金槐和歌集:新潮日本古典集成〈新装版〉新潮社:樋口芳麻呂校注:2016年10月発行
新装版をうたうだけあって、本文は一つ一つの歌がすっきりと大きな字で読みやすくなっています、その上段に小さい事で注釈がわかりやすくあとを後を追っています。好もしいなと思った歌に付箋をつけていったのですが結構な枚数です。( )かっこ内の僕の歌?コメント飛ばしてください↓
(※ さびしさを友とは知らぬ先達はさびしきままに今にたゆたふ
さびしさをはぐらかすことをせずさびしさを唯一の友として、天性の詩人が軍人の真似して人殺しなどできるわけもなし、ところを得る望みかなわず、歌人として晩年の西行に邂逅することなど夢のまた夢、薄幸の内に、政争の人身御供の運命を受けいれたほんまもんの夢見るリアリスト(リアリストだって夢を見る)実朝さん。800年の時空を超えて、何も変わっちゃいない、もっともらしく作られた虚構を現実と言いくるめる連中を横目に見ながら😮💨実朝さんをおもわず仰ぎ見るように、手を合わせてしまいました、合掌)
↓ (※各、歌の末尾は掲載ページを示します)
古寺の 朽木(くちき)の梅も 春雨に そぼちて花ぞ ほころびにける
(健気さを歌う、と注釈にあります) 18
ふるさとに 誰(たれ)しのべとか 梅の花 昔忘れぬ 香に匂ふらむ(この故郷でいったい誰を思い出させようと、梅の花は昔を忘れぬ芳香で薫っているのか) 19
桜花 咲き散るみれば 山里に われぞ多くの 春は経(へ)にける(桜の咲き散るさまを見ていると、この山里で私が過した幾多の春に気づかされる) 29
みよしのの 山下陰(やましたかげ)の 桜花 咲きて立てりと 風に知らすな
(山麓の陰になった所にひっそり咲く桜を見つけた感慨を読む) 31
夏はただ 今宵ばかりと 思ひ寝の 夢路にすずし 秋の初風
(夏はただもう今夜だけなのだと思いながら寝た。その夜の夢の中で辿る通い路、そこを吹いていた秋の初風の涼しさ…) 52
ひさかたの 天の川原を うちながめ いつかと待ちし 秋も来にけり
(天の川を眺めて、いつになったら、と待ち望んでいた秋も、とうとうやってきた) 56
鳴きわたる 雁の羽風に 雲消えて 夜深き空に 澄める月影 70
秋風に やま飛びこゆる 初雁の つばさに分(わ)くる 峰の白雲(秋風の吹く中で山を越える初雁は、峰にかかった白雲を翼でかき分けながら飛んで行く) 71
小夜ふけて なかばたけゆく 月影に あかでや人の 衣(ころも)打つらむ
(※擣衣(とうい:布地を柔らげて光沢を出すために砧(きぬた)に載せて槌で打つこと)の音が夜更けまで続くのは、月の美しさに眠ってしまうのが惜しまれるせいだろうと推測したもの) 77
秋は去(い)ぬ 風に木の葉は 散りはてて 山寂しかる 冬は来にけり 86
八幡山(やはたやま)木高き(こだか)き松に ゐる鶴(たづ)の 羽しろたへに み雪降るらし
(梢の高く伸びた八幡山の松にとまる鶴、その白い羽に、さらに真白い雪が降っているらしい) 96
深山(みやま)には 白雪降れり しがらきの 真木(まき)の杣人(そまびと) 道辿(たど)るらし
(山奥に白雪が降った。信楽(しがらき)の杣山に暮らす山人は、道に迷いつつ歩みゆくことだろう) 98
山高み 明けはなれゆく 横雲の
たえまに見ゆる 峰の白雪
(夜明けとともに空にたなびく横雲が別れてゆく。山が高いので、雲の切れ目から白雪をいただく頂上がのぞいた) 101
身につもる 罪やいかなる つみならむ 今日(けふ)降る雪とともに消(け)ななむ
(わが身に積もった罪は、はたしてどんな罪なのだろう。いずれにせよ仏の御名を唱えることによって、雪今日降る雪とともに消えてしまってほしい) 104
岩にむす 苔のみどりの 深きいろ 幾千代までと 誰(たれ)か染めけむ
(岩に生える緑の苔の深い色を、何千年も続くようにと、誰がいったい染めたのだろうか) 109
秋風に なびくすすきの 穂には出でず 心乱れて もの思ふかな
(秋風になびく薄の穂は、やがて目につくほど伸びてくる。私はそのように表には出さないものの、恋しさを胸に秘め、心乱れて物思いに沈んでいる) 113
ほととぎす 来(き)鳴く五月(さつき)の 卯の花の 憂きことの葉の繁きころかな
(時鳥がやってきて鳴く五月の卯の花、けっして憂の花というわけでもなかろうが、憂くつらい言葉を聞くことの多い昨今である)118
天の原 風にうきたる 浮雲のゆくえ定めぬ 恋もするかな
(風に乗っている大空の浮雲のように、これからいったいどうなってゆくやら、見当もつかぬ恋に身を委ねている私なのだ) 119
わが宿の ませのはたてに 這う瓜の なりもならずも ふたり寝まほし
(我が家の垣根の端に瓜が這っている、その瓜が実を結ぶように、私の恋が実るか実らぬか、それは分からぬがともかくも、まずは一緒に寝てみたい) 157
徒歩人(かちびと)の 渡れば揺(ゆる)ぐ 葛飾の 真間の継橋(つぎはし) 朽ちやしぬらむ
(徒歩で行く人が渡ると、揺れるという葛飾の真間の継橋は、今は腐ってしまったのだろうか)168
さりともと 思ふものから 日を経ては しだいしだいに 弱る悲しさ
(年はとってもまだまだ大丈夫だとは思うが、月日の経過とともに体の衰えを思い知らされるこの悲しさ…)170
現(うつつ)とも 夢とも知らぬ 世にしあれば ありとてありと頼むべき身か
(夢とも現実ともつかぬこの世だから、生きているからといって本当に、それを頼みにできる身であろうか) 173
世の中は 鏡に映る 影にあれや
あるにもあらず なきにもあらず
(世の中は鏡に映る影なのだろうか。存在するでもなく、しないでもない) 175
神といひ 仏といふも 世の中の 人の心の ほかのものかは
(神だの仏だのと言うが、それもこれも現世に生きる人の心以外の何物でもないのだ。神仏を生み出した、人間の心を尊ぶ実朝の心眼は鋭い※びすこさんもこの歌をあげていましたが…リアリスト、実朝) 176
大海(おおうみ)の磯もとどろに 寄する波 割れて砕けて 裂けて散るかも
(磯もととろくほどに寄せる大海の荒波は、割れ、砕け、裂け、そして四方に飛び散ってゆく。岩頭に砕け散る大波の勇壮さを見事に捉えた歌。ただしその背後には、波とともに砕け散ることに快感を覚えるような虚無・孤独の影が漂っていよう)183
最後に…実朝歌拾遺、、から、、
咲きしより かねてぞ惜しき 梅の花 散りの別れは わが身と思えば
(梅が咲いたばかりなのに、花を落とすありさまが頭にちらつき、今からもう惜しまれてならない。散るのを見ずに命を散らすのは、むしろ私の方なのだと思うと。自分の死を予感したような歌、、、後略。193
うわあ、いちまるさん凄い。私がちょっと気まぐれに源実朝の話をしただけで、こんなに本格的にそれも速攻で読みこなすんですもん、言った側の「責任」じゃなくて「功績」を感じてしまう(勝手に思い込む)。
私の方はあちこちでつまみ読みしただけなので、知らない歌が随分ありました。でも何となく分かる人ですね。朽木の梅なんて、昔からよく見たもの、でも桜の朽木は見たことがありません。
桜が和歌に登場するのは平安からで、万葉の時代は花といえばもっぱら梅だったと聞いたことがありますが、そのせいか、日本には梅を基準にした花の名前がとても多いですね。金梅草、黄梅、利休梅等々。ツルウメモドキも。そういえば、時は平安でしたが、9世紀末に菅原道真が「匂いよこせよ」と話しかけたのも梅だったし。
でも実朝はもちろん桜も歌に詠んでいて、ただ生誕年は1992年、西行の死去から2年後だから、桜の歌人であるこの師には生きてまみえることはなかったのですね。お父さんの頼朝さんとは面談したそうですけど。
「岩にむす苔の緑の深きいろ幾千代までと誰か染めけむ」
この歌に「ワーイ」と思ったのは、だいぶ前にこちらで冬の森の苔を見て一句ものしたことがあったからです。
・雪払う苔の緑や紀元節 びすこ
私、全然愛国者ではないけど、こちらでも紀元節はしっかり思い出します。句としてはこれは「雪」と「紀元節」の季重なりになるんでしょう。
わが宿のませのはたてに這う瓜の…の歌は何ともユーモラスに聞こえるのですが、ご本人は結構真面目だったりして。
「さりともと思ふものから日を経てはしだいしだいに弱る悲しさ」、えええ!早世の歌人が20代でこんな歌を❓しだいしだいに弱るのはこちらも同じですが、当方はほとんど後期高齢者ですからね。
ところで頼朝と西行の出会いですが、これを知ったのは40年ほども昔に東京で小林古径展を見に行ったときです。日本の伝説や物語に因む絵の中に「西行法師」というのがあって、聞くところによりますと頼朝によばれた西行が歌ではなく武術・馬術の話などして(彼は北面の士だったから)いとまをするとき、頼朝から銀の猫を賜ったそうな。西行はそれをすぐに童にくれてやったというのですが、銀猫をもらって駆けていく男の子がとても小さく、西行法師が大きく描かれているのが面白くて、今も記憶に残っている絵です。