死の淵を見た男:門田隆将著:角川文庫2016年10月刊(初版は2012年PHP研究所刊)
この本は何でだいぶ前から手元にあるのか考えて…あーそうだ、ごーぎゃんさんが福島原発事故にまつわる感動的なエピソードをLINEトークで紹介されてそれで僕が注文して置いて積ん読:ツンドクになっていた本だと思い出した。読み出してすぐ…僕より10歳若いこの著者の名前を覚えておこうと思いました、カドタリュウショウ。読んだ後明日の立石図書館で開催予定の本の交換会に出すつもりでいたけどやめました。我が蔵書の中の「生きる」のコーナーに納めることにしました。
やっぱり人と同じで本は読んでみなければわからない。震災後翌年の10月に早々と出版された意味の大きさは読む前でも直感的に分かった。文庫本の表紙カバーには2020年3月にこの本をもとに公開された映画に出演した何人かの俳優の顔が映っていた。ノンフィクションの内容に似つかわしくない感じがしたがそんな事は小さな問題だと読み始めてすぐにわかった。当時現場にいた人々の記憶の底をしっかりと捉えている。陣頭指揮を取った吉田冒郎所長に著者のカドタリュウショウは、、取材にあたって… 100年後200年後のために記録を残しましょうと言った、とある。吉田所長は陣頭指揮を後任にバトンタッチした後、癌のために亡くなっている。
(昔々、選挙の応援演説に来ていたKさん
と立石のアーケード通りで握手した、洋品店の旦那は憮然とした顔で…僕はにこっといつもの愛想笑いをして、、意外に固い握手だった記憶がある。多分にひいき目に見ていたせいだと思う。市川房江だかのツテで、爽やかに政界に打って出たKさん、クリーンなイメージ。今にして思う…経験の裏付けのないクリーンさだけでは人の心の底は見えてこない。
海外の情報が欲しくて、たいして英語もわからないくせに図書館でニューヨーク・タイムズを読んでいたら、若いKさんが、もしかしたら将来の首相候補と目をつけられていてアメリカ政府筋が将来に備えて身辺を調査していると言う記事を見つけた…なるほどなぁー、アメリカと言う国は手回しの良い国だな、さすがアメリカ…と思いました)
日本の技術者集団には希望的観測が働いたかなとふと僕は今思いました。安全率…を見て設計しているので織り込み済みの数メートルの大津波を超える津波が来てもそうそうは壊れない、、実際は、ひとたまりもなく壊れ、悲劇の幕は開いたまま、いまだに閉じられる様子も見られない。
当時テレビで実況中継を見ながら、ぼくは解説を何度聞いても聾桟敷に取り残されたような感じを持った。日本の技術ってこんなもんだったのか。一般の僕らにとって炉心の溶解を免れるために、馬鹿のひとつ覚えみたいにとにかく水を、海水を、注入し続けた印象が残っている。ヘリコプターで被爆量を最小にするためにホバリング:空中でとどまることをせず水を注入する場面を見て、海外メディアが嘲笑するような記事も見た。
吉田所長はコテコテの大阪人だったらしいが災害現場で決死の覚悟を迫られ最悪の事態を避けるために働いた人たちは福島県出身者が多かったと言う。水の注入のために駆けつけた自衛隊員は現場の職員の1人が被曝確実と思われる環境にもかかわらず自分が乗っているポンプ車をガイドする姿を見て手持ちの計器の放射線量が規定値を上回っているのを忘れ現場に向かったと言う。 戦争記録の著書もある著者が取材の中で再現されていた現場の風景は戦場だったのだと思う。不眠不休のためにそこら辺に転がっているものは人間だ。仮設トイレの中に残されるものは…誰のものもすべて真っ赤な血尿だったと言う。当時展開されていた事実、家族への思いを振り切ってなされるいくつもの決死の覚悟、その生の声をよくぞ残してくれたと頭が下がる。
「おわりに」から引用しておきます
463〜467ページ
この事故を防ぐことのできる"最後のチャンス"は、私は実は「2度」あったと思う。その最大のものは、9.11テロの「2001年9月11日」である。中略…
「まさか10メートルを超える津波が押し寄せるわけがない」
その思い込みには、過去千年にわたって福島原発の立つ浜通りを「そんな大津波が襲ったことがない」という自然に対する「侮り」、言い換えれば「甘え」が根底にある。
中略…(9.11テロ後の2006年、アメリカの原子力規制委員会が対策のための文書を決定し、日本にもその内容が伝えられたことに言及して…)
その中には、全電源喪失かの手動による各種の装置の操作手段についての準備や、持ち運び可能なコンプレッサーやバッテリーの配備に至るまで細かく規定されていた。
テロがもたらすものも、自然災害がもたらすものも、原発にとっての急所は、「全電源喪失」であり、「冷却不能」であるという事実に変わりは無い。
しかし、わが国の原発では、「全電源喪失」「冷却不能」の状態がもたらされるもたらされる可能性を、それでも想定しようとはしなかった。
日本では、そんなテロが起こるはずがない…日本に照準を定めるミサイル配備をおこなっている国を周辺に抱えているにもかかわらず、根拠のないそんな思い込みがここでも原子力エネルギーを推進、管理する指導者たちに蔓延していた。だが、その「テロ」に匹敵する、いや、ある意味ではそれ以上の「災害」が原発を襲ったのである。
非常に辛辣で俗っぽい表現だが、私はあえて"平和ボケ"と言う言葉を使わせてもらおうと思う。
中略…もう一つのチャンスは、9.11テロの3年3ヶ月後、2004年12月26日に発生したスマトラ島沖地震である。
マグニチュード9.3という巨大地震とそれによって引き起こされた大津波は、実に22万人もの死者を出し、世界中を震撼させた。それは巨大地震と大津波が、人間の想像を絶するものであることを見せつけるものだった。
原子力発電所にとって、ここでも警鐘を鳴らしたのは、9.11テロと同じ「全電源喪失」「冷却不能」の事態への対処である。だがこの天の啓示ともいえる2度の警告は、日本の原子力行政に携わる人間にも、そして原子力を扱う事業者にも、ついに「響く」ことはなかったのである。
中略…結局、日本では、行政も事業者も「安全」よりも「採算」を優先する道を選んだのである。それは、人間が生み出した「原子力」と言うとてつもないパワーに対する「畏れのなさ」を表すものだった。世界唯一の被爆国でありながら、その「畏れ」がなかったリーダーたちに、私はもはや言うべき言葉を持たない。
1992年、原子力安全委員会は「30分以上の長時間の電源喪失」について「考慮する必要はない」という報告書をまとめ、安全指針の改定を見送っていたことが20年後の2012年に明らかになった。
「原子力安全を確保できるかどうかは、結局のところ"人"だと痛感している」
原子力安全委員会の廃止にあたって、斑目春樹委員長が記者会見で語った痛恨の弁こそ、この大惨事の本質を表しているのではないだろうか。
そして、現場の人間たちの文字通り、死力をふり絞った闘いによって、吉田所長が語った「チェルノブイリ× 10」と言う最悪の事態は、ぎりぎりで回避された。
しかし、周知のように福島県を中心に、回復には気の遠くなるような年月が必要な被害がもたらされ、今も多くの被災者が苦しんでいる。引用以上。
コンフィデンシャル…ヒミツも少しずつなら目立ちませんのでおもらし下さいませ、なるほどそういうものかもしれません。そういえば3·11の事後処理にアメリカもフランスもいろいろ機材の提供申し込んできたような記憶があります、ただより高いものはないってやつですかね。 日本は10年後も原発に頼る部分がまだまだ20%あるとか、後70%はCO2ゼロエミッション!の火力発電とかの噂です。 門田さん、、少しずつ本読んでいこうかと思っています。