ひきこもりから見た未来:斉藤環著:毎日新聞社2010年6月発行
(図書館の廃棄本です。著者は巻末の紹介によると…専門が思春期・青年期の精神病理学、病跡学、ラカンの精神分析、などとなっています。
廃棄本は、今から10年前あたりの本が多いのでその頃のことを思い出したい僕にとっては、もっけの幸いです。今の生活と気持ちの上で隔世の感があります。このイモヅルシキも、今年中には一区切りの#200号位にはなると思います。1年ぐらいして振り返ってそれを読んだとき自分自身でどういう感想を持つのか、とても楽しみにしています。毎度申し上げてますが、図書館の廃棄本は僕にとっては宝の山です♪採集?目当ての図書館への日参はまぁ芋掘りに行ってるようなもんです😙)
77〜80ページ
敵の見えない時代の倫理
2008年6月8日に秋葉原で死者7人、負傷者10人を出した通り魔事件は、依然として各方面に大きな波紋を投げかけている。すでにこの事件を模倣したとみられる犯行予告がネット上で相次ぎ、これまで17件が摘発されている(6月24日付「毎日新聞」Web版)。…中略…加藤容疑者については、その極端な自己中心性や現実感覚の乏しさを指摘する意見も多かった。しかし、そうした視点からの理解だけでは、彼を追い詰めた社会的・構造的要因を取り逃してしまう。まして、ネット上で彼に寄せられた多くの共感は、自己愛だけでは理解できない。
もちろん、彼の「本当の動機」はわからない。しかし、こうした共感の構造については、十分な検討にあたいするだろう。
彼のネット掲示板への書き込みには、異性関係への強い渇望がみてとれる。しかし「彼女さえいれば」「不細工には人権などない」といった表現には、自分の容姿ゆえに異性と関係を持ちえないという劣等感や絶望感もうかがえる。
そうした劣等感そのものは、ニートやワーキングプアに限らず、内向的でひきこもりがちな若者にしばしば見られる自意識のあり方だ。彼らの多くは、みずからを「非モテ」「キモメン」(気持ち悪い男)といった言葉で過剰に卑下しがちである。
客観的には必ずしも醜くないにもかかわらず、なぜ彼らはそう確信するのか。
彼らは、その能力の有無とは無関係に、多くは些細なきっかけから、自らをコミニケーション弱者と決めつけてしまう。ここで重要なのは、「弱者であること」が必ずしも被害者意識につながらないことだ。むしろ彼らの多くは、はっきりした自覚もなしに「加害者意識」のほうに傾いていく。なぜだろうか。
「人は見た目がすべて」といった外見重視の傾向は、昨今ますます強くなっている。本質(心理)と外見(身体)の一致が、かつてないほど広く信じられているのだ。こうした風潮のもとで、「醜さ」は罪になる。…中略…こうした、強いられた加害者意識の背景には、現在における「敵の見えにくさ」もあるだろう。ニートやワーキングプアたちを苦しめる「敵」は、もはや資本家や政治家のような「個人の顔」を持っていない。苦痛の元凶はネオリベラリズムという名のシステムとして漠然とイメージされているが、このシステムは「自己責任」という規範を強要してくる。
自己責任の論理は、若者たち自身によって進んで内面化され、それが内側から彼らを苦しめる。自己責任も果たせずに社会に迷惑をかける「醜い」存在として、彼らの加害者意識はいっそう強化されてしまう。…中略…
おりしも80年前に書かれた小林多喜二の小説「蟹工船」が、35万部を超えるベストセラーになっている。私はその背景に単なる共感だけではなく、資本家や政治家といった「敵」の顔が見えた時代への郷愁があるように思う。引用以上。
101〜104ページ
犯罪の裏にある孤独
「人ぐすり」が必要な時代
2009年3月11日、ドイツ南部のシュツットガルト近郊の小さな町、ウィンネンデンで銃の乱射事件が起こった。日本でも大きく報じられたので、ご記憶の方も多いだろう。
容疑者である17歳の少年は、母校である中等学校に侵入し、わずか10分ほどの間に生徒9人と教師3人を拳銃で次々と射殺した。すぐに警察隊員が駆け付けたが、少年はかつて通院していた精神科病院に逃げ込み、そこで1人を殺害する。運転手を人質にしてさらに逃走し、自動車のショールームで2人を殺害して警官隊と銃撃戦になり、最後に自らの頭を撃って自殺している。…中略…
今回の事件は、昨年わが国で続発した通り魔事件と、きわめて共通する部分が多いように思われる。
まず、動機が不明な無差別殺人であるということ。ドイツでは2002年には「エフフルト事件」と呼ばれる銃乱射事件で17人が亡くなっているが、犯人の動機は自分を退学にした学校への恨みと報じられた。しかし今回の事件では、そうした動機もはっきりしない。…中略…
秋葉原事件の加藤智大被告と、少年の最大の違いは、その家庭環境である。ドイツの週刊誌シュピーゲルの報じるところによれば、容疑者はベンツを乗り回すブルジョア実業家の子息であり、彼の寝室には最新のコンピューターとゲーム機、さらに1ダースのエアガンのコレクションがあったという。
しかしおそらく、経済的な要因はそれほど重要ではない。加藤被告と容疑者をつなぐもの、それは彼らの「孤独」である。…中略…
あるウェブサイトの、彼のものとされるプロフィールには、次のように書かれていた。
「自分の好きなところを…なし。嫌いなところ…なし」。あるいはまた、彼が書いたとされる犯行予告文には、次のようなくだりがあったという。「もうたくさんだ。こんな無意味な生活にはうんざりした。いつものことさ。みんなが僕を笑いものにする。誰も僕の本当の才能を理解しようとしない…」。秋葉原事件の加藤被告もまた、ネット上に自分のことを「嫌われ者」「不細工」と書きつらねていたとされる。…中略…
若者が犯罪に走る環境要因のひとつとして、「孤独」の地位が「貧困」や「虐待」なむに高まってきたということ。ここで「孤独」とは、同世代のコミニケーション・サークルから疎外されることを意味している。同様の孤独を背景にして起こったとおぼしい事件に、2007年に起きたバージニア工科大学銃乱射事件がある。32人を射殺して自殺したチョ・スンヒ容疑者もまた、学内で孤立した学生だった。
あくまでもイメージの問題として言うのだが、いまや「貧困」も「戦争」を地獄ではない。あるいは病気や「不運」すらも。むしろ「孤独」こそが地獄なのだ。我が精神科においても「人ぐすり」の比重は、急速に高まりつつある。しかし、医療(=システム)はそれを与えられない。ただ出会いと関係の偶有性のみが「人ぐすり」を調合するだろう。
「孤独をいやす「人ぐすり」をいかにして調達するか。その処方箋ならざる処方箋を求める声が、これほど高まった時代はかつてない。引用以上。
(孤独…僕は単身高齢者世帯の孤独な老人ですが、家には人もたまに出入りしてくれているので、孤独死は仕方ないとして発見は何とかしてくれると適当に考えています、つまり外から見ている分には孤独と言うほどでもない。
仕事をしていた頃、自覚的には孤独ではあったけれど、表面上は日々、孤独ではありえない、仕事を頼む、頼まれる、中間業者なし、忙しい時は外注や仲間の応援を頼む。昔ながらの職人仲間ではなく小規模建築関連促成集団新規参入組でしがらみも少なくわいわいやって来たので、実は孤独なのに、忙しさに紛れて孤独を感じている暇がない、とまぁ大雑把に言えます、つまり孤独をかこつ暇がない。この本で取り上げている孤独はそういう種類の孤独ではない。不遇でありながら、どこからの支援もない孤独。
著者は「人ぐすり」が妙薬だと言う。孤立したい人、孤独でいたい人は、自立していると思われるので「人ぐすり」はとりあえずいらない。ところで…「人ぐすり」って何?
外からの援助がない孤立無援孤独な人は無縁、、とりあえずご縁づくりから参りましょうか😌きっかけは何だっていいやね、あはは😜規模の大きさではなくてアウトリーチ(必要な人に援助が届く仕組み)の拠点数と援助の種類の多さではないでしょうか、そのほうが機動力があるし選択肢も増えるから、、著者の代弁をしているつもり🤪)
2008年のシュトットガルト郊外の学校で起きた銃乱射殺人事件はよく覚えていますよ。私の住む州内でのできごとで、この辺りは産業が盛んなこともあり住人はかなり裕福なのです。本人が自殺して罪を問う術もないので、そのあと、銃の所有者で管理を怠った父親が犠牲者の父兄によって訴えられ、確か有罪になりましたが、その後のことは聞いていません。難しいですよね、子を持つのも命がけですね。
顔を持たない敵。今世界が頭を抱えているのは、フォーサイスやル・カレが描いたロシアや旧東独(最近では北朝鮮)のスパイなどでなく、サイバー攻撃者、テロリスト。敵の定義もそれに基づく防衛システムも、根本から構築し直さなければならなくなっています。そして特に若い人達をこういう犯罪に走らせる動機が、誰にも分からない。ドイツやフランスからアフガニスタン、シリアなどに行きそこでテロ訓練に従事している、国籍上はドイツ人・フランス人という人々も少なくありません。
変な話をしていいですか。昨夜私は、今地球の回転が少し速くなっているというニュースから、いや、もしかして地球が壊れてしまう日はそう遠くないかも、などと考えました。聞くところによると、質量が、中心というか自転軸の近くにずれてきて重くなり、そのために速く廻る、というんですが。面白いと言えば面白いけど、これは誰にも制御できず、一旦加速して崩壊のプロセスが始まったら王様も乞食も座して終わりを待つしかない。
で、そうなったとき、喜ぶのは刑務所で死刑の日を待ってる連中とか。余命数か月、長くて2年などと言われている末期のがん患者とか。みんなが死ぬなら、自分の死も静かに受け入れる気になるでしょう。多分。・・・なんて考えると、未来っていったい何だろう、と白けてしまいます。