小さなものの諸形態: 市村弘正著:筑摩書房1994年4月刊
昨日の夕方物干しに出て椅子とテーブルを出し兄からもらったビール(兄は新聞の拡張員さんから洗剤だのトイレットペーパーだのビールだのをせしめている)を飲みながら岡島書店で100円で買ったこの本を読み始めた。南京豆とおせんべいぽりぽり。一章ごとにまとめられているのでどの章からでも読める。中に気になった書簡集が紹介されていたのでわけもわからず単なる興味で早速スマホで図書館にリクエスト→ベンヤミン/アドルノ往復書簡
気に入った章から読み始めた、、、祖国を追われたバルトークのアメリカの晩年の5年が語られている。在日韓国3世の若い友人が語られている。戦争が始まったのは知っていたけれどそんなものとは無関係に陋屋に倒れた詩人、尾形亀之助(※彼の詩を一番下に載せました)が語られている。よって立つべき足場を取り払われても格闘した人たちの、あるいは格闘している人たちの独り言が語られる。語られたのは多分…弱さの強さ(僕が女性に興味あるのもたぶんこれだ。単に筋肉の強弱を言っているのではない…筋肉の強さで言えばなんてことない女の人が強靭な腕力で僕が回しきれなかったネジをドライバーで🪛いとも簡単に取り出したことがあった!)
(前、この本を読んだ人、つまり前のこの本の持ち主の書き込みが凄まじい。鉛筆の部分は全て、消しゴムで丁寧に消した。怒ったような筆跡なんだけど…消しゴムで簡単に消されてゆく。蛍光ペンで書かれたところやボールペンで書かれたところは消せない。消し終わった後で…今度は僕が彼または彼女の代わりにスマホのメモに音声入力して本の断片を書きつけて行く。以下はそのメモです)
・・・つまり、誰も欲しないものを誰もが血眼になって追い求めると言う荒涼たる事態、その食い違いの微かな残像すら消滅する状態へと向かうのだろうか。私たちがそれを望まないならば、少なくとも、残像を抱えて立ちつくし、欲望に待ち伏せされ、思い決して行動し、自他の破壊をもたらして、また立ちつくす---この「消耗戦」的生活循環を断ち切らねばなるまい。
空虚が私たちの内にどっしりと腰をおろしているならば、むしろそれが何ものかに回収されることを拒否しなければならない。それを措いてほかに認識の踏切板はないだろう。どれほど頼りなく思えようと、「手応え」ある欲望の身振りなどに血道をあげるよりも、消えゆく世界の残像と影の行方をこそ見据えなければならないのである。112ページ
「相互依存を認めることが恥ではなく解放であるような社会」のための助走路となるかもしれないのである。138ページ
どのような与えられた存在規定にも同化しない「自分」を生きることが、その社会の基礎となるのである。172ページ
それぞれの「弱さこそ自分を助ける」ものとなる。「弱さ」は新たな社会関係の基礎を形成することにおいて、自己を救出する力となるのである。それが弱い「私達」が孕む可能性であろう。172ページ
以上思いつくままにメモしましたけれども…なんか僕自身を力付けてくれる字句だったもんですからメモしただけです。意味がきちんと取れたわけではありません。
(今これを書いていたらスマホの画面の上のほうに…アメリカでアルツハイマーに効く新薬が作られたとかというニュースが流れた。これで安心してアルツハイマーになれると言うことだろうか)
※「ねずみ」昭和十ハ年 尾形亀之助
いろんな
車輪が
すべって来ては
あいろんみたいにねずみをのした
ねずみはだんだんひらたくなった
ひらたくなるにしたがって
ねずみは
ねずみ一匹の
ねずみでもなければ一匹でもなくなって
その死の影すら消え果てた
ある日 往来に出て見ると
ひらたいものが一枚
陽にたたかれて反っていた
(27ページより孫引き)
おーファウスト博士!あ、そうなんですか文庫本、昔の文庫本って字がちっちゃいんですよね、狭いところに詰め込むの好きですね、確かに!
尾形亀之助の詩、いいですね。怖いことをこんなにやさしく書ける。聞いたことのない詩人ですが(知ってることは知らないことの何億分の1だから当たり前)、こういう人を発見するのも古書渉猟の醍醐味でしょう。
小さなものの諸形態と言えば、ある作家が日本人は小さなものが好きで、文庫本が人気なのもその好みに合致するからだろうと言っていますが、文庫本って、ドイツのレクラム版を真似、いや参考にしたんですって。