えた非人:柳瀬勁介著:塩見鮮一郎訳:河出書房新社2016年11月初版印刷
葛飾文芸クラブのLINEトークでつい最近、クレマチスさんが取り上げていた本です、その場で取り寄せました。著者は若干29歳で客死、訳者はなんと訳業当時80近いご老人、はいその現代語訳を読むぼくも老人で、100年前の本を現代語訳で読める幸運♪
著者の若々しい真情に接しドキドキしました、ありがとうございました😊早速引用です。
14ページ 緒言
現在のわが国の社会で、新平民といわれている者ほど、この世で不幸な種族はいない。以前は穢多(えた)と呼ばれ、極端に軽蔑されて、まるで人類ではないような待遇に置かれていた。その境遇の惨憺たるさまは、アメリカやアフリカの黒人に似ていた。だが時代は変化し、明治維新の善政によってひとたびは「穢多」という醜名は廃止され、平民と同列になり、法律においても、ほかの人たちと同等の権利を持つことになった。しかしながら、長年にわたる因習はにわかにあらたまることがない。こんどは「新平民」というあたらしい名称で呼ばれ、しばしば汚濁の深淵に投げこまれて落魄の身になる。どうして同情しないでいられようか。
そもそも明治という新時代をむかえていながら、なんで旧来の陋習(ろうしゅう)を引きついでいるのだろうか。明治元年の三月に、天皇が五カ条の御誓文で、天神地祇(てんしんちぎ)に誓って述べた一条に、「古来の因習を破り、天地の公道に基く可し」とある。よくよく考えれば、この宣言はまことに明治維新の根本にある考えだし、明治の文化はここから生まれた。国民がこのありがたい言葉に、もしそむくなら、明治維新においていちばんすぐれた考えをちゃんと理解しないことになる。引用以上。
16ページ…中略…思い返せば、明治4年の解放令からすでに25年で、その時間がみじかいとはいえない。しかも制度は革新され、文物は進化し、人権は伸び、階級はすたれた。足軽は公爵や伯爵になり、百姓が一躍大臣になっている。維新による変革のおおきさは、これまでの歴史では聞かないほどである。いまや自由はこのように栄えているのに、部落の境涯だけは依然としてあらたまらない。おなじ部屋に入っても、かれらとは席を並べることを許さないのは、どんな理由があるからなのか。
大化の改新より以前は、姓(かばね)制度で、各氏の氏上(うじのかみ)を定め、各氏に長者がいて、大氏(おおうじ)は小氏(こうじ)を統括し、小氏はまたその下の小氏を統治する。氏が氏を統治する制度で、貴賤の差はとてもきびしかったが、大化の改新はこの制度を改め、社会組織のうえでは万民が同等にして同権になった。しかし、当時の実際の社会では、良民と賤民の差はまだおおきく、不平等の状態であった。このことから法律の力では、すぐに社会の慣習や風俗を革新することができないとわかる。新平民と名付けられた者の境遇が、政治や法律の標榜するレベルに達していないのは、そんな不思議なことではない。いま必要なことは、世間の人たちに良賤の別が生まれた由来をくわしく説いて、人びとの感覚を改めることだ。
(※ 人間は自分より劣ったのものを認めたとき心の安定を得る…僕の友人の1人が昔、そう言っていたことを思い出しました、心情的な偏見の傾きの、よってきたる根源は深く厄介と心得た方がいいような気がしています)
(※日本においてなぜこれほどまでに「穢れ」の思想が広まったのかについて言及しています↓)
104ページ
肉食の風習とその変遷
わが国の太古は、豊葦原の瑞穂の国といわれ、稲作称揚し、農業を貴び、穀物を常食としたのはもちろんのことだが、また肉食も好んだ。河に筌(うけ)を設け、海には網を張り、罠を設置して獣をつかまえ、網で鳥をつかまえた(ただし、牛と馬は農耕を助ける動物として大切にされ肉を食うのは禁じられた)。そういうことで漁具には釣りあり、簗(やな)あり、また水鳥の類を捕ることも盛んにおこなわれた。猟の道具には、竹の矢、木の弓、わながある。ことに東北のエミシはまだ農耕を知らないので、鳥獣を追って野山や谷を渉猟し、毛皮を着て、肉を食べて生活した。
月読命(つくよみのみこと)は保食神(うけもちのかみ)からケモノの肉を饗応されているし、天孫の火遠理命(ほおりのみこと)を、山のケモノの意味の「山幸彦」というのも同じような意である。神武天皇は東征のとき牛肉や酒でもって兵士たちを鼓舞した。崇仁天皇のときは、男弓弭調(おとこゆはずのみつき)という役があった。弓矢で射った動物を貢献するのが仕事だ。仁徳天皇のときは、鹿の肉を料理して差し出し、雄略天皇のときは、宍人部(ししひとべ)を設けて肉料理を専門にした。そのほか鳥取部(ととりべ)や海人部(あまべ)を定めたのも、だいたい同じころだ。つまり、天皇をみずか狩りをするし、諸国からサカナや鶏の肉を貢献させた。朝廷においても肉食の風習があったのは疑うことができない。
このように貴人も庶民も一般に肉食がおこなわれていたが、540年に仏教が伝来してくると、食べ物への影響もかなりつよかった。釈迦の教えの第一は殺生するなかれだ。この教えのために、漁師は網を破り捨て、猟師は弓を折った。そのため動物性の食品は減少した。しかし、当時はまだ仏教徒の説教も幼稚であったので、その影響はおおきくはなかった。しかし、しだいに人心が仏教にかたむきだすと、殺生するを忌む意識はひろまった。
推古天皇の19年(611年) 5月5日、帝はみずから莵田野(うたの宇陀郡)へ行き、薬草を摘んだ。これは中国で5月5日に薬草を取る風習があるのを真似たもので、鳥獣を狩る行事をこれに変えたのである。700年代の奈良時代になれば、ますます仏教に帰依する思いはつよくなり、しばしば、肉食・屠殺・漁猟の禁止が命じられ、天武天皇は漁猟者にワナをもうけることや、ヤリの使用を禁じた。4月1日から9月末日まで𥱋(やな)を許さず、牛馬・鶏・猿の肉を食べるのを禁じた。引用以上。
※所定の結論に導くべく影響する事柄にドライブをかけ我田引水に陥ることなく、どのようにして歴史的に人の下に人を作ったかが真摯に語られて著者の清廉潔白な性格が如実に表れていました、人々に巣食う偏見を断ち切りたい一途な思いにこちらまで熱くなります。わが民族のスタートにおける「穢れ」に対する拒絶感が歴史的に醸成されたものであることがよくわかりますし、論点に恣意的にドライブをかける(曲解させる)ことを避け、歴史的な事実に語らしめるそもそも論をよくぞ100年前に語ったと思います。今語らねば禍根を残すという直感が著者を切羽詰まらせ、行動に駆り立てたのだと思います。
家庭的な幸せをないがしろ(新婚まもなく子供も小さいのに取材のために台湾に出かけています、そして赤痢に感染し客死した)にしたのではなく思うところを追求し行動しなければ陽明学を学んだ自分自身の意味が疑われるし、自分の家庭の安泰に閉じこもるわけにはいかない、と思ったのだと、勝手に解釈しました。
畳み掛けるようにして歴史的な事実を俎上に挙げ、訴え続ける真摯な姿勢のひたむきさ、純粋さは、読んでいるこっちが胸苦しくなるほどです、そしてわが民族のマニアックなまでに細かく穢れを規定し潔癖さを追求し、人々にそれを求め、そんな強迫観念は、仏教の名のもとに、正当化され、それがために足かせ、手かせの統治手段ともなっていたと僕なんかは勘ぐってしまいます。
今からこの時代を振り返れば、この時代風潮を馬鹿げていると一笑に付すことは簡単ですが、百歩譲って、、神仏に代表される見えないものに対する人々の敬虔な気持ちと恐れとみれば、神仏に対して傍若無人な振る舞いの現代人(ぼくみたいな無神論者)の不遜も同列ではないでしょうか。
それにつけても著者は、日本人が維新の世になっても、えたを新平民と呼び変えるだけで、穢れを極端に忌みきらい、避けようとする長きにわたる歴史の重みを自覚することもなく、従って、ひっくり返すことなど思い付かない人々に反省を促すために一命を賭したのだと思いました、胸が詰まります。同じような事例は今も存在すると僕は思います、見えないものは感じない鈍感になってしまった僕たちに対する警鐘として読み取るべきだと思いました。たくさんの人に読んでいただきたいオススメ本です。
(※訳者があとがきで言及していることですが…所詮僕らは時代の子、時代背景もあり…著者が救済策を求めて台湾に渡った行状をうんぬんしても始まらない、その真情を汲むためにあとがきから引用いたします
116ページ
…前略…廃仏毀釈という文化革命があったため、神道にかたぶいた叙述になるけれど、肉食(にぐじき)タブーが社会に醸成されていく過程はよく描かれた。歴代の為政者もそれを助長し、日本中にケガレ意識の蔓延を許した。皮革生産にたずさわる人や、人生の節目である、誕生や埋葬にかかわる人を貶(おとし)めた。武士に代わって犯罪人を収獄して刑を執行し、そのあとかたづけまでする者を四足動物(傍点付き)に見立てた。そのような日本史を貫く「賤視意識の構造」を、本書はしっかりと把握している。引用以上)
コメントしようとして、あれもこれもと思い浮かんだので、このスペースには入り切らないと思い、別途ブログにしました。