Uncle Tom’s Cabin
Harriet Beecher Stowe著:
Wordsworth Editions Limited 1995年刊(初版1852年)
活字が細かいので400ページは読むのに骨ですが、良いこともあるのに気が付きました。細かいけど印字が鮮明なので英語が、よくわからないまま、飛ばし読みするにはもってこいなのです。見開き2ページの「様子、字面」がぼんやりと一覧できるのは僕にとって心地よいのです。どうしてもそこがわからないと読み取れない場合だけその単語だけ調べて何とか状況が読めてる場合重要でないと思えるわからない単語を飛ばしてどんどん読み進められるのは「ストーリー」、つまり筋、話の流れに支えられているから。
日本語訳をさっさと読めばいいじゃないかと思うでしょうがそうは参りません。為政者に近い?側にいたストーさんのファミリー事情を押さえた上で、出版当時の体裁を保っているだろうこの本を暇のある今こそゆっくり読みたかったのです。前置きが長くなりました…
と前に読み出したとき上の文を書いていたのだがあれからずいぶん経ってしまって、最初の頃の、少し気負った気分と変わって、だらけてしまった。今上の文を読み返し、そうだそうだと思い返しふーっと長いため息ひとつついて再開。ただし今度は…すっ飛ばし読み。黒人たちの話す極端な音便化省略発音は、適当に類推して読み飛ばすに限るし、もう体力がないのに無理する事は無い。
読みだしてまもなくあっち行ったりこっち行ったりして筋を追い、何とかついていく頭の中の英語態勢?が整って、57ページでエリザが売り飛ばされる我が子をひたすら守らんがために胸に抱き追っ手から逃がれるため傷つきながらオハイオの氷塊が流れる川を、息をつかせぬ描写で、我が子を守らんがために超人的に!飛び移ってゆき、無事向こう岸にたどり着くシーンで僕は揺さぶられた。これはアクション映画なんだ。だからこうして小説として生きながらえている、勘違いでもいい、そう思おう、読み進める勢いがつく。
前の主人が家の経済事情からトムとエリザの子供を手放さざるをえなくなり、トムは売り飛ばされ、子供はエリザが連れて逃げる。
130ページのエリザと夫ジョージの再会場面の前のシーン、世話になっているクエーカー一家の中の様々な人の動きが家の中の様子とともに生き生きと描写されていく、女性ならではの説得力。
一方、トムは成り行きで奴隷市場でたまたま川に落ちた女の子エバを助けることになりそれが縁でプランテーションで成功したニューイングランドの貴族階級出身の父を持つ大規模農園経営者に買われていく。
トムを敬虔なクリスチャンと見たその経営者セントクレア(ファミリーネーム)ことオーガスティンがいとこのミスオフェリアを相手に家業に対するアンビバレント:二律背反な自分の心情を吐露する場面に力が入る、、
双子の兄弟との性格の違いにも触れながら、堰を切ったように迷いをぶちまける場面。父親譲りの貴族階級のあるべき役割迷いなく実行していくアルフレッドと敬虔なクリスチャンである母親の心情に近いオーガスティン、209ページ
セントクレア(:オーガスティン)が子供だった頃…それ(奴隷制度)に疑いを持つものはいなかった… nobody dreamed any harm in itと著者はセントクレアに言わしめているが…巻末注釈#175を見ると、この部分について… A devious proposition疑わしい書き方、作文、とされ 、ジェファーソン(第3代大統領)は奴隷制反対を強く独立宣言に盛り込むように要求したが議会はそれに反対した: Jefferson, for example, wanted to include a strong statement against slavery in The Declaration of Independence, but the Congress opposed it.
と、例を挙げて解説してある… 注釈により、ストーさんの創作上のドライブ:ねじ曲げが感じられたけど、、作品の価値には関係ありませんね、、、偉そう😅
時々著者のストーさんが素:すの顔で物語に割って入って読者に向かって呼びかけてくるのも面白い「間:ま」だ。225ページ
アルフレッドとオーガスティンの双子の兄弟2人の会話がおもしろい、つまり…然るべくして存在する貴族階級が蒙昧な連中を統べて、社会をまとめるとの父親譲りの固い信念を持つアルフレッドと奴隷たちを使い大農園を切り盛りしてはいるけれども敬虔なクリスチャンであった母に傾き、道徳的でもあらんとするオーガスティン。当時このような会話がアリストクラット:貴族階級では交わされていたのかもしれないなと大変興味深くこのシーン読みました、 248ページ
280ページ
愛娘エヴァをなくしたトムの主人オーガスティンとトムの会話はドストエフスキーの大審問官のシーンとダブりました。キリストはいるのかいないのか?見えるのか?とオーガスティン、感じます!とトム。1800年前の人間がそれほどの長きにわたって生きて力を及ぼすなど、ありえない、、、でも何かがそこにある事はわかる、とオーガスティン。ややあって、オーガスティンは、トムの心からの祈りを聞いているうちに…なくなったわが子、エヴァをトムが引き寄せたことを感じる。
ほどなくして、、オーガスティンは酔った知人の護身用ナイフで刺され絶命する。293ページのほんの短いワンパラグラフの出来事。
150年以上前のアメリカの歴史のの証言者としてのこの小説の果たした役割は深く重い。ストーさんは奴隷市場も現実に見ているだろうし奴隷の悲惨さも見ているし、身の回りにもたくさんの奴隷が存在していたろう。
つまりこの小説はストーさんの身を切るようなかなりの成分が含まれている。何が言いたいかと言うと…小説の内容が現実から遊離していれば当然当時の読者に受け入れられなかったろう…よってこれは歴史的な証拠であり得る。小説の形で残ったある意味「生き証人」ではないでしょうか。奴隷の母親から生まれた子は世代を重ねても奴隷の子、運命を同じくした彼らの間でも肌の色による階級意識?差別意識があり…当然のようにしてそれらを利用する者も多数いたと言う事、制度維持、放置し、それを利用するシステムは世代人種様相を変えて現在も容易に復活すると言う位の用心深さは必要だと思いました。
アンクルトムはストーさんがアンクルトムを、ぶれることのないクリスチャンとしてキャラクタライズ:性格付けした上で、次に、自分が作ったアンクルトムの「実像」を通して、つまり抑圧を受けている当事者である彼の力を借りて、静かに奴隷制廃止をアピールした、と僕は思い至り、ストーさんの深謀遠慮に恐れ入りました。
振ってくださった話題恥ずかしいですが知りませんでした。見て見ぬふりしてきたつけは、いつか誰かが払わなきゃならない。しりませんでしたわかりませんでしたでは済まない問題ですね。自分の問題として身に引き寄せて見て考えないと何も始まらない…今巻末のストーさんの読者に対する呼びかけの10ページほど読んでいたんですが…彼女の旦那さんが当時学校をやっていて奴隷出身者を教育してたようですね、その成果も例証してます。ストーさんは、教会は見て見ぬふりをするな、奴隷のトレードが盛んな南部のせいばかりにするな、北部も同罪と口を酸っぱくして呼びかけていました。 本の中のエピソードも事実に基づいているものが多くて…迫力ある場面はやはり事実だったかと納得しました。