老いの泉:ベティ・フリーダン著上下巻:山本博子・寺澤恵美子訳:西村書店1995年9月刊
1970年代のアメリカのフェミニズム運動の旗振り役だった著者が70歳代の時の本です。原書も600ページを超える大作とか。僕は特に下巻の主張がビシビシ響いたので引用しておきます。
下巻11章 38ページ(モービルホームのコミュニティーについて)
略、、、5年前に骨粗しょう症になり、骨がもろくなると言われていますが、今でもダンスとドラムの演奏は続け、体を動かしています。バードウォッチングやキャンプにも行きます。11月にカナダからここへきて、4月末にはまたカナダに戻る生活です。カナダでは庭いじりを楽しんでいますが、ここではコンサートや講演会に行けますし、ナーシングホームの老人たちにドラムを演奏してあげるのが好きです。
(骨粗しょう症でもドラムをたたける!)
下巻13章 122ページ
私たちは、老いイコール避けて通れない衰えと言う医学界の老いの定義を打ち破らなければならない。もし免疫システムの衰えが、不可避で回復不能な老化現象ではなく、私たちの幸福感にとって決定的な要因である愛と仕事、社会参加と意義ある役割によって直接影響を受けるとすれば、ハイテク治療や医薬品に現在使われている何十億ドルもの大金を、私たちが自分の生活を自分でコントロールできるような社会計画に使う方が賢明かもしれない。
ユング主義者によると高齢者の課題は7つある(中略)そうだが昨日の夕方、この本を読んでいて、、、最後の課題七番目に接し、一生、人の心を問い続けたと伝え聞くあの偉大な心理学者ユングの後継者たちの言葉に、感動しました。
下巻14章 145ページより引用します。
七、ユングの老いの様相のうちで、最も遠大で、しかも未成に終わりがちな七番目のものは、「再生」、つまり「生をまっとうして死ぬ」ことで、これまで使っていない潜在能力を活用することだ。人は「人生が与えてくれる可能性を使い切る、この「遊び感覚の生き方」に出会うことで、エゴの支配のもとでなく、創造的芸術家や遊んでいる子供のようになれる。…生きること自体が大切で、予期せぬ出来事は探求の素材となる。…高齢期は、人間が自分自身の主人となり、自分独自の寄与ができる時期なのだ」。
医療はこういうところに焦点を当てていませんね、時間とともに弱っていく存在、利益の源としての老いに焦点が当てられている…153ページ。老いるということがどういうことか平均寿命が延びた今、過去のデータが役に立たず、現在のデータもない。
(この本は今から25年位前の本ですけれども、今でも参考になるところがたくさんあると思いました)…女性の更年期障害についても詳しく一章を割いて言及しています(15章)し、ナーシングホームへ入所をしたときのアメリカの現状についても語られて(16章)…それは25年後の今の日本の場合にも当てはまることが多いと僕は思いました。(アメリカの)ナーシングホームは「僕の」終の棲家になり得ない…と言うのは僕の個人的感想です。今はアメリカもグループホームの考え方に移行しつつあると思います。
僕は僕のおばあちゃんが亡くなった時初めて人間の死について考え始めました、小学6年生だったと思います。今から考えるとあの時から大人の仲間入りしていたのだなぁと思いました。(また例によって話が脱線しますが…チャールズ・ディケンズの小説の中に、少年がビールを飲む場面が所々出てくるのですが後でわかったのですがあの時代は子供は大人扱いされていたのですね、大人と変わらない労働力、法の裁きも大人として受ける…その時代時代で考え方は本当に変わりますね…脱線でした)
さて、また引用です
240〜242ページ
略…死と向き合う時、死のもつ意味の深さが、私たちをとらえる。死を深く考えることが真に生きる道なのだ。なぜなら、何に注意を向けようとも、意識がどこにあろうとも、死と向き合うことで、生きていると言う実感が湧いてくる。
死を受け入れる時、私たちは否定したり、裁いたり、怒ったり、駆け引きすることをやめる。
私たちが「死の受容」と呼ぶ、死を受け入れ、死に心を開き、死に自分をゆだねるというプロセスは、たぶん私たちの実態は肉体ではないと意識したときに始まる。われわれは肉体をもっているが、肉体がわれわれではないということに気づくのだ。ある人は自分が「生成の過程の中で常に創造されるもの」であることがわかったといった。そしてそれについて自分は何もしなくても良いのだと。
中略
、、、死んで生命の流れの中に戻るには、すべてのことが許されている。…自分を護る必要もない。自分がだれであると言うことも考える必要がない。あるがままを受け入れる深い満足を経験する。
中略
ティーンエイジャーの頃、いつか私がいなくなると初めて気づいたときの恐怖を覚えている。死を考える事は私には耐えがたかった。中略…私は死の恐怖とは、現実に生きていない、現実を避けようとすることから生まれるのだという考えをもつようになった。というのは「新しい女性の創造」の執筆中、私の過去も現在も、人生のすべてを動員し、すべてを自分にとっての真実として提示したからだ。後に続く者たちが人生を切り開くうえでなんらかの助けとなるように。これは一種神秘的な経験だった。その経験をしてから、生きることに新たなチャレンジをする…当時はそんなおおげさな言い方はしなかったが…ことを恐れなくなった。
引用以上
まぁ重いテーマに聞こえたかもしれませんが僕にとっては別に少しも重いテーマでは無いのです、生きている限りすぐ隣にいる死について考える事は楽しいです、生きている実感と限りない感謝があります、ま、これも無神論者の僕が言うと全く迫力ありませんけど。
上巻のほうもかなりメモしましたが廃棄いたしました…独断と偏見で僕が今一番興味があるテーマを今回は取り上げさせていただきました…。
引用に終始してしまいましたので僕のコメントも少し…
僕はリヴィングウィルで緩和医療は受け入れますが…それもできれば…と言う程度です。心臓麻痺、道端での頓死、嘔吐しながらのたうち回る最後、どれも受け入れokです、他人の迷惑といっても一回か二回だけですから(友人に言わせると僕の場合そんな簡単にはいかないと言っている…生き延びて後遺症で苦しむ、と笑っていました)というかそれしかない。母もチアノーゼ症状が出ても最後まで病院には行かない(酸素呼吸器は常用)そういう覚悟を決めていまして、たまたま、母の願い通りにうまくいきました。父は冬の朝お手洗いで座ったままなくなっていました。まぁ僕は、そうはうまくいかないとは思いますが、僕も自然の流れに従って、おまかせで行きたいと思います、たしか詩人の金子光晴もそんな考えではなかったでしょうか…勘違いかもしれません)
今本を閉じようとして、そこだけ光って見えることばがありました、おまけ😉
266ページ… (最後まで)自分の人生に参加し続ける…
271ページ…老年期自体が、未知の領域、冒険なのではないだろうか…
350ページ…世界で現実に何が起きているのか監視を続けるために、「目を大きく開きなさい」、絶え間ない不正、抑圧、出口のない停滞に怒りの丈をぶちまけるために、「口を開きなさい」、すべてを抱きしめるために「腕を広げなさい」、成果を獲得するために「こぶしをふり回しなさい」
352ページ高齢者の事例について、ユダヤの賢者ヒレルはこういった。「自分が自分自身のためを思うのでなければ、一体誰が私のためを思ってくれよう。しかし、自分が自分のためだけに思うとしたら、私は一体何者だなのだろう」
なんだか、道を説く君…の気分、、、冗談じゃないやい、僕の人生だ僕のやりたいようにやる…あはは😊
先日ボーボワールの「老い」を某国営放送の100分de名著で上野千鶴子が講師役で解説しているのを見ました。司会役の伊集院光がなかなかうまく話を引き出して興味深かったです。
https://www.nhk-ondemand.jp/goods/G2021114321SA000/?spg=P202100250100000