夏の砦:辻邦生著:河出書房新社1966年10月初版発行
過ぎ去った過去の思い出の肌触り(僕はこれを自分の作った現実と呼んでいます)…我ながら、変な言い方ですが一言で言い表せないからこそ著者は小説に託したのだと思いました。日本の旧家(樟の大木に覆われた屋敷)と西洋の城館(城壁ある館:ギルデンクローネの邸)、古いしきたりのイベントの断章。古いグスターフ侯のタピスリーに魅せられてその制作学生となる主人公。タピスリーのように織りなされる文章そのもので伝えづらいものが少しずつ伝わってくる。現実感の肌触り…これは僕自身子供の頃からとても気になっていたことでそんなことを気にする自分が頭がおかしいのではないかと疑って、ずっと不安でありました。おぼろげな現実ではあるけれど自分にとってはよりどころとなるような瞬間の積み重ね、それこそが自分にとっての現実で、その現実(空中に浮遊しているようなつかみどころのない現実:これを自我が確立していないための現象、とあっさり説明している本もあったような気がします)が、もう一方の日々の暮らしという日常の積み重ねで上書きされる生活の堆積により幼い記憶は遠のいていく。つかみ損ねた自分の作った現実と乖離していくやりきれなさ。子供の頃の頼りないからこそ、しっかりと抱きすくめようとした現実とは何だったのか。もちろん僕なんかの安直な頭では、わかりませんでしたけれども、直感でそういうものがあることはわかる。だから今まで、時々忘れてはいても「それ」をたまに思い出しつつ、もう一つの手垢のついてゆく日常の現実を暮らしていくことで「飽きる事はなかった」。その時々のその人だけの真実。それは何なのかわからないけれども「在る」ことはわかる。それが伝わることもわかる。読み取ることもできる。だから古ぼけていようとかび臭くあろうとその時の現実は光と影の一瞬に生き生きと相貌を浮かび上がらせる。そう思って折り合いをつけている。折り合いをつけるのに苦労している人もいるのだろうと思う。探究を進めていっても、埋めようにも埋まらない乖離と認識してしまったとしたら…たとえそれが「ないもの」でもその虚空を抱きしめられなければ、抱きしめられない、そのことを、喪失、と受け止めなければならなかったとしたら苦しいことだろうと、この小説の女主人公の孤立を思う。
主人公が魅せられたグスターフ侯のタピスリー…当のタピスリーにまつわるグスターフ本人について第6章で言及されていますので引用いたします、グスターフ侯は自己軍団を構え十字軍として出陣します、その帰還後の記述(※この記述は…ギルデンクローネの館に住んでいる友人マリー・ギルデンクローネ(妹のエルス・ギルデンクローネとも主人公の支倉冬子は親密な友人同士)の「グスターフ侯年代記」のフランス語訳からのさらに主人公による日本語訳、という設定です、これはこの小説の入れ子構造になっていて、これはこれで1つの「壮大な短編」!)
第6章 187ページ
…前略…
一、グスターフ侯、帰還の事、および憂悶去りやらぬ日々の事々。
出陣以来ニ年ぶりにて、帰還されたグスターフ侯は、ただちさらら城内の高天守にこもられるや、斎戒沐浴と瞑想のほか、奥方、姫君、近親の方々と顔をあわせることなく、日々を孤独の中で送られた。美々しく出陣した3分の2は遠い僻地で失われ、侯とともに帰還したものも、疲労困憊、衣服は破れ、甲冑は破損し、痩身にて顔色すぐれず、幽霊の一群か、死の舞踏者の到来かと、町の人々も戦慄を禁じえなかったのである。まして侯の憂悶と蟄居は、出陣の日の天変地異を人々に想いおこさせ、何ごとかと侯な身辺に起こったか、風説は風説を生んで、町の人々もともども深い憂慮に沈んだのであった。
故国の静寂と雲多い暗い日々は、侯の心身を休め、憂慮を軽減したかに見えたが、日が進むにつれて、ヴェネツィアの滞留のあいだ目撃せる商人に、船主らの狡猾、厚顔と聖職者らの利己心と策略、ビザンチウムの首都の火焔、叫喚、逃げ惑う住民が夢寐(※むび)のあいだも目をはなれず、あたかも一場の悪夢のごとく去来するのであった。
侯をもっとも苦しめた思い出は、かの首都コンスタンチノポリスを奔馳して、治安を恢復せしめんと努めし折、たまたま聖ゲオルギオス寺院の門前にて、かのフランス高位聖職者とその騎士団が、聖遺物の黄金象牙に宝石を散りばめた箱を運びさろうとするのを目的目撃したことであった。盗びだされた教会の権威の品は、そのまま西方で信徒たちの信仰を支えるというこの奇怪な矛盾に、侯は悩まされたのである。侯の眼には、遺物を手に入れて興奮し、歓喜しているかの聖職者の顔がまざまざと浮かんでくる。侯自身の意図如何にかかわらず、侯もまた、この略奪に手をかしたことになる。侯は聖遺物の搬出を阻止できなかったのであるから。侯は思う、はたしてあの遺物の中に、真の信仰の保証があるのか。ないとしても、それを求める多数のために、それを否定もせずに搬出してゆくのが正しいことでもあるのか。それにしても首都の住民たちが、異教の蛮族らをむしろまだしもと観じたあの基督教徒らの背信行為は何として弁護できるであろうか。いかに多くの金銀象牙、宝石、硬玉、絹布、金糸銀糸に飾られた織物、聖像、聖画が剥奪され、略奪され、運びさられたことか。ヴェネツィアの異常な隆盛はどうか。広場広場には町人や役人の子女が着飾ってあふれ、運河運河をゴンドラが唄をうたいながらすべってゆく。毎日が祭りのような賑やかさ、陽気さである。ここでは力業士が鉄球を持ちあげるていると、あちらでは火を吹く男が客を集めている。こちらでは猿回しが芸をみせていると、あちらでは軽業の一行が梯子のりをやっているといった具合である。しかもその繁栄はすべて東方の国々から奪取した交易の上に成り立っている。これが聖なる長征として、幾多の血や汗や命を代償に得た結果であるのか。これが純新なる青年、信仰に燃える老将、聖地への悲願に生きた兵隊たちの魂の報償であるのか。よしんば、こうした諸々の姿があったとしよう。これが地獄絵さながらだとしても、ひとまず、あったこととして、認めよう。そうしたうえで、なお、かの信仰はどこにあったのか。神はどこにその御顔を示しておられたのか。グスターフ侯はそう自問した。余は果たして神の御顔を仰ぎに聖地へ出かけたのであろうか。聖地に何を期待したのか。自分と同じように熱烈にして純真になる信仰に燃える聖騎士団の軍団を見たかったのであろうか。聖地恢復という行為におのれの信仰をためそうとしたのであろうか。そして余はそれを見たのであろうか。信仰は保証されたのであろうか。いま、いかに強弁しようとも、あの辛苦と憂悶の長征のあいだ、神は御顔をあらわされたといえるか。神は、いったいどこにおわすかを余は知りえたのか。否、否、余が眼にしたのは、神の在しまさぬ地獄であった。狂気と貪欲と血と病気がのたうちまわる地獄であった。もしその揚句のはてに、神の御顔を仰ぐことができれば、この地獄めぐりも、いかに心打たるる壮挙であったことか。されど地獄の果の果までいって余の見たものは、神の不在の姿であった。神が在ますと求めていった方角に、地獄しかなかったということはいかなることであるのだろうか。ああ神よ、爾(なんじ)はいずく在わすか。余は爾を心から認めえられる日こそ、死をもおそれず、深き安息のうちにこそ死するを得るであろうに。神よ、神よ、爾はいずくに在わすか。かくて侯は天守の礼拝堂に打ち伏して、暁の星の窓辺に白く残るこれまで、終夜、祈りを捧げたのであった…後略…以下グスターフ侯が1週間に及ぶ死神との戦いを経て大いなる死を迎えるまで物語は続く、引用以上。
引用はどちらかというと↑挿入物語、サイドストーリーの最初の一部、これだけで、止めたいと思います。
最後の7章を読まず僕は自分の想いを、さきに書きました、支離滅裂であろうと曖昧模糊であろうと自分の思いを吐露しておく必要があったからです。そうしておかなければ僕自身が著者の強い思いにとらわれてしまうそんな恐れがあったからで、それは嫌だ。僕自身の中の僕をしっかりつかんでおきたいそんな気持ちで舌足らずな上記の文章を書きました。
とりあえず書き留めてから、最後の7章をそろそろと恐る恐る読み始めたとき不思議な気持ちでした。自分の考えを確認するような気持ち、こんな思いで読み進めるとは思いもしませんでした。どうかこの言い方が偉そうに聞こえませんように。鈍い僕の頭で長いことかかって出した結論と寄り添う部分があまりにも多かったと白状しておきます。だからといって安心感があるわけでは無いのです。自分の作った現実はその人だけのもので人とすり合わせたり、同意を求めるものではない。
僕はこの本の第7章だけでもなるべくたくさんの人に読んでほしいと思いました。この歳になってこの本に出会えた幸運を噛み締めています。ほとんど涙目です、第7章を自分の遺言代わりにしたいくらいです、この本との出会いは、、まさに、先達はあらまほしきものなり…案内してくれる人がいてよかったです…「永遠の文庫<解説>名作選」の解説文のおかげです、ありがとう。
(舌足らずな紹介になってしまい申し訳ありませんがこの本は僕のイチオシ!太古から寄せては返す潮のようなリズム、あるいはまた、城壁の石垣のようにしっかりと積み重なってゆく詩文だけでもぜひ味わっていただきたいです、今日の僕の下手なコメントだけ本当に余分だったなぁと思っています、下手な引用は全体の作品をぶち壊しにすると思いましたので、これでも控えめにしたつもりです😅)
先日辻邦生のことを話題になさったので、そのとき「積読」のままとお話しした「西行花伝」を読み始めました。文体はきれいだが読みにくいとか、テンポがまどろこしい、などという評も見ましたが、読み始めて見ると特に問題はなし。(老眼にはちと厳しい文字サイズなので、あえて5,60頁以上は読まないようにしています。)
この人を知るきっかけになった北杜夫ですが、辻邦生と北杜夫は松本高校で親しい同級生だったとか、それで北杜夫が辻邦生の奥さんのことを話すときにチビでどうのこうのと、仲間の女房を語るような気易い調子になったのだと分かりました。(夫人はビザンチン美術の専門家らしいです。)
精神科医になった北杜夫はトーマス・マンに入れ込み、辻邦生はフランス文学の方に進んだと理解していましたが、今回の作品は地名・人名から、おや、ドイツが舞台なのかな、と思ったら、北欧なのですか。
タペスリーが主要モチーフになっているようですね。
タペスリーといえば世界一有名なのはユニコーンのそれだと思いますが、この「貴婦人と一角獣」の6枚のシリーズ、私はパリの国立クリュニー中世美術館に二度見に行きました。クリュニー美術館なんてほとんど話題にもならなかった80年代、35年余りも昔です。当時、フランドル地方産の織物に興味があったのがこのタペスリーを知ったきっかけで、二度とも見学者は私一人、借り切り状態でした。美術館そのものが中世の芸術品で「静謐」という形容がぴったり、ああ、あんな贅沢はもはや誰にも望めないでしょうね。早い者勝ち!でした。
「夏の砦」は西行花伝を終えてから、日本で何とか入手します。
ライントークを読もうとしたら、パスワードが分からない。2021とKBCの組み合わせだったと思うのに、なぜか今回に限ってはどう入れても「正しいパスワードを」というメッセージが出るばかりで。