西洋文化の源をたずねる:呉茂一著:講談社現代新書1966年10月刊
図書館のリサイクルコーナーには図書館で除籍した本と個人がリサイクルに回した本が置いてある。この本は個人がリサイクルに回した本の1冊だ。60年近く前に発行された本、定価250円とある。あーこの頃は新書がこの値段だったんだ、250ページある。1ページ1円。昔仕事で事務分析をしていたのですぐお金に換算する変な癖が抜けない。敗戦後20年、明治維新から100年。当時、著者70歳。
前書きより引用いたします…
東洋・オリエントは、もと西洋と対立する世界でした。それが昔から接触しながら西洋化しなかったのは、文化の根本理念が違っていたからです。またこの地球上には、もとは接触のほとんどない、多くの世界が並存していた、ともいえます。
それが一つになったのは、積極的な「西洋」化作用のお陰と見られます。私の「西洋」解釈がはたして真実か、あるいは誤っているか、それは読者とともに真理の女神が、指摘してくれるだろうと望んでおります。引用以上
(表紙の裏の写真を見るとこの文章の通りのお人柄の穏やかな紳士が写ってました)
12ページより引用
全世界この100年の激変…
今明年で明治維新から、ほぼ百年たちます。明治百年祭などという催しが企画されているのも、この間のわが国の発展を顧みれば、当然のこととうなずかれます。明治元年は1868年、開港条約がアメリカ、イギリスなどとの間に締結され、つづいて大老井伊直弼が、桜田門外に暗殺されたのは、そのわずか10年前(安政5年、1858年)なので、今からこれを顧みると、まったくつくり話(フィクションというのが、それに当たります)としか思われないくらいです。
今、東京の盛り場の夜に、モダン・ジャズやエレキギターやラテン・ミュージックなどに踊り興じる若い人々は、とりも直さず攘夷運動に狂奔した志士たち、または欧米人を、見ると、異人といって白い眼でにらみ、白刃で追い払おうとした多くの同調者たちの、すぐの子孫でもあるはずなのですから。
もっとも、世界中がこの100年間に、非常な変化を経験したこと
は争えません。アメリカ自身が、南北戦争からまだ100年とほんの少ししか過ごしていず、大統領エブラハム・リンカンが同じく暗殺されたのは1865年のことでした。
中略…ドイツやイタリアも、ようやく国家の統一を成就するか、しようかという時節、フランスはナポレオン3世がまだ伯父大ナポレオンの遺産によって、いささか腐りかけても鯛の見えを張っていました。幕末、明治初年の、日本における英仏のかけ引きは、維新外史の好題目とされています。引用以上
もうこれだけでこの人の講義を聞いてみたくなりませんか?僕はなりました、あはは。
大サービス… 13ページよりさらに引用、、、
めざましい西洋文化の活動…
この時分、つまり19世紀の後半から20世紀初頭にかけての、欧米といってもアメリカはまだ開拓期をすっかり抜けきってはいないので、ヨーロッパの文化的諸活動には、まったくめざましいものがありました。
フランスを中心とする印象派や後期印象派などの美術、ブラームスやリストや、つづいてブルクナー、ヴォルフなどのドイツ音楽、ハイネ、ボードレール(186I年死)デューマ、アンデルセンなどを失った代わりに、ヴァルアランや、ウェルスや、タゴールや、数えきれない近代作家や詩人の群れの輩出を見たわけです。
トルストイの「アンナ・カレニナ」は1870年代に、ニーチェの「ツァラツストラ」は90年代に公にされています。思想的な面では、ショーペンハウエルが1860年に死んだのに対し、マルクスの「資本論」が67年に発表されているのが注目されましょう。
こうした事例は挙げ切れませんが、上記のわずかな事柄によっても、私たちが「西洋文化」という概念として持っているものの大きな部分が、形而上的な分野でも、自然科学とか機械技術とか、都市計画や交通機関や、その他形而下のいわゆる物質文化な分野でも、この100年間に生まれ、造らー、完成されたところが、どのように大きいか、理解されます
引用以上
著者が強調したいのは次の点です。西洋文化のこの100年と日本の文化のこの100年の違い…西洋はその「受け継いできたところにつないだ100年」、日本は「全く違う文化を受け入れて100年」、この点です。
僕にとってわかりにくい歴史がほんの2、3ページにわたって解説されていましたので引用いたします、、、それまで迫害され続けてきたキリスト教徒、キリスト教が4世紀の初め、紀元313年にコンスタンティン大帝によってキリスト教はついに公認され、次いで国教の地位に高められました、とあり、、、
紀元330年の5月に、数年の準備の後、新しい首都は「新ローマ」
の名をもって、全ローマ帝国の統治の府として始められた、、、と、前フリさせていただいてさて以下長い引用をご覧ください
179〜180ページ引用
ギリシャ・ローマ文化は保持された…
こうして、前にもしるしたように、「コンスタンティンの都」を中枢とする「ローマ人の帝国」は、1000年余りの長い年月を、西の帝国より生き延び、多少のくずれや混入物を受けながらも、ギリシャ・ローマ文化の伝統を保持しつづけました。
そしてたびたびの侵冦や、ほとんど圧倒的とも見えた攻撃にあいながら…イスラム教下のアラビア人やセルジュク・トルコや西からはアヴァール人やブルガルやセルビア人や、あるいは南ロシアからの…、それをしのぎおおせて、幸いにも西ヨーロッパが息を吹き返し、目をさます、いわゆる「文芸復興」期といわれる15世紀まで、持ちこたえたのでした。
それはまったく、人文世界にとって、また「西洋文化」そのものにとって、天恵的な幸運といわなければなりません。1453年の5月29日に東ローマ最後の皇帝パレオロギ家のコンスタンティン11世が戦死をもってその滅亡を飾り、翌朝、オスマン・トルコのムハメド2世が君府に華々しい入城式をおこなたのは、レオナルド・ダ・ヴィンチが生まれた翌年、印刷術がグーテンベルヒによって発明?され、アメリカ大陸の発見者コロンブスが生まれて間もない頃でした。
ついでながら、同じ年に、イギリスとフランスの100年戦争も終わりをつげ、翌々年にあのシェイクスピアの悲劇がしるす「バラ戦争」が始まります。日本では応仁の大乱が起ころうとしていました。一方、フィレンツェに「文芸復興」の花を咲かせた、メディチ家の政権も、この2 、30年前に、地固めをされたのでしたした。引用以上
この同じ時期ドイツもフランスも戦火に疲弊し、、、中略、、、イタリアだけがかろうじて起き上がり、そのバトンを受け取ることができたのです。引用以上
181ページより引用、、、略、、、そこにある(南ロシアにある)キエフ大公国はたびたびの侵冦で帝国の領土を脅かしたのみならず、商人や兵士をも送っていましたが、大公ウラディミルのキリスト教入信と、東ローマ皇女との結婚で、いっそう深い関係を持った訳です。
そして東ローマの文物を盛んに受け入れ、工匠を招いて美々しい宮殿や大寺を建立させたのでした。今でも、ロシア文字は、東ローマ、すなわちギリシャ系に属しています。そして多くの人名、ことに洗礼名はディミトリとかイワンとかナスタシャとか、カチューシャつまりカティリナとかフェオドルやティモフィまで、ギリシャ系の名前です… 181ページ
181ページは僕の興味で引用しました😙
今日も引用ばかりでした。こんな薄い文庫本でよくもまぁ要領よくまとめてくれるもんだなぁと驚きます。西洋と東洋の年代の対比の妙!僕はこの本を見て思うところが1つあります。それは、この本が発行された1966年+ 100年、つまり2066年に100年前を思い起こしたとき僕らの子孫がどんなふうに100年前に思いを馳せるのだろうかと不思議な気持ちになった事でした。僕の予想ではIT革命が意外に大した事なくて(相変わらず人間の意識のなんたるかには肉薄できず)…その反動として文芸復興ルネッサンスが始まるのではないかと思っています…ただし今度は西洋も東洋もない地球規模で…あはは🤣
シュペングラーのその本、若い時題名に惚れて五月書房の分厚い1、2巻中古、神田で買ってとうとう読まずじまい…あはは。ちょっと覗いてわかった気になってついでに用も済ませた気になって、まあ、いいや…となるのは昔からです。それにしてもびすこさんのインスピレーションのきっかけになってよかったです…何でも書いてみるもんですね😉