私にとっての20世紀:加藤周一著:岩波書店2000年11月第1刷発行
図書館の処分本です。僕はこの本を読み始めてこの本は著者の若い人たちへの遺書の一部だと勝手に見当をつけました。中学生に静かに語りかけるような口調だったからです(もともとはNHKの、加藤周一のふり返って見た「20世紀」という放送番組のダイジェストらしいです)
著者は1919年生まれと言いますから1918年の母と同世代、1936年の2.26事件、著者の通う中学校のそばの事件だった、母も戒厳令のひかれた雪のこの日を覚えていて、一般市民も緊張した事件とわかります。引用を始めます。
第2部 戦前・戦後 その連続と断絶
80〜 81ページ
なし崩し的権力掌握の歴史
私が物心ついてからですが、1930年代の後半から日中戦争は続いていて、だんだん太平洋戦争に近づいてくる。米国に戦争を仕掛けて、結果はもちろん敗けるわけですから、そうなるのをどこで止められたかということです。
その過程をずるずるそのままいかせないためには、どういう機会があったか、どうしてそういうことができなかったのかという問題がある。今から振り返ってみますと、30年代もおしつまってからは、はっきりと、いわゆる翼賛体制で軍部を中心にした対中戦争がどんどん拡大していった。それをなんとか正当化しながら、ますます戦争を続けていくという傾向は、国内では批判意見を潰すという形で出てきた。
その1つの転機になったのが、やはり1936年の2.26事件です。2.26事件が起こった時、私は中学生だったのですが、私の中学校のそばで、いわゆる反乱軍が大蔵大臣とか内大臣を暗殺して、首相官邸などを占拠した。その事件が起こったときはどういうことなのかあまりはっきりしなかったけれど、わりに早い時期にだんだんその意味が明瞭になってきた。当時、陸軍の中には大体2つの流れがあった。1つは皇道派。天皇が直接に作った政府を中心にして改革をしようという考え方です。もう一つは、統制派。皇道派に対して、もう少し陸軍の現在の構造を維持したまま、その政策をだんだんに変えていくという派です。現在使われている言葉でいうと、やや原理主義者に近い考え方が皇道です。
その皇道派が軍事クー・デタを起こしたのが2.26事件です。そしてそれが失敗した。弾圧したのは統制派です。片方が他方の派を弾圧したのだけれど、しかしそれは、ただ単純な弾圧ではない。皇道派の起こした軍事クー・デタを統制派が弾圧したけれど、同時にそれを利用した。つまり政治権力の内部で陸軍の発言権を強大にした。それが本当の意味です。そして、その年の夏に、軍部大臣現役武官制復活が議会を通った。
これは、陸軍の圧力があったから通ったのですが、これを通してしまうと、今度はもう数年後にはたちまちそれを利用して、陸軍が権力を伸ばしていくことになる。引用以上
106 〜108ページ
死の切迫する状況の中で読む
戦後になって、私は源実朝が暗殺されるという切迫感の中で詠んだ「金槐和歌集」の歌について書いています。私自身の戦争中の感情と同じ切迫感をそこに見たからです。戦争中、「金槐和歌集」はよく読んでいました。知識のためというより、共感を持ちながらそこに入っていったと思います。実朝は征夷大将軍です。ですから権力と文学、権力と個人という問題がどうしてもでてくる。そういう緊張関係がある。われわれは戦争中に生きていたから、権力、政府とわれわれとの間にも緊張関係があったわけで、それをそのまま実朝に投影したという面が大きい。
ほかの歌人とは全然違う。平安朝の大部分の歌人にはそれはなかった。それは彼が武家の棟梁であって京都の王朝貴族ではなかったためです。
さらに、源実朝の歌の先生は藤原定家です。だから実朝という人は、定家風の、つまり「新古今集」的、技巧的な、平安朝の宮廷文化の終わりの時期の人たちの趣味、思考、そういう美的な感受性をもった歌をたくさん作っている。
ところが、戦争中は戦場に将兵を送り出すものだから、戦意昂揚のために盛んに益荒男振(ますらおぶ)って、「万葉集」のごく一部を取ってきて、防人の歌みたいな感じで盛んに宣伝していた。「新古今集」とは正反対のものです。だから「新古今集」を読むのは、そういう風潮に対する反発の表現でもあったのでしょう。
実朝の美学が戦争中の公式美学と真っ向から反対の、それゆえの一種の抵抗だという感じを私は強く持ちました。益荒男振りというのは、内容のない声高な宣伝でしたが、これが日本文学だと思われていましたから。「撃ちて止やまん」という言葉は「万葉集」に出てくるけれど、それは例外中の例外です。「万葉集」の中でも、勇敢な歌というのはきわめて少ない。
暗殺される直前の実朝と戦争中のわれわれの状況とは全く同じです。実朝は自分が殺されるだろうということを予想していたけれど、その状況を変えようとはしないで、その状況の中で自分の短い人生を生き抜こうとした。どうしてその状況を変えたり逃げたりしなかったかというと、できなかったからです。可能性が開けていなかったから。われわれと似たような、いつ死ぬかわからないという状況に実朝は追い込まれていた。
私のほうからいえば、実朝を読んだり、定家を読んだりしたのは、みんな同じ思いからです。中原中也も読んだ。中原中也も30歳ぐらいで死んだ。短い人生で、短い間に多くの詩を作った。中原中也の中には、ある主義に対する批判と同時に一種の哀感がある。
彼らは別の理由からだけれど、短い人生の間に、彼らの日本語に対する感受性を通じて、その人生を建設した。だから、その日本語は立派です。われわれが読んだときは命懸けの問題です。自分の人生に意味があるのは「金塊和歌集」があるからだという意味です。面白いとか気持ちがいいとかそういうことではない。ほかに拠り所がなかった。そういうふうに読んだ人には、日本語は大事な問題になってくるのです。生き甲斐のかなり大きな部分に日本語が入ってくる。
「大海の磯もとどろによする波われてくだけて裂けて散るかも」
たとえば、この歌は万葉集とも違うところがある。もちろん新古今集とも違う。実朝は天才だから、前ニ者で使わなかった修辞法をこの歌の中に導入しています。
引用以上。
(※引用していて思い出したことがあります…中学校の英語の先生が何かの折に、、感情を表に出さない能面のような顔をして…戦争中は…俺は20歳で死ぬんだ…と思っていた、、普通に、何でもないというような顔で…おっしゃいました。聞いている僕はキョトンとしながら、(多分他のみんなもそんな顔をしていたと思います)あの頃は(みんな)そんな感じだったと付け加えました。
西洋人ぽい鋭角的な顔された背の高いこの先生に、教科書の一部を読むように言われた時…僕はあんちょこの本に、Goldenの箇所に、、ゴールドンとカナがふってあったのでドを強調して読みました、、先生はちょっとの間、発音を訂正しようかどうか迷ってらっしゃった…(結果はスルーでした、、こんなことまで思い出すのですね。
びすこさんがコメントで実朝の歌を引用されていたので…斉藤茂吉の注釈本と馬場あき子のが、ありましたので後者の、、実朝の歌集、金槐和歌集、リクエストしました…金槐和歌集、、初めて知りました、、適当に短歌作って遊んでるくせにこの体たらく😅
ちなみに今ウィキを見たら…芭蕉は、よるべき歌人を問われて…西行と実朝をあげていたようです、、実朝の歌集…まさにイモヅルシキ式ですね、びすこさんつながり🧐)以後の引用は僕の興味に従って行いましたのでもしかしたら脈絡が取りにくいかもしれません、あしからず。
125〜227ページ
はじめての南京訪問
前略…
私が、日本人に対しても、また中国人に対してもいいたいことの1つは、南京虐殺を数の問題に還元しないほうがいいということです。その数よりも、もっと大事なことは、南京虐殺があったということです。そしてそのことの当時における意味と、現代の私にとっての意味というのが大事なのだと思う。1番大事なことをはっきりさせるように努力を集中させる必要がある。その時、誰が見ても議論の余地のない正確な数を割り出すことは困難です。その上で数が1万だろうと何千であろうと、あるいは10万であろうと、とにかくそれは言語道断な市民の殺戮であるということです。なぜそういうことが起こったのか。それは誰がやったのか。なぜやったのかという問題に入っていくことが大事です。
それから第二に議論を尽くすべきなのが、われわれにとっての意味です。それは第一の問題と関連するけれど、なぜああいうことをしたのかということと、それに対する責任の問題、将来そういうことがもういっぺん起こらないようにするためにはどういう手段を講じなければならないかということです。この2つが現在のわれわれにとっての意味です。それは突き詰めてはっきりさせるべき問題だと思います。…中略…
いま、私のいっていることは、原則的には、ドイツ人のユダヤ人虐殺にも及ぶと思います。あれも何人殺したという細かい数字が問題なのではなくて、大量の殺人を計画的に行ったということが問題なのです。南京虐殺のほうは計画的だとは思わないけれど、それを見過ごしたという点では日本軍司令部に責任がある。ユダヤ人虐殺と南京虐殺は大いに違いますが、歴史的意味をはっきり見定めることが重要と言う点ではどちらも同じです。引用以上。
第3部 社会主義 冷戦の彼方へ
中国問題は冷戦史観では理解できない
179ページ
冷戦は社会主義対自由主義の対立だとする見地からは、中国は分類に困るのです。社会主義という言葉をもっと拡大すれば入りますけれど、そうすると意味がない。中国で本当に何が起こったかということはきわめてむずかしい。一言でいえば、社会主義政党を中心にして中国人が植民地主義からの解放を達成したということです。
もし誰か自由主義的な指導者の下に、たとえば蒋介石の下で独立を達成すれば、中国の大衆はそれを支持したろうし、中国はそういう国として成立して今日まで強い影響力を行使したかもしれません。問題は、指導者が社会主義者であったかどうかではなくて、独立が問題だったのです。
周恩来首相なども日本人に対していったことは「あなた方が反中国的態度をとるかとらないかということだけが私の関心だ」でした。その意味は、敵対的で侵略主義的な態度をとるか、そうでなくて友好的な態度をとるかという、ただその1点に尽きるということです。彼の会話の中には「社会主義」という言葉は出てこない。
183〜185ページ
…中略…日本政府の態度はずっと揺れつづけています。閣僚の侵略戦争否定発言のたびに、抗議されると謝まりますし、円借款供与などでお金も使っている。ですから信頼関係をつくるために何もしていないとは思いません。しかし、充分ではなかった。信頼関係は両国民の間に芽ばえてはいますが、少なくとも独仏関係とは比較できないレヴェルです。
何故そうなのだろう。私から見れば中国侵略の謝罪というのは第一歩に過ぎないのであって、それは冷戦に加担した試金石です。だから中国の問題が出てきたら、その冷戦問題を検討して、米国製の冷戦観から離れて日本自身の中国のイメージを作って、日本の利益が最大になるように行動すべきだと思います。それが外交です。米国の政策を鵜呑みにしているのは対米従属の最大になるもので、その試金石は中国です。
しかし中国接近の禁を破ったのは日本ではなくて米国です。ニクソンとキッシンジャーが71年に対中政策を変更して中国に接近した。それに対する反応が72年の田中内閣の中国承認です。
それではどうして米国は接近に急転したのか。それは明らかに、キッシンジャーが外交政策からイデオロギーを落としたからです。社会主義であろうがなんであろうがそんなことは構わないという立場に立った。現在の中国、米国の両方の利益が合致すればうまくいく、相反すればうまくいかないということです。それは完全な権力政治の利益打算です。米国の冷戦政策は、国務省フォスタ・ダレスが朝鮮戦争のころ、神のない国と神のある国との対決といったように、徹底的にイデオロギー的なものでした。しかし神があろうとなかろうとそういうことはキッシンジャー的現実政治からいうと全然関係なかった。何が1番得かという話です。その目的を達成するために何が1番有効な手段かということを計算して行動するのが現実政治だという考えです。
中国の指導者もまたイデオロギーに縛られていなくて、現実に何が国益であるか、何が損であるかということを考えてやっている…中略…冷戦は、イデオロギーを外交政策の柱に立ててきたが、冷戦の執行者がそれを捨てたのです。米中は秘密に近づく必要があったために、日本側に知らせないで頭越しに交渉をした。それはそんなに驚くような話ではない。
しかし日本政府には青天の霹靂だった。それは真面目に米国の中国研究の文献を読んでいないからです。しかし、驚くべきことには田中首相が敏感に反応した。多分外務省より早くやった。外務省の方がむしろブレーキをかけるように動いたといわれています。私は詳しい事は知りませんが、日本の首相が、そういう重大問題に関してあれだけ早く動いた例は少ないのではないか。
どうしてできたかというと、彼に力があったからでしょう。田中角栄は米中接近というのがわかったらすぐ準備して北京を承認した。総理の判断はそれで良かったと思います。中国と日本との関係をよくすることは、同時に日本の将来を築くことです。それは道義的責任と絡んでいるけれども、道義的責任を除いても、なおかつそれが最大の利益であることは明らかです。引用以上。
1番最後のテーマは…
227〜229ページ
文学の仕事
文学がなぜ必要かといえば、人生または社会の目的を定義するためです。文学は目的を決めるのに役立つというよりも、文学によって目的を決めるのです。そしてその目的を達成するための手段は技術が提供する。
いまももちろん科学技術の時代ですけれども、手段と目的は混同しないほうがいい。科学技術がいくら発達しても、その目的は社会にとっても個人にとっても決まってこないと思う。自ら考えて生きていこうとすれば、考えるときには科学技術は助けてくれない。文学が助けてくれると思う。役立つかどうかではなくて、そもそも人生に意味があるかどうかが文学的問題でしょう。
ただし、文学はさりながら、だんだん娯楽になって商業的な世界に商品として吸収されていく。そうなれば、その商品化された文学というのは別に人生の目的を考えるときに役立たなくなります。狭い技術的な領域に入りこんでしまえば、人生の目的を文学との関係において決めていこう、考えていこうというのに文学はほとんど役にたたなくなってしまう。それは娯楽とは違った意味で、1種の知的ゲームみたいなものになってしまうからです。…中略…
どうしたら経済的にうまくいくか、みんなが豊かになるかというのは、科学技術から出てくるかもしれない。家が大きくなって庭が広くなる。しかし、ではそれから何をするかということはそこからは出てこない。もう少し長期的にある生き方を選ぼうとするならば、そのときに参考となり得るのは文学だと思います。
たとえば孔子の牛のはなしを考えてみましょう。孔子は重い荷物に苦しんでいる一頭の牛を見て、かわいそうに思って助けようと言った。すると弟子は中国にはたくさんの牛が荷物を背負って苦しんでいるのだから、1頭だけ助けたってしょうがないのではないかという。孔子は、しかしこの牛は私の目の前を通っているから哀れに思って助けるのだと答える。それは第一歩です
第一歩というのは、人生における価値を考えるためには、すでに出来上がった、社会的約束事として通用しているものから、まず自らを解放することです。たとえば牛に同情するのだったら、統計的に中国に何頭の牛がいて、それに対してどういう補助金を与えるとか動物虐待をやめるような法律を作るとかさまざまな方法でそれを救う必要がある。それは普通の考え方です。その普通の考え方から解放される必要があるのです。どうしてその牛がかわいそうなのかという問題です。たくさん苦しんでいるのだから1頭ぐらい助けてもしようがないという考えには、苦しんでいる牛全部を解放しなければならないということが前提にある。なぜ牛が苦しんでいるかへの答えにはなっていない。牛が苦しんでいるのは耐えがたいから牛を解放しようと思う、どうしてそう思うかというと、それは目の前で苦しんでいるのを見るからです。だから出発点に返る。やはり一頭の牛を助けることが先なのです。引用以上。
234〜236ページ
…前略…新約聖書に有名な「汝ら野の百合を見よ」という言葉があります。「ソロモンの栄華の極みのときにも、その装いはこの花の1つにしかざりき」と。野の百合の1つはソロモンの宮殿の栄華のすべてよりきれいだということです。そう感じれば詩人だし、花屋で買えば百万分の1の値段でしょうから、それしか考えなければ、詩人ではない。
私のいおうとしていることは、伝統的な約束事、社会の価値の上下関係から自由になるということです。つまり価値の転換です。文学というのは価値体系を転換する事業なのです。必ずしも理論的水準ではなくて、感覚的直截的なある経験を通じて価値の転換を行う。それが文学の特徴だと思う。
文学というのはみんなそういう要素を持っている。論語は倫理の本だという、そういう面も確かにあるけれども、やはり偉大な文学作品だと思います。孔子が、ある日弟子たちを集めて、あなた方は、何をしているときが一番楽しいかと聞くと、正しいことをしたときだとか、1つの国の政治的なアドヴァイザーとして、その国をうまく治めたときだとか、いろいろなことを弟子たちはいう。
すると顔回が、どこか遠足に行って、そこで遊んで好きな歌を歌いながら家に帰るのが楽しみだという。そうすると孔子が、私はお前と同じ意見だという。…中略…
悲観的ではなく、私は文学はなくならないと思います。どういう環境の中にも喜びを見いだすことのできる技術が文学です。喜びを見出すということも、感じることはすべて自然なものだけではなくて、文化の影響を受けている。文化とか文明は文学を作り出し、文学は1つの芸術をつくり出すのです。引用以上。
昨日まで数日間、夫の田舎に彼の姉の様子を見に行っていました。3年ほど前から軽い脳梗塞やナトリウム欠乏による失神などを繰り返し、家系に心臓病が多いというので極端な食事療法をしていることを私も素人ながら案じていたのですが、「医師の資格を持つのはどっちなのよ!あなた?私?」などと怒鳴られるのがオチなので黙っていました。
お金は十分にあるので介護士も家事手伝いも「専属」を雇って一見何の不自由のない暮らし、でもしつこく誘われて仕方なくお茶にやってくる親戚やご近所は1時間もすると「義務を果たした」という感じで帰ってしまい、夜が来るまで居間にポツンと座って過ごす(傍らに犬猫はいますけど)。
私たちも義務感で毎日顔を出して、昨日の昼に「じゃあ、これから帰ります」と言いに行くと、まあ、86歳の老女が顔をくしゃくしゃにして大泣きする。あれほど自負心が強く自己顕示欲満々で、プライドと言ったらむくむくの夏の入道雲の如く(昨日車からしばし眺めた)だったのが、こんなか弱いお婆さんになっちゃって…と、これまでの数々の意地悪・悪口・自慢話を思い出しても、やっぱり可哀想でした。
そういえば、数日前にル・フィガロ紙で珍しく(フランスにしては、という意味)「老い」を扱った記事があって、そこでボーボワールの「老い」(1970年刊)に言及されていました。ちゃんとは読みませんでしたが、70年といえば私たちの世代は20代前半、その頃には世界的に高齢者の数も限られ、さほどフランス人の興味を惹いたとは思えませんけど、それだけに、現在は他の先進国同様に人口の老齢化を迎えているフランスで新たな話題になっているようです。
ボーボワールと老いの話は今回はさておいて。
帰宅して「読後感想」を拝見し、改めてイモズルというか、いちまるさんの読書と私のそれとの繋がり(蔓、紐)について感じ入ってしまいました。ここ数日関心の対象だったテーマが次々に出てくるんですもん。
最初の「なし崩し的権力掌握」の話、これは例の「西行花伝」との関連で「親政」「院政」と結び付けて考えました。この本は500頁ちょっとですが、300頁を過ぎたあたりで美福門院の陰謀による崇徳天皇の配流の話になり、讃岐の地で生きながら幽鬼となった天皇が登場するに及んで、辛すぎるため読書のスピードが極端に落ちました。
大体において藤原家や平家が絡んでいるので、既に8世紀ごろからもう、天皇がばっちり実力を握っていた時代などほとんどないですよね。それは平安から鎌倉に代わっても同じ。
親政と院政との違いにぴったり対応するとは言えないながら、太平洋戦争の日本の「戦犯」についてはどうでしょうか。天皇は軍部に操られていた傀儡に過ぎないとして処罰を逃れますが、古くからの日本の慣習・伝統では、確かに天皇が死刑になったことはないとはいえ、形式的でも主犯は主犯、ヒトラーが自殺しムッソリーニが絞首刑になったことを考えると、日本の元首への措置に疑問を抱く人が他の国にいても当然という気がする・・・そんなことを終戦記念日に夫と話しました。(右翼が刺客を送るほどの価値が当方にないのが幸いです。)
源実朝に関して、芭蕉が彼を西行とならぶ師としていたというのはさもありなんというところです。子規や茂吉にとっても終生歌の師であったそうで、子規などは実朝が僅か26歳で世を去ったことを痛恨の極みとし、今少し生きながらえていたらさらにどれほど優れた歌を残していたことか、と述べたそうですが、これは30代半ばで逝った子規の生涯と結び付けると感興をそそります。
子規といえば、今回田舎に持っていったのは2017年に正岡子規生誕150年を記念して出版された森まゆみ著の「子規の音」でした。それが世に出る前に、日本の友人たちと日本酒の「獺祭」が話題になったことがあり、彼女らの中には俳句や和歌に興味のある人は誰もいなかったので、私がその名前に絡んで正岡子規の「獺祭書屋」の話をしたことから、上記の本が刊行されて新聞に書評を見た友人の一人が「子規が好きなら」と日本から送ってくれたものです。
もちろんすぐに読みましたが、実は最近になってそのうちブログに書こうと思っていたテーマで子規を思い出したので、このたび二度目に目を通してみたら様々な発見がありました。森まゆみは東京都出身だけあって根岸の子規の暮らしを語る口調が情熱と愛着を色濃く帯びています。同じ東京っ子のいちまるさんなら、その感想も彼女と通底するところがあるかもしれません。スラスラと読める著書ではありませんが、手ごたえ十分、いずれお時間があればこの本にもお目を通してご覧になって下さい。
実朝の生涯に関してもう一つ思ったのは、母の政子のことでした。北条政子については歴女作家の何人かも登場させていますし、たしかろれちゃんも何か読んだと話していましたが、私が政子の「経歴」を見て感服したのは、女に付きものとされる気違いじみた「血」への執着が、案外に冷静であることです。夫の頼朝を亡くしたあと長男を失い、その子、つまり孫によって次男を殺される。こうして源側の係累を失うのだけれど、そのあとの6年をどのように一人で生抜いたのか。実家の北条家に権力が移ったされたことに満足していたのでしょうか。
長くなりましたので、今日はこの辺で。到着した新しい記事を拝見すると、これも面白そう。少し時間を置いてコメントさせて下さいませね。