ケストナー ナチスに抵抗し続けた作家:クラウス・ゴードン著:那須田淳/木本栄訳:偕成社1999年12月刊
故国にありながら、「ナチスに抵抗し続けた作家」…と言うサブタイトルですが…このタイトルに一番抵抗を感じるのは多分ケストナー自身ではないでしょうか、、、その時々の機転が、、たまたまの幸運でうまく転がっていった、僕の同胞、僕の友人たちは…そうはならなかった…この独白は僕の勝手な想像です。ケストナーが生まれたちょうど100年後にこの本は日本で出版されました、さらに100年後にもこの本がまだ図書館の片隅に置いてありますように…。
子供に向けた本でありながら両親の不仲、不義の子、生涯を連れ添った伴侶がいながら美しい若い妻との間に男の子がいることも淡々と語られていきます。
(※ケストナー自身も…こうした赤裸々な子供たちに対する語り口に関して、、「ふたりのロッテ」という両親の離婚によって、生まれてまもなく離ればなれになってしまったルイーゼとロッテという名前のふたごの姉妹の物語、の「離婚」が背景にある子供の物語としての適否。を問われる批判に関して、、、少し長くなりますが330ページから引きます。
‘‘離婚で、たくさんの子どもたちが苦しんでいるし、また一方で、両親が離婚しないでいるために、苦しんでいる子どももいるのです。そういうことに目をつむって、子どもたちに教えないのは、道理にそむくのではないでしょうか?‘‘
とケストナーは、作品を非難する人たちに答えた。そしてその考えは、教育者たちよりも、とうの子どもたちのほうにまっすぐに伝わった。子どもたちはこの物語を愛した。その圧倒的な支持を見て、ようやく一部の大人たちも気がついた。新しい時代には新しい子どもの本が必要なのだと。
引用以上)
引き続き、訳者のあとがきの冒頭378ページから引用します…
本書の原題は「壊された時代」という。
ケストナーは、ナチス政権下に、執筆禁止の身ながらピュルガーのペンネームで映画の脚本「ミュンヒハウゼン」を書いた。その中で主人公のほら吹き男爵が「時代は壊されてしまったよ」と語り、暗にヒトラーを批判してみせる。それが、そのときにケストナーにできた精一杯の抵抗だった…。引用以上
訳者の一人、那須田淳のあとがきから引きます… 381ページ
Liebe Kinder und Nichtkinder!
直訳すれば、「親愛なる子どものみなさん、そして、子どもでないみなさん!」となる。「子どもでないみなさん」とは、なんて含みのある言葉なのだろう。「お父さん、お母さん」でもなければ、「大人のみなさん」でもない。ケストナーがこの言葉をわざわざ意図して使ったからには、何か表面以上の意味があるにちがいない。けれども、あれこれ考えてもはっきりした答えがつかめず、以来、それは謎として、ぼくの中に長く残ったままだった。
引用以上。
訳者が後に出すこの答えは、僕が忘れなければ後で書きますね。というか今書きます…今やらないと忘れる病気なのです、ぼくは。次の引用をぼくは心に刻もうと思いました。
381〜382ページより引用
ケストナーは、六つの顔を持つ男ともいわれた。演劇評論家、詩人、脚本家、児童文学作家、小説家、エッセイスト。まさに多彩だったわけだが、書き手としては一つの姿勢をずっと貫いてきた。時代をするどく見つめて、簡潔な文章で批判する。
その根底にいつもあるのは、子供の心だ。ケストナーは、騎馬警官と労働者たちが衝突したデモを目撃したときの幼い日のことや、校則だけを重んじて本質的なことを見失っている教師たちにむけた少年エーリヒの想いを、いつまでも記憶していた。
「ケストナーは、人は子どものころに、正義感や、ものごとをありのままに見つめて感じる能力を養うのだと思った。それが「子どもの心」だと言う。」(本書149ページ)
これには、ぼくは、アンデルセンの童話「裸の王様」を思い出さずにはいられなかった。王様が裸だと告げたのは、だれだったのか。
ドイツがナチス時代という暗黒期をむかえたのも、戦争に突入したのも、当時の人々が、童話の中の市民たちのように、自分の目で見たことや感じたことを信じずに、つまり内なる子供の心に蓋をして、上からの情報に従い、まわりに同調することで、おろかしい平安を一時的に得ようとしたからだ。ナチス時代を奇跡的に生きのびたケストナーは、戦後、廃墟の中で、同じあやまちを繰り返さないよう、人々に呼びかける。
そして新しい時代を築きあげる子供たちに期待をよせて、子どもの本を書き、こう語った。
「子どものころのことを、どうか、大人になっても忘れないようにしてください。… (中略)…大人になっても、相変わらず子どものような人だけが、人間なのです!」) (ケストナー講演「始業式のあいさつ」より)
本書の訳出のために資料にあたっていて、この文章に出会ったぼくは、前述の「子どもでないみなさん」というケストナーの言葉は、じつはこれを意味しているのではないかと思った。「いつまでも子どもの心を持ち続けている、みなさん」である。
そこには、そういう人々が増えていったら、世の中はもっとずっとよくなるにちがいない…というケストナーの想いがこめられているような気がする。引用以上。
この本はKBCのメンバーであるびすこさんの紹介で僕が図書館にリクエストしていた本です。もう1冊ありますがこれもケストナーの有名な…わたしが子どもだったころ…です。さてと今日は珍しく予定がありません(そうでもないかな)ので子供の心にかえってこの本を読むことにいたします。
あ、そうだ…僕が蛇足を加える余地のないこの本の中からケストラーが失恋したときの詩を載せておきます、同書94〜94ページ.散文詩「情緒のないロマンス」引用
ニ人が知り合ってハ年目に、
(ニ人は、ほんとうに、よくわかりあえていたといえるだろう)
とつぜん、愛がなくなった。
たとえば、つえや帽子をなくしてしまうようにして。
ニ人はそれが悲しくて、わざと陽気にふるまったり、
キスしてみたりした。まるでなにごともなかったかのように。
見つめあっても、それからなにをしたらよいのかわからない。
ついに女は泣き出し、男はとなりで立ちつくす。
窓の外をながめれば、船が過ぎていくところだった。
男がいった。もう四時十五分だよ。
どこかにコーヒーを飲みに行こうか。
となりでは、だれかがピアノの練習をしているようだった。
ニ人は町でいちばん小さなカフェに入って、
カップのコーヒーをスプーンでかきまわした。
ニ人は夕暮れになっても、まだそこにいた。
ニ人きりで、だまったままで、どうしていいかわからずに。
この詩によって、エーリヒ・ケストナーは、ドイツ文学史上にいつまでも色あせることのない金字塔を築きあげたといわれる。引用以上。
独り言でも話さないよりマシと僕は思っています😃
老人性鬱、最近私もそんな空虚な心持になることがあって、なにをやってもつまらない気持ちでした。
でも、この前テレビで見た104歳の元気なおばあちゃんは顔の色艶も良く良くしゃべり、楽しそうでした。
昨日の男性は田舎できれいなおとぎ話に出てくるような家をもう20年もかけてお菓子の家のようなかわいい家を一人で作ってました。元レントゲン技師だったそうです。
こんな人もいるんだなと思いました。
好きな事を飽きずに取り組んでいくのも楽しい事ですね。
もやもやしてる中、ダンスのサークルの人達と他愛もない会話をするうちに心がほぐれたような気持ちになりました。
どうってことない話題でしたが、とても良かったです。
誰かとどうでもいい会話をするのってやはり慰めになりますね。
社交クラブ!気に入りました、ありがとうございます😊
このところイモヅルの投稿がなかったので、何か新しい書物を読んでいらっしゃるのだろうと思っていましたが、早速にケストナー関係の本。行動に移すのがとても素早いのですね。図書館でリクエストすればすぐに対応がある、というのも、今の日本の都会ならではのスマートさ、整備の良さ。私たちの幼少時代の日本は貧しかったけれど、その世代が今、豊かになった日本の恩恵に預かっている。(そして若い世代に「逃げ切り」とかなんとか文句を言われている。)
私にとって都会(東京)の生活はただただ働いてお金をもらうだけで、住んでいた世田谷梅が丘周辺の文化施設を活用するとか、近所の人たちとの交流とか、思いもよりませんでした。午前1時まで、あるいは朝5時から、電車があることが大きな利点でした。ホテル宿泊せずとも帰宅でき、あるいは最初の新幹線に間に会うから、出張を引き受けられる。まあ、なんて散文的な暮らしだったことでしょう。
さて、ケストナーの抵抗の生涯、「故国にありながら」という形容にドイツらしさを感じます。ナチに抵抗した人、ヒトラーを嫌悪した人は少なくなかったのですが、その多くは国外に脱出します。命が危ないのだから当然です。ケストナーも狙われていたようですが、児童文学の作家ということで、相手が子供なのと、その子どもたちの間での人気が高いのとで(それだけではなかったでしょうけど)、目こぼしに預かり生きのびる。
彼が例外、ということは、戦時中にドイツを脱せず国内に留まった著名人には戦後厳しい目が向けられたということです。「非ナチ化」の裁判などというものもありました。
ナチ時代もひどかったけれど、戦後の手のひらを返したような「進歩派知識人」やジャーナリストによる同国人への弾劾も残酷です。この極端さこそがドイツ人の特質ではないかと思うことさえあります。
聖書の中で、姦通罪で石打ちの刑に処されようとしている女と彼女を取り巻く人々を見て、「あなたたちの中で、罪を犯したことのない者がこの女にまず石を投げよ」とイエスがいう場面があります。すると一人二人とその場を去って誰もいなくなる。
罪を犯してはいなくても、自分もまた罪を犯したかもしれない、と考えるだけで、石を投げるのを思いとどまるのが「まともな神経」ではないでしょうか。
少しでもナチに関わっていた人間を激しく非難するドイツ人を見るたび、彼らはただそういう罪を犯す時と場を逃れただけで、その時代に生まれていたら同じことをしたのではないかと思い、そういう想像の欠如こそが恐ろしいという気がします。
ドイツでは「終戦記念日」というのはありません。「解放の日」と呼びます。これって、もう、卑怯そのものじゃありませんか。ドイツ国民は自分たちもヒトラーのナチスの犠牲者で、その圧制のもとにあったのが戦争終結で「解放された」のだと言うのです。
その一方で同じ「被抑圧者」であるはずの国民同士が、いや、あいつはナチに優遇されていた、とか、他の被抑圧者より恵まれていた、とかいう理由で告発し合う。そのための「非ナチ化」という裁判までありました。
私の頭にすぐ浮かぶのは、1947年にこの裁判で裁かれた名指揮者のフルトヴェングラーです。彼は戦時中にもドイツに残り音楽家としての芸術活動を続けますが、そのことでナチとの協力関係を疑われ、本来なら他の指揮者や作曲家と同じく国を逃れて当然なのに自国に留まれたというのは、なにか特別な待遇があったからだ、と責められます。
フルトヴェングラーは有罪にはならなかったものの、その後もジャーナリズムからは執拗に非難され白眼視され続けます。その裁判でフルトヴェングラーが自らスピーチして弁護をするのですが、私は12、3年前にインターネットでそのスピーチを読んで威厳を失わないその態度に感銘を受けました。
ところがそれが今消えてしまっているのです。今日のメディァは、フルトヴェングラーの弁論が一般人の眼に触れることさえ許さない。
これって、ナチの言論統制策といったいどんな違いがあるというのでしょう。ドイツはやっぱりドイツ、なのかもしれません。
最後に引用された喫茶店の詩から、私がドイツで思い出した日本の歌「小さな喫茶店」と「喫茶店の片隅で」の歌詞を連想しました。後者はホテルに続くアカシア並木を歩いていたときです。終戦後の歌でどちらもハイカラな雰囲気が人気を呼んだのでしょうが、本当にそのままの印象の喫茶店でした。ほろ苦いとも甘酸っぱいとも言える記憶が蘇り、遠い日の香りをこんな遠い国で嗅ぐなんてと、しばし物思いに耽りました。
もう一冊の本の感想、楽しみにしています。