飽きる力:河本英夫著: NHK出版生活人新書331: 2010年10月第1刷発行
(これはまさに僕のための本だと思いました。会社を設立した時からたたむときのことを考えている。あと先のつながりは他の方に考えてもらう。お金があればの話ですけど…状況を作り出す事は好きですけど先のことは考えていません、そのかわり大それた事はやりません、やれません、後始末が大変だからです。絵を描いたり工作のやりっぱなしは小学生以来一貫しています、すいません先生方皆さん、お付き合いご注意願います🤲)
さっそく引用させていただきます
63〜 64ページ
職場で意見の対立がある。それは頻繁に起きることです。意見の対立のない組織など、本当はすでに組織ではなくなっています。そのとき自分の立場や観点を繰り返すような人が相当数います。しかしそんなとき、意図的にでも自分のあり方に飽きていくことを心掛けていかなければ、一貫して自分の経験をさらに狭くするだけです。
そのさいにはプロセスのさなかで、微妙な感性が必要になります。その局面で欠くことができないのが、「飽きること」なのです。その意味では、飽きることは自分自身に向かうさいに欠くことができない、実践的能力になります。
オートポイエーシス(※後述)の場合には、つねに経験は生成プロセスのさなかにあります。そして次の行為に接続可能なプロセスを選んでいくのです。ところが次のプロセスに接続可能な生成プロセスは、実は複数個あるのです。たとえば鉄棒で逆上がりができるようになった場面で、次に大車輪の練習に進む人はまずいません。逆上がりの次には、前方への連続回転の練習もあれば、蹴上がりの練習もあります。こうした場面で、飽きることが微妙で有効な選択をあたえてくれるのです。何かの選択を行うさいには、総合的で実践的な感性が必要になります。そうした働きは、多くの場合、すでに実際の生活の中で活用されているものなのです。
(※ オートポイエーシス、、24〜25ページ:オートポイエーシス(autopoiesis)とは、1970年代初めにチリの神経生理学者、ウンベルト・マトゥラーナと当時まだ院生陰性だったフランシスコ・ヴェレラによって初めて定式化されたシステムの概念です。オートポイエーシスと言う言葉は、彼らの作った造語で、ギリシャ語のオート(自己。オートバイやオートレースに含まれるオート)とポイエーシス(制作。派生後がポエム・詩)を組み合わせて作ったものです。機械的に日本語に訳してしまうと「自己制作」になりますが、おのずと自己が形成されていく仕組みは表そうとしており、意識や意図をつうじて自分で自分を作り出すようなことではないのです。
もともとのモデルになっているのは神経システムであり、そこから免疫システム、さらには細胞一般に拡張され、そこから一挙に社会システム、法システム、経済システム、学問のシステムへと拡大され、それから精神医学や身体論にまで展開されていきました。
このシステム論は、意図せず何かが出現して、出来上がっていく仕組みを描いたものです。しかもこのシステムは連続的に出来上がり続け、時に応じて、自分をまったく別のものに組み替えていくような仕組みを備えています。渦巻きや竜巻のような自己組織システムにも「創発」と呼ばれるような一挙に立ち上がっていく仕組みがありますが、自分自身を作り変えたり、別のものになっていくような仕組みは、オートポイエーシスで初めて出てきました、以下略。引用以上。)
87 〜89ページ
オートポイエーシスという理論構想は、基本的にコーチに似ています。ただ、このコーチ自体を成長させないと前に進む手掛かりになってくれない。したがって、このコーチがいつも頼りにされて、最終的な拠り所になっていると、すぐ頭打ちになってしまう。オートポイエーシスは何だかよくわからなくて難しいなあというふうに思われることが多いのですけれど、これだけはもうはっきりしているのです。
私たちが行ったコラボレーションというのは、相手の領域に入っていって、相手の経験領域で自分の経験が立ち上がっていくところまでいく。この「自分の経験をその領域で立ち上げていく」という感じが出ると、すでにオートポイエーシスに入っているのです。これを、「オートポイエーシスとはこういうものだ」と言って外側から説明するように入ってはいけない。また応用と称して、外から適用してはいけない。それぞれの領域で、自分の経験が立ち上がっていくという感じが出てくるまで、そこにいなければいけないのです。
オートポイエーシスの機構の内実も、かかわってみると、どんどん手直ししていかなければならないということが、ただちにわかります。たとえば固有領域の1つに身体があります。身体は心ではありませんし、ブロック塀のような物体でもありません。しかもかなり大きな変化もあります。たとえば爪先を道路脇のブロック塀にぶつけると、しばらくは自分の身体ではないかのようにどうにもならない状態に陥りますが、それもほどなく消えて普通に動いてくれる身体に戻ります。
この身体を捉えようとすると、オートポイエーシスの機構さえ変えていかなければならないことがわかります。調子の良いときには、身体は透明であるかのようにおのずと動いてくれます。ところが少し調子を崩すと、これが同じ身体かと思うほどどうにもならないということはよく起こります。身体をオートポイエーシスで捉えようとすると、オートポイエーシスの仕組みの側に幾分かの変化をつけていかなければなりません。既存の説明の仕方に飽き、その最さなかでつかんでいくものこそ、次のステップにつながるのです。
110ページ
ドイツには、次のような有名な小咄、があります。街頭の下で一生懸命探し物をしている人がいる。警察官がやってきて「どうされたのですか?」と尋ねる。「大切なものを落としたので、今一生懸命探している」と答える。それで警察官も「それは困りましたね。一緒に探してあげましょう」と言って、2人して一生懸命街頭の下を探す。1時間ぐらい探しても全然見つからない。それで、警察官がこれはちょっと変だなと思って聞く。「一体どのあたりで落としたのですか?」と。そうしたらその人が「向こうの暗がりで落としたのだけど、あそこは暗すぎて見えないので、見えるところで探しているのだ」と言う。
これは本当に笑えない話なのです。人間はどうしても自分が見える中で改良するところを探そうとしてしまう。たとえば、北島康介の場合、腕の掻きがよくなるときは、腕の筋肉ではなく肩甲骨のところに注意が向いているはずです普通の選手は、自分で筋肉の動きを感じ取れる腕のほうに力が入ってしまう。腕の動きには肩甲骨の周囲の筋肉全部が関与するのだから、そこを活用する方がいいのに、直接感じ取れているところを動かそうとしてしまう。本当はそこに問題はないし、そこに力点を置くと違う筋に入ってしまうのに、ドイツの小咄のように、やはり自分に見えているところだけに力点を置いてしまうのです。引用以上。
123〜124ページ
失敗から学ぼうとしてしまうと、ともかく頭で一生懸命考えて、頭で自分を制御しようとしてしまう。頭で作った選択肢のなかで自分を動かそうとしてしまうのです。それは最初から筋の違う努力なのです。
そこで必要となるのが「飽きる」ということです。頭のほうから先に進むことに対して、それは適合的ではないと、すぐに飽きないといけないのです。飽きることによって、進んでいく速度を少しでも遅らせ、さまざまなことを感じ取るための隙間を開いていかなければならないのです。とかくうまくいかないときには、他人に対して非難めいたことを言うようになります。ところがそれは、気持ちのもって行き場を性急に見つけようとしているのです。こんなときにそんな自分に飽きることで、今日はおいしいものを作って食べようとか、学生気分になって語学の勉強してみようとか、ともかくとりあえず別のことをやってみるのです。集中してできないできるはずがないですが、それでもそのなかでそれまで見えていなかったことが、見えるようになることもあるのです。
194〜196ページ
積極的に感情的になる
飽きる事は感性の能力です。たとえば他人から非難されたとき、気分を害して立腹するのではなく、自分の欠点を無料で指摘してくれた、心底ありがたいことだ、と思うように努力することはできます。しかしこれは、頭とりわけ前頭葉で行っている思考と意識の努力です。つまり精一杯無理をして努力しているのです。こういうやり方には、何となく無理が感じられるでしょう。それは、言語を用いて一生懸命視点を切り替え、意識的に別の考えをするような仕方なのです。
それに対して、飽きることでは、腹が立つときには素直に腹を立てればよいと考えているのです。ただ腹を立てながら、「またやっているな」と気づくことができればよいのです。心の働きを捻じ曲げたり、無理に別の視点に回収しようとするのではなく、心の働きのさなかにあって、そのことに気づいていくのです。それによって心の働きに隙間ができ、距離がとれて、感情のなかに、さらに細かな起伏が生まれることにつながっていきます。
この微妙な働きが「飽きること」であり、飽きることは繊細さの別名でもあるのです。そしてこうした繊細さは、実際の社会では、いわゆる体育会系の人たち、さらには職人技で生きている人たちのほうが、より多く身につけている印象を受けます。彼らはあまり多くを語りません。言葉で説明することが、彼らの仕事ではないからです。しかし実践的な繊細さは彼らの方がずっと優れているというのは、しばしば経験することです。
たとえば感情は、活用しなければ消滅していきます。ある年齢以降は、努力して感情を使うようにしなければ、本当に感情が単純化してしまうのです。時として感情的になってはいけないとか、感情を前面に出してはいけないとか言われることがあります。それは感情が制御できていないために、感情の派生物のところで問題が起きるからです。感情そのものに問題があるのではありません。むしろある年齢以降は、積極的に感情的になることも必要です。良いものには素直に感動し、つまらないものには素直にがっかりするような感性が必要なのです。そしてだめなものははっきりダメだと言える感性も必要なのです。平均値社会は、多くの場合これとは対極にあることをやってきました。良いものも、欠点があると言って少し切り下げ、ダメなものも、良いところもあると言っては少し切り上げて、結局、平均値化してしまうのです。
最近は憤るというような感情を見なくなりました。多くの場合、嫌だとか気持ち悪いとか言っているのでしょうが、これではどんどん感情が粗暴になり、細かさを失っていくように見受けられます。「キモい」というような言葉の使用に飽きていくことも大切です。引用以上。
(余談ですが、昔、駒形どぜうという会社に勤めていた時そこの常務に、自分の友人が病院に入院したので慰みに何か本をプレゼントしたいからと、僕にその本の選択を頼んできました…僕は病気の人が読む本…ビジネスマンが読む本と深く考えたわけではありませんが体に触らない気楽に読める、土岐雄三の確か「月10万円で暮らす方法」みたいな本を書店でプレゼント用に包んでもらい、依頼人に手渡した記憶があります。中身は何?と聞かれて本の題名を答えたところ黙って受け取ってくれました。つまりギリギリオーケーだったんだと思います。経営者は僕の性格を試していたのかもしれませんが、相手にとってわかりやすい人間だったから頼まれたと思っています。そのじつ、僕自身は今回取り上げた、この本の著者によると、、一生懸命聞いたふりをしてほとんど聞いていないというちゃらんぽらんで楽天的な人物ということらしいのですが…その点は、この本の著者に言われるまでもなく自分自身かなり以前から気がついていて、僕自身注意しているところです。飽きっぽい性格とはまた別のことらしいです、念のため。余談でした)
(ちなみにこの本の紹介も、お腹が空いていたのですがわざと我慢して書き上げてしまいました…つまり「飽きる」前にケリをつける…この方法が良いとか悪いとかではなくこれは本の趣旨とは関係なく、とりあえず一区切りつけておく僕の癖です、あはは🤣
あと最近心がけている事は…断片的な情報で頭を悩ませない、少なくとも情報については、情報ごとに本1冊分くらいのまとめた感想をたくさん持つようにしています。つまり人と会う時も新しい本を読むつもりで集中するようにしています(あくまで希望です、念のため)。毎回新しい気持ちで臨めるので飽きっぽい僕に向いていると思っています。これまた、余談でした😉)
お、グッドタイミング。
私ここ2,3年、世界各国に住む日本人女性のブログを読んで来ました。もちろん全部、どころか、5つとか6つとかたくさんの数を見るのは大変だし、そう面白くもないので、3つ・4つ選んで時々。毎日何か書いている人については、ご苦労さんだなあ、えらいなあ(半分皮肉、だって寝てる時間以外はブログを書くこととコメントに返事することに費やしている感じで、なんでまたそんなことを)、と思いつつ目を通していました。
でもね、7月31日をもって全部止めたんです。飽きたんです。だって、お花が咲いた、猫が生まれて「ほっこりした」、こんなケーキがおいしくて午後には「まったり」、この飲み物に「癒された」。そんなことも、書く人の日常を豊かにしているかもしれないけど、私には関係ないもん。共感がないもん。一番頭に来たのは「正義の人」のご意見。これ、ほんとうに「もういいわ」って思います。コメントする人の一部も感情的になっていて、あるタイプのコメンテイターには最初から敵意を持っているみたい。意図的に「誤解」する。それもまあ、なかなか面白いんですけどね。
そう、感情的になってもいいんですよ。でもそれなら私もこういうタイプは「感情的に嫌い」だから読まない。穏やかな語り口?それはそれで結構ですが、くちゃくちゃのういろうみたいで詰まらない、二度聞くと飽きる。自分で飽きないことを考えてやってみよう。
あと何年生きられるか分からないのに、見も知らぬ人の生活覗いて時間潰して何になる。こういう国のこういう町にこんな暮らしをしている人がいる、ということを知るのは私にとって無益ではありませんが、この2,3年に見聞きしたことで「はい、分かりました」ので、別の方向に目を向けます。
ということで、今私は「少し努力の要る」読書に戻りました。いやあ、目が疲れますけどねえ。
それから、私は「勇気をもらえる本」が苦手ですから。そんなもん、もらわなくて結構ですから。(このところ機嫌が悪くてごめん。)