(お能 老木の花 : 白洲正子著
講談社文芸文庫 : 1993年4月刊)
「イモヅルシキホンノキ 028」の続き・・・
① < お能 >
ディケンズの「骨董屋」が長編なので…飽きて…一旦図書館に返却した。すぐにアマゾンで取り寄せてその気になったら読むことにして手元に置いておいた。
この白洲正子の本は読んでいる途中で…やっぱりちょっと飽きてずっとそのままにしておいた。
一気に読めなかったのは…ある絵ついての感想が気に入らなかったからだ。本の中ではシャガールの名は出していないが僕はすぐに彼の作品の事と分かったのでググった。やはりシャガールの「私と村」についての感想に間違いない。面白くなかった。
今日思い返したら…これはあくまで感想なのである…と思ったら彼女の正直さが今度は好ましく思えた。で、読み始めた。
47ページからの引用
「花筐:はながたみ」というお能の稽古をした時のことです。舞のなかで「月を見る型」をする個所があります。じょうずな専門家たちのをみると、その「月を見る型」には何とも言われぬ余情がただようのを、私はこの目で見て知っています。もちろんお能を自分でする以上自分でもそれと同じことがしてみたく思うのも当たりまえのことです。
その月は皎々と照っていなくてはなり
ません、
その月は中点にかかっています、
あたりには冷え冷えとした秋の夜気
がただよっています、
真夜中です、
草のひとつひとつにまで月の影は宿
っています、
そういうけしきをあらわすのです。
引用以上。
「そういうけしき」を表すために上を見る形をするだけだそうです。たちまち先生からお叱りを受けます…なってない。上を見る仕草の中に自己満足を含む「これではどうか?」と言う気持ちがありありと見える、と言うのです。
著者はいろいろ反論、を試みますが… 例えば49ページで「何も考えずにしろ、とおっしゃいましたから考えずにいたしております。しかも一生懸命考えまいとそればかり思っているのですが…」と言うと先生の温かい顔がほころびました。「それですよ。あなたが考えまいと思うことがたたっているのですよ」
意識的に無意識になろうとすること。「考える」のはやさしく忘れるのは難しいのです。
僕はここを読んで本当にそうだなぁと思いました。何の根拠もありませんけど。
絵画で言うと…補償心理、描き切らないで不足部分や隙間を鑑賞者に身を預けるよう描き方、つまり日本画の余白のように鑑賞者の心の参加を以って作品を完成する、、、全くとんちんかんなこと言ってる可能性もあります。今後読み進めていってまた違う判断が出てくるかもしれません。この著者はこれからずっと人間の風景について語っていくのだろうと想像がつきます。日本人の風景。
ちょっと脱線、、、あれは中学を卒業して高校1年生の時でしたか、親友が僕の家に訪ねてきていろいろ話す中で… 彫刻家のロダンの話が出ました。彫刻を見て感動したと言うのです。僕はその時変なことを口走りました……ロダンは彫刻作品のどこかにロダンと書くでしょう…なんでだろう?友達はキョトンとしていました。フランスの子供たちが遊んでいて何千年も眠っていたラスコーの洞窟画を発見した時、そこに描いた人のサインなんかなかった。無心に描ききったのに違いないのです。ロダンが天分に任せて表現し切ったものに自分のサインを入れる行為でだいなしになってしまったのではないかと16歳のぼくはその時思ったのではないかと、今そんなことを思い出しました
人間はもっと深いところでつながっている、ケチなことしなさんな(今初めて50年以上前、こう言いたかったんだと思いました)
甘いかもしれない…たかがサインじゃないかと思えなかった当時の僕、それを無視できない、関係ない、と吹っ切れないものがあったからこそ今思い出したんだと思います、、、分かり切ったことに興味がない僕はこんなことに興味があります、16歳の僕は世間の常識にがんじがらめになった今の僕と、全く違うところが気になって、全く違うところを見ていた。僕が経験の浅いその分ノイズに侵されていない若い人の物の見方を尊敬する理由です。
(これは話の流れと何の関係もありませんけど、何故か思い出したから書きました)
さて本題に戻ります…え?本題って何?
いま105ページから引用しようとしますと何か引っかかります。白洲正子の語り口の一部を引用しようとしますと無理があるのです。この本を読むこと自体もう舞台に引き出されていて、とどまることのない話の流れの中の一部を引用する事は…難しいけど、、
105ページ…舞台(シテの舞う場所)はいつでも見物のなかにつき出ています。平面的である芝居の舞台とは目的を異にすることはこれだけでもわかります。たびたび言いますように見物と同化をはかりやすいように、お能全体が群衆の中にいることを必要とするからです。
引用以上
移ろいやすい現実の中で僕ら日本人はあの世とこの世を自由に行き来していた、そんな祖先を持つぼくらなのかな?
143ページ
日本人はとかく不完全なものに心をひかれがちです。たとえばシメトリカルなものをすかないこともそのひとつです。いかにふたつの物が同じであろうとも、完全に同じ物がふたつはありえません。同じ花を見るにしても、満開の花よりも散りかたの、または蕾のうちに美をもとめます。それは「花のさかり」の美しさを事実よりもはるかに美しく想像させるからです。その想像の余地を残すということを日本人は生まれながらにして知っているのです。別のことばで言えば「人間が不完全である」ことをもっともよく知っているとも言えます。引用以上
何となくわかったようなわからないような気分のまま… 184ページ引用
お能と言うものは(大きな字)…
もう書くのがいやになりましたから止します。
最後に能を語るものとして、母の遺した歌をしるしておきます。
道の辺の小石ひとつも世の中に
かくべからざるものとし思ふ
引用以上①「お能」の項、終わり。
② 梅若実聞書、、、略
③ 老木の花
この項を書いたとき、著者は80歳、取り上げられている能の演者は視力の衰えた81歳になる友枝喜久夫。この項ほんの30ページです。①お能…を不用意に読み始め(実演の能を見たことも無いのですよ!)能の何たるか何も知らぬまま、わかったようなわからない気持ちにさせられてそれでも騙されたようにわかった気持ちになり、読み進め30ページに満たないこの項を読んだとき、生きてきてよかった、と思いました。著者が80歳にして初めて出会った感動が、その舞台を見ていない!僕にも伝わってきたからです。難しい事はひとつもない、歳にも関係はない、感動は伝わる。能動的に生きているからだ、と思いました。
画家・彫刻家・書家はもちろん、工芸品にだって昨今はサインはしますよね。いや、昨今じゃない、昔から。花押とか言って、もったいぶっちゃってさ。あ、それで今頭に浮かんだのですが、アルブレヒト・デューラーのサインって花押っぽくないですか。AとDの組み合わせなんだけど、Dの上のAが鳥居みたいな形をしていて面白い。(写真参照)
それはともかく、私もこの署名の習慣にはちょっと抵抗があり、あるとき花瓶の底に銘を見て「こんなのなければいいのに」と言うとそばの人が「自分の作ったものに責任を持つってことでしょ」と言うんだけど、そうかなあ。世の中がどんどんブランド化していく背後にこの銘への拘りがあるんじゃないかなあ。
私なんか、作った人の名前が分からないきれいなものを見ると、その人物像を勝手に作って楽しむのだけれど。あ、これは「余白」にも繋がっていますね。
余白って言葉、これにほぼ該当するシュピールラウム(Spielraum)っていうドイツ語があるんですよ。Spielって「遊び」のこと、Raumは英語のルームに相当。だから遊びのスペースがあるって意味で、余裕とか、融通を利かせられる範囲。最近の日本語でよくみかける「のりしろ(糊代)」のことでもあります。
「あ、全部描き切らないでね、私が自由に想像する余地を残しておいてね」が日本人、でも西洋画って、「そんなもの残してやるものか、俺は俺の主張を描き切るんだ」っていうのが多い。それに比べると日本画や浮世絵は疲れませんね。元気いっぱいなら
絵画と対峙、というのも面白いかもしれませんけど。