The Peculiar Institution:奇妙な仕組み
(Slavery in the Ante-Bellum South:南北戦争以前の奴隷制度)
Kenneth M ・Stampp著:Random House 1956年刊)
必要があって黒人差別に関する本を読んでいたら…アンクルトムが軽蔑を以って使われているのによく出くわした。アンクルトムみたいなやつだ…白人におべっかを使う黒人、の意味だ。本当のところどうなのか気になって、だいぶ前に発売当初の形に近いものを取り寄せておいてほったらかしになっていた本(Uncle Tom’s Cabin:アンクルトムの小屋)ですがやっと読む気になりました、、、
と、その前に…「構え」を作らねばならない。あいつはアンクルトム…は、悪口。黒人が黒人を非難する、時代を超えて!…ちょっとひどくないかな(昔の人が今生きていたら言いたい事は山ほどあるはずだから)
そんなことも気になって、、、アンクルトムを読み始めたものの後から取り寄せた上記のこの本を先に読み始めたわけです。各ページに付いている脚注は無視しました。わからない単語も文脈から大体想像がつくところは無視というか…読み飛ばしました。つまり相当読み飛ばしたと言うわけです。それでも胸にずしりと重い内容でした。アメリカ南部の条件の悪い土壌、沼沢地で働かされ伝染病に倒れていく奴隷たち、天候に左右される大小の農園経営者たちの焦り、見栄、投機、性暴力、リンチなどが資料に残された手がかり、当時の証言などで記述されていく。僕は無理は承知で、アメリカの南北戦争以前…つまり奴隷解放が行われる前の白人の貧民層、大小の農場経営者、あるいは奴隷…の立場に自分の身を置いてみたりして読みながら、腹が立ったり、掻きむしられるような処理できない感情に、気分を悪くしながらやっと通読しました。
読み進める中でReticent …寡黙、感情を表情に出さない… 330ページにこの単語が出てきた時、虐げられ家畜扱いされてきた人間の成れの果てに…無表情に見えるこの表現の重さに胸を突かれました。
階層をつけるのは人の心だとつくづく思う。そもそも僕らの身にマインドセットされているのではないかと思わせるほどその感情の根は深いと思ってしまいました。
例えば奴隷にしても自分のマスター(主人)がどのぐらい裕福かが他の奴隷、に対するプレスティージ威光になるのだ。寄らば大樹の陰と言う訳だろうか… 338ページ。つくづく差別の種はどこにでも転がっているものだと思う。人間と言うものは比較して差別することが好きな動物だと思う(そうすることで簡単に感情処理ができてしまう)。よっぽど気をつけないと僕自身も自分の心の平静のためにこの差別を行ってしまうことがある。
A thousand-dollar slave felt superior to an 800 dollar slave. 339ページ、、、家畜同然の扱いを受けで取引され、市場でついた自分自身の値段が、他の仲間たちへの見せびらかしになる(自分自身が売買された値段でもあるにもかかわらず!)
冬は凍傷が起きてしまうほどの粗末な小屋に押し込められた奴隷家族の中の一般的な夫の惨めな状況も報告されていました。
The husband was at most of his wife’s assistant, a companion, and her sex partner. He was often thought of as a her possession (Mary’s Tom ), as was the cabin in which they lived. It was common for a mother and her children to be considered a family without reference to the father. 344ページ
意訳:夫は子供と母親の家族の中の、妻の持ち物(セックスパートナーでありアシスタント)である。
人種間の混淆も盛ん(特に男女間)であったけれど泣きを見るのはいつも女それも黒人の奴隷。家畜並みに子の製造機械。子供は減価償却期間の長い高額資産!
故郷(アフリカ)の歴史も知らない世代交代が繰り返され脳裏に深く刻まれるのは家畜としての歴史。こんな悲劇があるだろうか。酷使され冷遇され続けた肉体がつかの間のクリスマスには叫びとなってこだまする。その悲しい一片が、今に残る黒人霊歌に連なるか。
奴隷解放後も体に刻み付けられた忌まわしい過去は簡単に捨てられない。reticent寡黙、簡単に口をわらない無表情…悲しみの深さの象徴。解放されたからといって馴染めるか?白人にも混血児にも黒人にも染み付いた忌まわしい過去は同じ年月をかけて少しずつ解消していくしかないのではないだろうか。解消していかなくても理解する努力は惜しむべきじゃないだろう。僕らは差別を好む動物(私見)であると言うことを忘れてはいけないと思う。
この本の最後の方で1860年前後の奴隷と白人の貧困層との軋轢も描かれている。白人がストライキを打った時奴隷たちがその補償として使われる、そのことについての軋轢だ。このときの複雑な双方の感情が150年以上経った今に及んでいるとはとてもじゃないけど思えないけれども…僕は最近不思議な感じにとらわれている。と言うのは親から子、子から孫へ繋がれる感情は結構重い。僕は運命論者ではないし迷信は嫌いな方ですが人間の心に巣食った嫌な感情はきちんと整理しないといつまでもくすぶる宿痾:しゅくあ:持病のもとになると思う、見えない鎖が今も黒人をつないでいるように。断ち切るのは誰だ。簡単には立ち切れない、人間の本性が立ちはだかっているのだから。何も変わっていないのだと思う方がいいのじゃないかと思ってる。人種を問わず持っている人間のもって生まれた競争心とどう向き合うかの問題だ。繰り越された大問題だと思う。… 20世紀の殺戮の時代の次の21世紀の人類存続のための大問題だ。問題を片付けると言う姿勢よりは僕ら人間自身をもっとよく深く掘り下げて知ることだと思いました。純粋とか真実とか一時的に感情を満足させるそんな言葉に惑わされることなく、、、。歴史に刻んでしまった痕跡を変えることはできないけどなだめることはできるんじゃないだろうか、なだめなきゃいけないのは抑圧者と被抑圧者の構図ではない。自分の内なる抑圧者だ、モヤモヤする感情の行き場がありません。おまけに今は梅雨、その上コロナ禍。初代若乃花、人間辛抱だ😑
今含み多いコメントを読ませていただきながら、誰だって好んでは取り上げたくない話題ですけれども、、、びすこさんもさらに少しこのいざこざ、さらにはその周辺取り上げて下さったらありがたい、お聞きしたいです、ぜひ!
歴史修正主義とまではいきませんが、学界やジャーナリズムの世界でなくもっと卑近な文学(ことに児童文学)や映画でも、それは間違っていたのではないかと疑問を抱くことは多々あります。
アンクルトムが書かれた時代の諸相を考えると、ストウ夫人はやはり偉かったと思う。ところが世の中の進展に伴って「あの程度のヒューマニズムでいいのか」という声が出て来るのも当然でしょう。何世紀も昔のことを今日の価値観で判断し否定し葬り去る、ということには大いに疑問があって、そういう時代を経て今があるとも言えるのですが、「そういう時代」に苦渋をなめさせられた人やその子孫としては黙ってはいられないというのもまた当然だと思います。
白人におべっかを使う黒人という非難は今でもあるでしょう。もしかしたら、オバマなどもそう見られているかもしれない。オバマが白人エリートの価値観に背を向けていたら、大統領にはなれなかったのではありませんか。あるいは今を盛りのBLMを先取りして人気を博したといえるかもしれない。
公民権運動が盛んになった1960年代に登場した黒人俳優のシドニー・ポワチエにも同じような批判があって、「野の百合」という映画で黒人として初めてアカデミー主演賞を受賞したとき、一部の特に左派からは嘲笑の言葉が投げかけられていますね。
児童文学でいえば、例えば今も女の子に人気がある「若草物語」など、上流社会の偽善を指摘しながらその偽善に乗ったままの貧困者の描写があり、子だくさんのドイツ系家庭の貧しさについても、あたかもドイツ人であることが貧困の理由であるように書かれています。何度も映画化されましたが最新版ではもちろんそれは外され、女性の自立みたいな主張が中途半端に出てくるけれど、こうなる原作との襞たりが大きい。
また女の子の必読の書ともなっている「赤毛のアン」、ここではイタリア人・ドイツ人の行商人を軽蔑する表現があるし、フランス人は頭が悪いと決めつけられている。これが書かれた20世紀初頭のカナダでは、英国系以外はどうやら劣等民族のような扱いだったらしい。
でもそれを理由にこれらの書物を焚書にすべきでしょうか。黒人が侮辱的に扱われている「風と共に去りぬ」のビデオなども発禁にすべきでしょうか。(私は黒人の扱いでなく、スカーレットが自分の商売に鎖でつながれた囚人を使う場面を見て、もうこの映画は見ない、と決めたのですが、実はこれ、さる隣国が中東の土木建設現場でわりと最近までやっていたことなんですけど。)
「奴隷にしても自分の主人がどれだけ裕福かが他の奴隷へのプレステージ威光になる」というのは、ほんの最近までの日本女性の他の女性に対する態度とそっくりだと思うし、「虎の威を借る狐」程度なら今でも腐るほどいます(断言)。
あら、まあ、えらく長くなってしまった。いっそのこと、今回のいちまるさんのブログをヒントに私も書いてみよう。クレマチスさん、またお手間をかけます。