ポスト・モバイル: ITとヒトの未来図:岡嶋裕史著:新潮新書2010年7月刊
この本は図書館の除籍処分になったものを貰い受けたものです。10年で除籍! まず、このことに驚きです。本当は印刷されるべき本ではなかったのではないか…なんて意地悪なことも考えてしまいます。
ところが僕自身の10年前を思いおこし(それ自体もう難しくなってきてます)この本の内容と比べてみるとはっきり見えてくるものがあります。人の想像力です。分析力です。そしてこれは変な言い方ですが「世の中」が持っている変革していく力です。僕らが否応なく投げ込まれたIT社会…つまり技術者たちが考える未来と消費者としての僕らが考える未来の食い違い。お客様は神様ですとおだてあげられていい気になっているうちに…コントロールされる側への堕落。堕落していくことへの快楽、なんてね、ちょっと文学してみたりして…あはは。
ところが案外そうでもなくて…スマホの便利さが…市場の大きさが…ガジェットの供給側の思惑に変化をもたらすこともあるのかな。例えば44ページ・・・
若年層を中心にPCも「食われる」側に含まれているのだ。
(僕はもうほとんどPCを使っていない。もちろんスマホでブログを書けるし、お手洗いで用を足しながらブログを書いて発信もできるし小説も書けるからだ)
スマホがここまで伸びるとは誰が予想したろう…そもそも今から50年前!からテレビのリモコンの操作に慣れた、、あるいはゲーム機の操作盤になれた世代が手の中に簡単に収まるこのスタイルを簡単に手放すわけがない、と僕は思っています。
44ページから携帯電話の優位性、、、について引用します…
そもそもIT産業にとって携帯電話はまともに戦う相手ではなかったはずだった。モバイルPCがネットワークへアクセスするための経路を確保するか、モバイルPCがどうしても使えない環境においてインターネット接続を補完するためのものでしかなかった。
引用以上
138ページに、まとめ、のような記述があるので引用します
好むと好まざるとにかかわらず、世界の仮想化は進み、人はコンピュータが作り出す情報の膜を通して世界と向き合うことになる。それは人の能力と可能性を拡大させもするが、現実に根ざした身体感覚や世界認識、自己統合感を不安定にさせるものでもあるだろう。
いずれにしろこのシナリオは開かれ、もう閉じることはない。以降、人の身体は、感覚器は、常に強化された現実からアクセスされ続けることになる。
引用以上
この本の最後の方で環境そのものがコンピューターで満たされる時代を予想していますが…今僕は時代の最先端だと思っているスマホはそんな時代が来ても「愛着」を持つ人が多いのではないかと思っています。落としたりなくしたりする心配があっても…きっとペットを愛するようにスマホを身近に置いておく時代はもう少し続くような気がしています。皆さんはどうお考えになりますか?
その坊やの存在は大きいですね、その坊やの役目を翻訳ソフトが代行するのはずっとずっと先になると思いました。
好むと好まざるとにかかわらず。でもあり難いことに余命はそう長くないだろうから(5年から15年くらいまでの幅はあるけれど)馴染めない機器やシステムを相手に苦闘することも余りないだろうと、諦めの境地です。しかしスマホ、モバイル世代の頭の中はどうなっているのかなあ。
先日、元教師夫妻と話したとき、何かレポートを書かせるとほぼ全員が同じ内容・記述のものを提出する、と呆れていました。コピペって今は盗用でも何でもないのでしょうか。
でも勿論あり難い面もあります。例えば、夏休み明けからスペイン人が亭主の会社で働き始めるのですが、7月初めに妻子連れで面接にやってきたとき、ドイツ語は30点くらいでした。奥さんに至ってはゼロ。スペインでは失業率が高いのと、賃金が安いので、昨年に北ドイツの会社で働き始めたら、今年初めにそれが倒産。
で、インターネットで夫の会社を見て応募してきました。こういう形で募集・応募ができるのは技術進歩のおかげです。
採用が決まって、家を探して、という作業が始まり、その間に人事担当者にメールを送ってくるのですがこれが自動翻訳ソフトを使ったもので、おかしな箇所もだいぶあるけれど言いたいことは分かる。用は足りる。ウチのような田舎の零細企業でも外国人を雇って何とかなるのは、ITの進歩があればこそ、
あとは・・・4歳の男の子が一番はやくドイツ語をマスターすると思うので、普段は彼に通訳してもらうとか。その坊やもいずれ翻訳ソフトの使い方をマスターするのでしょうね。