまり生活できない、ギリギリの選択…意外と今も変わらなかったりして。生活保護を受けたら仲介するものにピンハネされてまた元の路上生活者に戻った人を身近に知っています。数回接触を試みて失敗しました。僕の家だけは指さして教えておきましたが最近姿を見失いました。路上生活者にも縄張りがあり見えないところで援助するものがありリヤカーを貸すものがあり集めた空き缶を買い取る仲間がいる…どこにでもシステムはあるものです、ご近所の人から教えてもらいました。
辛い人に寄り添ってしまう一種の共依存は問題の根が深いと思います。自己形成の途中で自分自身を掴みきる前に…つまり自分が何者かであるかを実感する前にそんな場面に付き合わされるものの悲劇…すいませんまた聞きたくもない話を語ってしまいました。で、こんな話が先ほど、ろれさんにコメントでお答えした…もういい、聞きたくない話ですね、最近漏れ伝わってくる少年たちの犯罪も生きることとか死ぬこととかの実感がつかめていない、わかっていない若年者の犯罪と思うと辛いだけです。
「たいていの場合そのまま心が死んでしまうのでしょうか。」
そうだと思いますよ。心を奮い立たせるって、すごーく難しい。自分の心を奮い立たせられないのだから、まして他の人を励ましたり慰めたりできるわけがない。といってそこで「あなたには分かるわけがないのよ」と言ってしまえばお終いですけど。
女も男も自分は商品と思っている部分はあるはず。司馬遼太郎だったか、作家として収入を得るということは、自分を切り売りしているようなところがある、って言っていました。それについて当時の私は、「売れるだけいいじゃないの」と思ってしまった。
そうやって売るものもない女にとっての最後の手段が「売春」なのかもしれません。土方ったって、体力には限界があるし。だから昔は、食べて行けなくなると親は子供を売った。遊郭に売れるだけの器量よしの娘をもった親は喜んだ。娘はきっと、生まれたことを呪ったでしょうね。
最近読んだ柳美里の「女学生の友」はそれぞれの理由でお金が必要となった友達同士で援交の相談をしてる女学生と、定年退職して息子夫婦と暮らすが冷たい関係で、何か共通の孤独感を持つことで、彼女らの役に立ちたいと自分の息子をターゲットに恐喝のようなことをしてしまうという老人の話。
柳美里の小説は痛いと言われますが、小さい時から物凄くつらい経験をしたせいで、不幸過ぎて泣く事さえ忘れる空虚な目をしてたのでは?
でも幸い文才があったので、その虚しさを詳しく表現できたから、昇華することが出来たのですね。
辛い経験も好きな事に打ち込むことで自分でいられる人もいますが、それは才能があってこそで、たいていの場合そのまま心が死んでしまうのでしょうか。。