東南アジア文学への招待:宇戸清治/川口健一編:(株)段々社発行/(株)星雲社発売2001年11月第1刷
※ #0160の続きでーす。
ビルマ文学「解説」
5 女性作家時代の真実
…中略… 91ページ
ビルマ仏教徒慣習法は、財産所有や婚姻などで女性に「恵まれた」権利を保障する。ゆえに、ビルマ女性は権利獲得のために政治参加する必要がないといわれてきた。しかし実は慣習法も、男女の不平等な条項を有している。たとえば、女性が複数の夫を持てば罰せられるが、男性は複数の妻を持つことが容認される。男性に寛容で女性に厳しい伝統的ニ重基準は、さまざまな社会通念で女性を束縛している。
モウモウはこれら男性優位の枠組み内部の愛の苦悩を描いた。しかしフランス文学を愛するジュー(1958年〜)は、枠組みの外における愛を追求した。彼女は1979年から短編を書き始めた。同時代の民衆の人生描写よりも、自己の周辺の階層の内部描写を中心に描く。医学生の非婚恋愛の回想を描いた長編「思い出に」(1987)は、長老作家たちから背徳の烙印を押された。しかし、20代30代の知識人階層からは支持を得た。時代の寵児となった彼女は、その後も自我の強い知識人男女の葛藤に満ちた愛憎の世界を描いている。長編の多くがベストセラーとなり、1部は映画化もされている。
しかしジューはすでに初期の短編「愛する人への手紙」1982、本書108頁)で、規範や因習にとらわれず、対等で束縛されない愛の求道者としての主張を大胆に展開している。この作品は極めて抽象的な表現を散りばめることで検閲をかわし、日の目を見ることが可能となった。このほか、レイプの記憶を消そうと努める娘の苦しみを描く「彼女の空」(1983 )や、レイプの恐怖に脅える少女の意識を描く「たくさんの椅子」(1990)などの短編もある。いずれも、女性の「強さ」喧伝の背後における男性支配の実態を暴くものだが、一見漠然とした表現でその主張を行間に埋没させている。
「女性作家時代」は、モウモウの早すぎる死や、サンサンヌエの投獄などともあいまって、1980年代後半には消滅した。しかしジューの影響は、若手女性作家の1部に継承されている。被抑圧者解放の武器となるべき新文学の夢も、真の女性作家時代到来の暁に実現されるものなのかもしれない。
6 詩人たち
ビルマ語は声調を持つ。子供たちは詩的な響きの中で母語を習得し、作家の多くはすでに10代で詩作から創作を始めている。現在も雑誌には、短編と並んで必ず詩が掲載される。その多くは、韻律の制約などから解放された「モダン」詩である。「人生描写」小説同様「モダン」詩も、ビルマ社会主義の副産物といえるだろう。
王朝時代にはビルマ詩のさまざまな定型が開花した。植民地時代も古典詩の形式内容は踏襲され、復古的内容が定型詩で華麗に壮大に謳いあげられた。例外的存在は、古典形式を用いて痛烈な植民地主義批判を展開したタキン・コウドーフマイン(1876〜1964)だった。引用以上。
※…とまぁビルマ語やビルマ文学を深掘りすると結構ないきさつがあることがわかりますがその辺は端折らせていただいて(ビルマ文学のほんのご紹介とさせていただきたいので…)
5 女性作家時代の真実、、の項に紹介のあった、ジューの小説、、「愛する人への手紙」から最後のほうの部分を引用いたします↓
ジュー(1958〜) 南田みどり訳
(1)〜(4)省略
115ページ
(5)
空がとても重いわ。
この重圧にただ1人耐えていなければならない者にとって、空が崩れ落ちてくる時を待っているのは、恐ろしい。それとも逃げ出すべきなのかしら……。今度はあの白い小鳥が飛び交う跡を追って行けば楽になると思います。でもうまく逃げおおせることができるでしょうか……。
険しい叱責たち、重い罰たち、溶岩の中からの中傷たち、激しい嵐たちよ、あの人のそばを離れて。あの人を自由にしてあげて。
一体どのような者どもが、愛する者たちを遠く引き裂いていくのでしょう。瞬きする間、まぶたの開閉の瞬間、ちらちら目に浮かぶあの人の姿かたちが、しだいにぼやけていくのでしょうか。いやよ、あの人の髪をもてあそばないで、そよ風さん……。
いつか1人の過去の女をふいにまた恋しくなってしまった時、あの人の接吻している時の唇も乾き、冷えてしまわないかと心配です。万事あちらに、穏やかに暖かく……以前のように……残しておきたいのです。
心臓から爆裂する愛よりも、紙切れの上の1、2の署名に注目し重視した一瞬の時のゆえに、2つの人生が深い海の底に沈められねばならなかったのですね。誰の罪でしょうか。執着して止まるところを知らなかったわたし自身の罪でしょうか? 多数者が禁じた掟を破ったがゆえに、彼らはナサエル・ホーソンの「緋文字」をブラウスに張り付けたがるのでしょうか。悪とは何?明快な意味が知りたい。答えて……答えてみて。
誰もあの世間の中にある穴という穴を閉じようとしないの?閉じてごらんなさい。窒息死するがよろしいわ。この方法が現場にとって最善の出口なのです。
(6)
あなた……お元気?
吐き気を催すような悪臭を放つたくさんの口(口臭のある者は嘘つき、毒舌家と言われる)に囲まれた暮らしは快適でして? 家庭の営みでままならぬことに遭ったら、一体どこへちょっとおでかけになれるの? 映画をご覧なさい。バドミントンをなさい。ギターをお弾きなさい。やはり少しは居心地よくないでしょうともね。ひそかに狡猾に取り囲んで監視するたくさんのまなざしの下で、コーヒーの味は苦くはなくて? 悪魔の鳥の翼たちの下で、息苦しくはなくて?いずれにせよね……。
もし恋しくなった時には、丸い月をごらんになって。あそこにあたしはいます。スモモの赤ワインのグラスをのぞいてごらんになって。そこにあたしはいます。蚊帳のレースの裏側に、開きかけのバラの蕾の中に、暗緑色のタガヤサンの葉の連なりの影に、空駆ける雲たちの中に、行く手を遮る濃霧の中に……。
(「シュマワ」誌 1,982 ・7)
※この断片だけで現代ビルマ文学を理解しろというのは無理かもしれませんが雰囲気を味わっていただきたくて、ご紹介さしていただきました。
心をとろかす甘いものはゆっくりと牙の根元を侵食する、なんちゃって、心ゆくまで甘さに浸りたい人だあれ?
※何の紹介にもなっていないことを恐れます…頑張って読書を続けますので引き続きお見捨てなく、フォーラム欄にお立ち寄り下さい、紹介してほしい本がございましたらご連絡くださいませ…他の方はどういう本に興味があるのか大変興味があります、1人の人の興味はおそらく何万人もの人の興味だと思います…そういう時代だと思っています、当てずっぽ😅
ビルマの人には1970年代、かの国が鎖国政策をとっている時期に何人か会いましたが、みんなとても控えめで、でも明るくて優しくて、仕事柄「○○人が好き」なんて言っちゃいけないのに、私はビルマ人が一番好きと明言していました。酔っ払うと羽目を外す度合いが日本人よりも上でしたけれど。
友人がやはり仕事(日本語教師)でビルマ人と接触があり、一番親しくしていた元生徒がビルマ人で、今はその生徒さんの方が日本語教師になっています(日本人と結婚したので、日本で)。だからビルマ人と聞くと他の東南アジア人にはない親しみを感じます。それが、どうして今のような状況になってしまったのか・・・
「姦淫」についてですが、既婚の男性が妻以外の女性と「情交(すごい言葉だなあ)」を交わすのは構わないのに、人妻が夫以外と恋愛関係に陥るにはダメって言うの、一応理由があるんですよね。(その前に「夫以外と恋愛関係に陥る」という表現自体、矛盾していると思う。だって20世紀までに洋の東西を問わず、夫と恋愛関係にあった妻なんか、そもそもいたんでしょうか。)
女の「浮気」や「不品行」や「姦淫」が怖れられたのは、実の子を知るのは女でしかない、男は信じるほかない、という事情もあるのでしょう。女に好きなようにされたら、男は自分と血の繋がりのない子を育てることになりかねない(まさにカッコーの子育て)。その怖れから女性に厳しい道徳規範を押し付けたという面も大いにあって、だいたい法律や規制というのは「自分に迷惑がかからないように」という主に「立法者」側の都合で制定されるものだから、姦淫罪なんていうのも、ある意味、男性の女性への恐怖・畏敬を示していると言えるのではありませんか。
女性から見れば「あんたがおっかながるからって、なんで私が慎んだり控えたりしなきゃならないのさ」ということになり、それを堂々と発言して、実際に過去数千年の仇を打ち続け、男性の心胆を寒からしめているのが今の欧米女性なんでしょう。
東南アジアや中東ではまだその段階に達していない。将来、達するかどうかも分からない。とにかく、その地域と欧米との間で何となく「うまいこと」やっているのが日本という気がします。国際的なスタンダードを当てはめて日本を未開国のように貶す国内外のインテリ連中は、そこのところが見えていない。内部の事情は分かりにくいから仕方ないけど、「民主」「人道」「平等」だけがこの世のすべてでもないんだよな・・・ということをちゃんと説明できる知識人が日本にいないのはカナシイ。これ、しっかりせんか、男たち。尤も、理屈ではないことを理論的に説明するのは大変なチャレンジではありますが。
先日話題にした「夫婦別姓」の件ですが、これ、同姓でなければならない、という国の方が少数派なんですよね。たしかに、韓国やイランのように、女は結婚しても男の家族の一員とは見なさない、という古来の慣習で別姓のところもあり、理由はさまざまながら、世界の多分8割の国で別姓を認めて家庭は維持されているという事実を日本の井の中のジイサン蛙たちはどう思っているのでしょう。つまりですね、日本の男は世界で一番「怖がり屋」なんです。
そんな怖がり屋に支配されてたまるか、という勇ましい女性群と、それならそれで上手に付き合ってあげようじゃないの、というさかしい女性グループとに二分されているのが今の日本社会といえるかもしれません。