うらやましい孤独死:森田洋之著株式会社三五館シンシャ2021年3月刊
この本は少し前に荒川さんがLINEトークで紹介してくださった本です。昨日、図書館にリクエストしていたこの本が手に入りましたので早速読んでみました。
本人の希望するところで死ぬための社会全体が担うべき方向が示されていました。
(ところで…早速余談で恐縮ですが…
老衰、、、僕のおばあちゃんは老衰で亡くなりました。僕の母も老衰で亡くなりました。僕の希望は老衰で亡くなることです)
著者は経済学専攻なのに紆余曲折を経て医者になります。医療に従事し始めてまもなく病院のあり方について疑問を持ち、夕張市立総合病院が縮小されて市立診療所になっていたその診療所に出向くことになる。そこではイギリスで行われているような医療体制の実践が行われていました
76〜77ページ
イギリスでは夕張で行われていたような地域密着・患者中心の医療が「家庭医療」と言う名で国全体に広がっていた。
日本では「家庭医療」はまだまだ認知されていない。「総合医療」や「プライマリー・ケア」というのもほぼ同様なものだが、それについてもなじみは薄い。
しかしヨーロッパや北欧などの先進各国では地域の医療と言えば「家庭医療」のことを指すことがほとんどだ。「子どもから高齢者、急病から老衰の看取りまでどんな困りごとにも対応してくれる地域のかかりつけ医」のようなイメージと言えば理解していただけるだろう。
中略…一方、日本の病院は病院経営を維持するために常に満床を目指して運営されている。これでは患者が減るわけがない。
病床がイギリスの5倍もあって、感染者数・死者数も何十分の1なのに、コロナで医療崩壊が叫ばれている日本の医療体制の裏には、そもそもこうした根深い問題が内在していたのだ。
また、イギリスではいきなり総合病院・専門病院には行けない(国民全員が登録しているそれぞれの家庭医からの紹介がないと大きな病院にかかれない)。それなのに、じつに90%の国民が「家庭医」の診療に満足しているのだ。
一方多くの研究で。総合・専門病院への受診が容易な日本人の医療への満足度が非常に低く、医師への信頼度も低いことが示されている。
この違いは一体なんはなのだろうか。日本人が当たり前だと思っている日本の医療体制は、果たしてこのままで大丈夫なのだろうか。
(と、真っ正面から問題を投げかけます。さらに日本の高齢者を取り巻く環境は) →
116ページ
残念ながら、日本の高齢者(75歳〜79歳)は、、
・地域の活動に参加する人の割合がドイツ・スウェーデンの約半分
・同居の家族以外に頼れる友人がドイツ・スウェーデン・アメリカの半分以下
・頼れる友人がいない割合がドイツ・スウェーデンの倍以上
という惨憺たる結果だ。
127ページ
イギリスにおいて、たとえば何度も救急車を呼んでしまう高齢女性がいたとする。よく話を聞いてみると、彼女の訴えの根本には夫と死別した悲しみと、地域の人間関係の中で孤立してしまっている社会的な不安が隠れているようだ。そう判断した場合、医師は「リンクワーカー」に話をもっていく。
「リンクワーカー」というのは地域のサークル活動やボランティア活動など、地域の社会資源を熟知している職種で、イギリスの全国各地に存在している。
(石川県金沢市の「佛子園」という障害者施設の紹介があり、そこでは近所の子供たちも自由にで入りできる、そして一緒に好き放題に遊んでいいという「ごちゃまぜ」の例を挙げながら…) →
133ページ
「リスクはゼロを目指すものではなく、リスクに伴う不利益(と裏にある利益)を考慮して上手にマネージメントするものなのではないか
中略
マイノリティーの権利やダイバーシティが当たり前になってくるこれからの時代、こうした世界を経験し広い視野を持つことの重要性はよりいっそう増してくるだろう。
145〜146ページ
再度言う。人間がかかるもっとも重い病気は「孤独」だ。これまで述べてきたとおり、孤独は健康や寿命にも大きな負の影響を与える。
(同じページに、フランスにおいて企画された隣人祭り…の項があり)→
そして構想したのが「隣人祭り」である。祭りといっても大掛かりなものではなく、地域の人たちが食べ物や飲み物を持ち寄って集い、食事をしながら語り合う、ただそれだけのことだ。しかしただそれだけだからこそ、すぐに実行ができ、継続ができた。
(これを取り入れたのが渋谷区の「隣人祭り日本支部」で「渋谷おとなりサンデー」という企画が行われたと紹介されている、勇気を持ってみんなに呼びかければやって出来ない事はないと思いました)
(地域の人々のない何気ない見守りさえあれば徘徊老人がいても大きな問題にはならないと例を引きながら、、174ページで)→
こうした地域の温かな人間関係を、学術的には「ソーシャルキャピタル」と呼ぶ。私は勝手に「きずな貯金」と意訳している。
(うまい命名だなぁと思います)
この本は少しもケレン味がなくご本人の失敗談もかっこ悪い位に漏らされています、その失敗は医者になるための勉強の中に「患者本人の気持ち」が抜けていたからだと著者が指摘しまさにその通りと僕も思いました。世界一の病床数を誇る日本で今回のコロナの病床不足がなぜ起きたのか、なぜ真実が語られなかったかがこの本ですっきりと理解できました。多分、僕ら皆が本当のところ気がついていたことなのに、勝手に忖度して現実を見る目が鈍麻していたのではないかとも思います。当事者が声高に公にできなかった原因は我々の方にもあったのだと自覚しなければ本質はこれからでもいくらでも、何度でも見失うことだろうと思います。著者の勇気ある発言を全幅の信頼をもって支持したいと思いました。
山崎さんが語ってないことが1つあります。おっしゃる事はもう全く1ミリも反対したくありません(この表現使ってみたかったのです)と言うと偉そうですがだってその通りなんだもん。何を語ってないかと言うと…「個」が立っている人にとって孤独死は問題ではない。僕を含めてその他大勢が何が問題になるかと言うと、まぁ、その自覚があるか無いかは別として…2人で1人3人で1人10人で1人100人で1人と数える人の問題だと僕は思うのです。どちらにしても共通点はありますよね…死ぬときは1人、あはは。
このタイトルを見た瞬間、私はだいぶ前にネットでみた記事を思い出しました。<「孤独死のどこが悪い」評論家山崎正和>です。後で紹介します。
私も孤独死・孤独死と騒ぐことに抵抗がありました。かなり若いときから「孤独」を受け入れざるを得ないと考えていたのは、未婚で子どもがいないという身分のせい(これが田舎の旧弊と、家族の「家」への執着で恐ろしく強調されていた)と、生来の性格にもよるものです。
慣れによるのか、元来へそ曲がりのためか、孤独を恐ろしいとは思ったことがありません。
けれども一昨年から昨年にかけて13カ月日本にいる間に、いや、この分では孤独死は(望んでも)無理かも、と思うようになりました。
友達が友達を連れて来る、親戚から親戚へ「療養中」の情報が伝わる、遠くの友人から見舞いの品が次々送られて来て、そのお裾分けに回っている間にまた知り合いが増える。北欧並み?いえ、いえ、理屈などない野暮で土臭い社会です。
「ヒロちゃんが独り暮らしの○○ちゃん(私のこと)に気いつけてやりや、と言うから」と訪ねて来た人もいました。さらに郷里での妹の死後、同郷であるその連れ合いがいずれ住まいを田舎に移すということで、わが家の管理人を買って出てくれて、実際きちんと維持してくれています。
その彼と一般論として墓の話をしていたとき、私が自分の場合はこうしたいと言うと、「それ、ちゃんと書いて残して下さいよ、僕が実行してあげるから。」・・・あら、そんなことまでしてくれる人が見つかっちゃったわ。
でも、仮に誰もそばにいない状態であの世に旅立つとしても、やっぱりさほどは悲しくない、というか、それはそれで仕方がない、という諦観、いやもっと言えば、私を世間のはみ出し者と呼んだ母親に「ざまーみろ、へっちゃらだい」とアッカンベをしてやりたい気持ちもあります。
ここで山崎正和のインタビューの一部をご紹介しておきます。
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-孤独が社会問題化している。どう見ていますか
「まず、孤独という言葉を否定的にだけとらえるのは間違いです。孤独は束縛や抑圧に抗して断固立つという、崇高な理想でもあります。米国の社会学者ルース・ベネディクトは1946年に『菊と刀』で、西洋は罪の文化、日本は恥の文化だと書きました。西洋の道徳の根本には神とひとりで向き合う自己があるが、日本人は周囲を見て合わせるといったのです」
「しかし日本人は明治以来、西洋に学び自我や自己の感覚を営々と磨いてきました。単なる観念ではなく、進学、就職、結婚といった誰もが経験する実生活を通して身につけてきたのです。それらはすべて自立と孤独への道でした」
--どういうことですか
「かつて地方の中学生が金の卵と呼ばれ、集団就職で東京に出てきた。みんなふるさとの地縁血縁を捨てて一人になり、都会で結婚して次の世代を生んでいるわけです。ある新聞社の社内報にこんなことが書いてあった。地方出身の40代の女性記者が、大学受験のとき、女が苦労して都会の四年制大学に行く必要はないとおじさんに言われたそうです。そんな時代が少し前まで実際にあったのです」
「一方、24年前の阪神大震災の際にボランティアというのがにわかに注目されました。ボランティアとは自分の意思と費用で困っているひとを助ける行為。日本社会で膨大な数のボランティアが現れる基盤となったのが、地縁や血縁に全く関係なく公に奉仕することを決める確立した自己、つまり孤独なのです」
--孤独は肯定できたとしても、誰にもみとられない孤独死はどうでしょうか
「孤独死の何がいけませんか。告白しますが内科医だった私の弟が孤独死しています。5年ほど前、一人住まいのマンションで死んでいると、警察からの連絡で知りました。枕元に飲み残しの缶ビールがあり、病気による急死でした。弟は結婚せず、当時は70歳くらいで退職していた」
「いったい、この孤独死で何かいけないことはあるでしょうか。好きで選んだ生活に私がどうこう言うことでもなく、弟がとくに不幸だったとか、かわいそうだとも思いません」
--他人が干渉すべきことではないということですか
「ちょっと乱暴なことを言わせてもらうなら死は誰でも孤独です。じつは11月はじめに家内が亡くなり、私は朝の4時にたたき起こされて行ったのですが間に合わなかった。看護師さんが巡回したときには息絶えていたので、家内がさよならって言ったかどうか、誰もそのときを見ていない」
「孤独死にもいろんなケースがある。治療を受けられないなど経済的な事情があれば社会福祉の問題だが、孤独とは別です。私は自分が死ぬときにでも、枕元でどうですか、ああですかと言われ続けるのはいやですよ。死ぬときくらい放っておいてって、言うでしょう。孤独と死をひとくくりにするのは、新聞のセンチメンタリズムではないでしょうか」
--西洋の孤独の問題をどう考えますか
「西洋でいま起きている孤独の問題は歴史的な意味で日本とは正反対です。米国の社会学者デビッド・リースマンが1950年に『孤独な群衆』を著しています。欧米知識人の間では伝統的に孤独は誇らしいことだったのに、孤独を苦にしたり、マイナス視する大衆が現れてきたことに驚き、憂慮したのですね」云々
私も老衰死希望です。だって眠るように逝けるのでしょう?ほとんどの人が、死ぬ前は痛みや苦しみを味わった後しか死ねないのだから。
日本人は地域のコミュニケーションがかなりというか、絶望的に外国に比べて不足してるのですね。やはり、年とっても何かしら活動していろんな人とコミュニケーションを計る必要は大いにありますよね。
孤独死は嫌ですね。
ご近所さん達と寄りあって食べたり飲んだりしながらおしゃべりする取り組みは良いですね。
でも、スエーデンはそういう活動が活発なのに自殺者が多い国と聞いていますが、その辺はどうなんでしょうね。
それと、日本は、がいこくにくらべて、感染者数や死亡者数が半端なく少ないのに医療のひっ迫が叫ばれてます。何十倍も多い害奥はひっ迫何処じゃなくて崩壊してるんじゃないかと。