魔の山:トーマス・マン:高橋義孝著:新潮文庫 上・下巻1,969発行
ずっと気になっている本だった(それから50年以上経ってしまいました)。ハンス・カストルプはケーニヒストベルクに近いドイツの国際サナトリウム、ベルクホーフ結核療養所サナトリウムに結核療養中のいとこのヨーアヒムのところに3週間の予定で訪問逗留する。そこでの人間模様。死が日常的にあり、と言ってそれを声高に吹聴するのはご法度ということになっているような環境です。本を読んでいると立派な施設であることがわかります、食堂で給仕される食事もたっぷりで豪華。結核の進行度合い、滞在時間の違いによって利用者(今流行のことばを使ってみました、本の中では療養客)の心持ちに微妙な変化をもたらす。カストルプの逗留期間が過ぎる頃、幸いにも?肺の湿潤が発見され…逗留期間が長引くことになり、この施設で養生することになる、所作と話し方にやや品格に欠ける1人の利用者の夫人(クラウディア・ショーシャ)にカストルプがドイツ式?に告白、そして同衾を匂わせたところで上巻が終りました。
(※ケーニヒスベルクは現在火種になりそうなロシア要衝地カリーニングラードですが、それとは関係なく「結界」としての小説上の舞台装置として設定した環境の1つと僕は理解しています)
つぎ、下巻、最初から引用いたします。読みにくいかもしれませんがさらっと読み下して下さいませ
7 〜8ページ 移り変わり
時間とは何か。これは一個の謎である……実体がなく、しかも全能である。現象世界の一条件であり、ひとつの運動であって、空間内の物体の存在とその運動に結びつけられ、混ざり合わされている。しかし運動がなければ、時間はないであろうか。時間がなければ、運動はないのであろうか。さあ尋ねられるがいい。時間は空間の機能のひとつであろうか。それとも逆であろうか。あるいは、ふたつは同じものだろうか。さあ問いつづけたまえ。時間は活動し、動詞の性質を持っている。時間は「生み出す」のである。時間はいったい何を生みだすのか。時間は変化を生みだすのである。現在は当時でなく、ここはあそこでない。ふたつの間に運動があるからである。しかし時間測定の基準とされる運動は、循環して、完結するのだから、それはほとんど静止、休止と呼んでいいような運動であり、変化である。なぜなら当時は現在の中に、あそこがここに、たえず反復するからである。さらに、終りある時間とか局限された空間とかは、どんなに努力してみても考えられないことなので、業(ごう)を煮やしたあげくに、時間と空間は永遠で無限であると「考えるように」決めてしまったというわけである。……こういう考え方は完璧とはいえないまでも、そう考える方が考えやすいからという意味で、。しかし永遠なるものと無限なるものを定立することは、局限された存在、終りある存在をことごとく論理的、数学的に廃棄してしまい、相対的に零(ゼロ)に還元することを意味しないだろうか。永遠のなかでの事の継起、無限のなかでの物の配列がありうるであろうか。後略、
引用以上
下巻517ページ
フェルゲ氏はこんなふうに話をしてみせたが、この小さなグループの中で、複雑に入り組んだ関係圏外に立っていたのは彼だけであった。ところでこの厄介な関係については、ふたつの短い対談をここにしるしてしておかなければならない。それはこのころ、私たちの小説の、主人公らしくない主人公が、クラウディア・ショーシャと彼女の旅の伴侶とを相手に、そのそれぞれのひとりずつと交わしたふたつの不思議な会話である。ひとつはロビーである日の夜、「邪魔者」が熱をだして上の部屋で寝ていたときに、もうひとつはある日の午後、メインヘールの枕もとでハンス・カストルプとメインヘール・ペーペルコルン(※まぁパトロンといったところ)とが交わしたものである。…
引用以上
(唐突にこんな引用を出されて面食らわないでください、訳があります。この作家の読者を本の中に引っ張り込むあざとい仕口を見ていただきたかったのです。上記の…舞台回しのト書(とがき)にころっと乗せられた僕はこの本の終わりまであと300ページを残しましたけど一気に読みたくなりました。それにしてもこんなふうに、読書の途中でこの本の紹介をするとは思いませんでしたが…僕はこれから手がけるつもりの小説の執筆の決心がこの本を読了してからでは鈍る可能性があるからなのです…魔の山、に打ちのめされる可能性なきにしもあらず、で、一昨日このフォーラムで執筆宣言いたしました、何様のつもり😅)
ペーペルコルンとカストルプの会話…カストルプ、、
560〜562ページ
「僕はもう長いことここの上にいます、メインヘール・ペーペルコルン、もう何年にもなるのです。……どのくらいになるか、その正確なところはもうわからなくなっています。とにかく自分の生涯の何年という年月をここで送っているので、それでさっきも「生活」といったのです。「運命」のことはまたしかるべきおりにお話ししましょう。僕はいとこ(※傍点付き、以下同様)を見舞うつもりでここへのぼってきたのです。いとこというのは軍人で、誠実なしっかりした心のひとでしたが、しかし、不運な男でここで死んでしまい、ぼくだけがいまなおここに残っているというわけなのです。ほくは軍人ではありませんでした。たぶんお聞き及びかと思いますが、ぼくはここへくる前にはある市民的な職業に就いていました。手堅いちゃんとした職業で、諸民族の交流に一役買うという使命を帯びているというような職業なのですが…中略…
クラウディア・ショーシャに対するぼくの気持ちや、彼女を「君」と呼ばずにはいられない関係と同じ根からでているのです。はじめてあの眼に見られ、あの眼に魅せられ……理性を失うほどに参ってしまってからというもの、ぼくと彼女の関係は君と呼び合う関係だと思いこんで、それを一度も否認したことはありません。…中略…そしてクラウディアが出発してしまったあと、ぼくは彼女が帰ってくるのを待っていました。ずっとここの上でクラウディアを待ちつづけていたものですから、いまではもう低地とはまったく縁が切れてしまって、下のひとから見ればぼくはもう死んだも同然の人間になってしまいました。…中略…ぼくはいつか小説で読んだのですが……いや、芝居でしたが、ある善良な青年が……僕のいとこと同じ軍人でした……これが魅力のあるジプシー女と関係する話なのです。……その女というのが、耳のうしろに花を挿した野性的な、宿命的な女で、青年の魂をすっかりとりこにしてしまいます。そのために青年は完全に道を踏みはずしてしまって、女のために何もかも犠牲にして、脱営し、女といっしょに密輸入者の群れに入り、すっかり堕落してしまうのです。さてそうなると、女は彼に飽きてしまって、闘牛士とくっついてしまうのですが、それがまたすばらしいバリトンの持ち主で、女が絶対にいやとはいえないような男なのですね。そうしてこの気の毒な兵隊が、顔を真っ青にして、シャツの胸をはだけてでてきて、闘牛場の前で女を短刀で刺し殺しておしまいになるのですが、女はまさか男がそんなことまでするとは思わなかったので男を挑発したというわけです。なんだか、突拍子もない話をしはじめてしまったようですね。しかしいったい、どうしてまたこんな話を思い出したのでしょうね」以下略、引用以上。
どうでしょうか…長い物語の短いご紹介ですが…全体を読んでみたいとは思いませんでしょうか…まぁそれに失敗したとしても…僕自身はこの小説をパクリたいと思いました。閉じられた環境で「世界」、、誰だって語ってみたいですよね。きけば村上春樹も、この小説をぱくってできたのがノルウェーの森とか…僕がぱくって悪い事はないと思いました、チンピラの分際で隠れるとは到底思いませんけど😂
あ、ところでザシキローノマドは今回で一応終了にいたしましたので…イモヅルシキホンノキも一応これまでとすることにさせていただきます。後は次回のシリーズで面白い本があったらたまに紹介させていただきたいと思います、引き続き読者でいて下さいますようよろしくお願いいたします♪
(※僕は「魔の山」にこの年になって出会って良かったと思っています。17歳の時に初めてドストエフスキーの小説カラマゾフの兄弟、に会ったときの衝撃、若いときの、若い感受性とは違う人生経験が重なったこの年齢なりの受け止め方ができたと思ったからです。とはいうものの…登場人物が僕の目の前にまるで現出したようなリアリティーあふれる描写はどちらの作品も同じです。
今気がついたのですが…今回ところを得て小説を書いてみるわけですが…小説を書くということは、会話文が生きているかどうか、生かせるかどうか、というか…自分自身がちゃんと生きているかどうか、生きてきたかどうかの踏み絵のようなものなのかもしれないなと思いました。その意味では誰だって、多分、ご気楽に暮らしてきたわけではないので、ある年齢に達したら誰にとっても小説を書くことは難しくない。よく言われている、誰でも一生のうちに1冊は小説が書けるという意味はそういうことだろうと思う。でもちょっと恥ずかしい。よくも悪くも自分がさらけ出されるからだ。露出趣味。若い時、業界紙の新聞記者の友人から、いちまるさんは自己顕示欲が強いと言われました。露悪趣味と言われないように注意しようっと、、あはは😅😁
イモヅルシキホンノキ今日まで読んで下さってありがとうございました😊
この年になって「魔の山」に出会ってよかった。分かります。小説は年とるとあまり読まなくなるから若いときにうんと読んでおくとよい、と言われていたのですが(そして、まあ、その助言に従ってきたのですが)、10代・20代で読んだ本の内容をちゃんと理解していたかというと、甚だ怪しい。だけでなく、既に読んだ、ということで再読の機会があっても気が乗らない。40年、50年の歳月を経て再び読めば、理解力も感慨も明らかに違うと思うのですけどね。