死の壁:養老孟司著:新潮新書2004年4月刊
1人称の死は自分では見られないので考えても仕方がない
2人称の死は親しい人の死
3人称の死は交番の前に張り出される昨日の交通事故死者数
3人称の死に関しては、駅の構内でスピーカーから流れてくる…ただいま人身事故により電車は遅れております、、、の放送もそうだと僕は思います、僕にとっては2.4人称。死者誤入力?して、無視。このくらいだから僕らは大平楽に気分を合理化して平気で生きていられる、恐ろしいような合理化。
あとがきの前のこの本の最後のページを引用します
これは小学生にも優しくわかりやすく語りかけてくれる必要十分な美しい散文詩だと思いました。
188ページ
人事にせよ、死にせよ、いずれも「なかったことにする」ことは出来ません。死は回復不能です。一度殺した蠅を生き返らせることは出来ません。
だから人を殺してはいけないし、安易に自殺してはいけない。安楽死をはじめ、死に関することを簡単に考えない方がよい。
しかし、原則でいえば、人生のあらゆる行為に回復不能な面はあるのです。死が関わっていない場合には、そういう面が強く感じられないというだけのことです。
ふだん、日常生活を送っているとあまり感じないだけで、実は毎日は取り返しがつかない日なのです。今日という日は明日には無くなるのですから。
人生のあらゆる行為は取り返しがつかない。
そのことを死くらい歴然と示しているものはないのです。
引用以上
回復不可能、取り返しがつかないこと、これは確かにいっぱいありますね。もちろん死がその極致で、人間幼い頃から何らかの形で死は目にしている。戦後は自宅でおじいちゃん・おばあちゃんが亡くなることはもうなく、死は病院で一般人の家庭から隔離されて密かに起きることになっているけれど、ちょっと想像力のある子供なら(いちまるさんもそうだったのでしょう)死は自分とも無縁ではないと感じるだろうし、親も何かの折りに「死の教育」らしきものを施す必要があると思います。
取り返しがつかないことは、自分の人生を振り返っても多いのですが、それ自体はやり直しがきかなくても、多くの場合生きてさえいれば、それを教訓に「次回は」「後の人生では」もう少しマシな行動をとることができる・・・と思いたい。
この頃、子育てというのも大変なものだなあ、と感じることがよくありますが、うまく行って当たり前、それよりもうまく行かなかった場合に、子どもには恨まれ、世間には「どんな教育をしたんだ」と非難される。割が合わないのが親業かもしれません。60歳・70歳になって悟ることがあっても、それからもう一度子育てというわけにはいきませんものね。