お能 老木の花 : 白洲正子著
講談社文芸文庫 : 1993年4月刊
11ページ はじめに、より引用
お能と言うものはつかみどころのない、透明な、まるいものである、と一口に言ってしまうこともできます。同時に何千何万のことばをつらねても、言いつくせないものであります。芸術はすべてそのようにとめどのないものですが、それは片手にのせるほどの小さな茶碗一個でも完全に表現することができます。お能もまたそのとめどのないものの円満な代表者であります。
(引用終わり)
朝4時ごろ目が覚めて、きゅうりを漬けて、ギターの練習用の音符を眺めて、さて、お腹が空いているのだが、一緒にきゅうりも食べたい、きゅうりが漬かるまでに少し時間がある、で、時間つぶしも兼ねてこれを書いています。
昨日届いた上記の本を今開いて…ほっとしました。ディケンズの「骨董屋」と言う本の上巻引きずり回されるような感じで昨日読み終えた、ちょっと大げさ…
今、昨日届いた上記の本を開いて(ディケンズの後だったので)ほっとしました。それが引用した部分です。まだ1ページも読んでいません、半ページです。読んでいないので感想の書きようがないかと言えばそんな事は無いのです。
僕はこの文章を見たとき目が覚めました。二重の意味で目が覚めたのです。芸術とはわかりやすいものだ…上記の文章の中にそんな事は書いてない。でも僕はそう読み取りました。芸術を何と言ってもいいし、何と呼んでも良い。芸術を説明してどうする。なんのこっちゃ。
昔知り合った友人に能が見たいと言われ渋谷にある能楽堂に連れて行った。幸い?休みだったので、都知事の官舎だか通り過ぎて蕎麦屋に入った。彼女はアフリカ系だったので?店に入ると店にいた全員が彼女を見た。アフリカ系だったから見たのではなく耳には耳がちぎれんばかりの大きなゴールドのイヤリングが輝いていたし、多分美人だったからだろう、と、連れを慰めた。どこへ行ってもこれだ、と飽き飽きしたようにシュラッグ、肩をすくめて手を広げた。あの頃はそんな時代だったんですね、そうさなぁ、30数年前。
能が気になって小林秀雄の能に関する本を読んだ、何か聞かれたら困るなと思ったもんだから。友人やら本やら、そんなことをこの本の1ページを開いたときに思い出した。あ、びすこさんが、僕の駄文に反応する訳がわかった。歳をとるとはこういうことなのだ。ちょっとしたきっかけがあれば…それに伴って思い出がズルズル引き出される。僕のおばあちゃんが…火鉢の灰を均し:ならしながら、1日物思いにふけっていたのもこういう訳だったのか…なるほど。あ、びすこさん、お気を悪くしていませんよね?
能を演じると言う事は、、、どういうこと?
1ページ目で僕はこの本を読む気になりました、、、さて、きゅうりも漬った🥒頃だろ、失礼します。
おー、これは好一対の句ですね❣️のどかさの中に馴染んだ火鉢が寄り添う風景(人間が寄り添うのではなく火鉢が寄り添う)とニ句目は一瞬をくっきり切り取ってあますところなしかっこいいです、恐れ入りました、びすこさんにしか作れない句😌勉強になりました!