リスクに背を向ける日本人:山岸俊男+メアリー・C・ブリントン
:講談社現代新書2010年第1刷
対談相手2人は気心知れた先生同士みたいです。この本の著者というか語り手2人の結論から先に言いますと…山岸さんは…「王様は裸だ」と国民が語りだすこと…メアリーさんは…(日本人は)引っ込み思案では変わりつつある世界ルールから外れていく、つまり引っ込み思案ではいられない…ということになろうかと思いました。本音と建前、道徳と法律、を巧みに使い分ける日本人ではいられない…と僕は解釈しました。グレーゾーンのやりとりはどの世界でもあることは2人とも認めていました。それでも…使い分けはマイナス部分の方が多いという結論。正直に語り出すことを勧めているようです。
この本はすべて2人の会話によって日本と日本人をあぶり出していく訳で本を読み進めるに従いたくさんの付箋がついていくのですがいつもでしたらその付箋のポイントとなる箇所を引用していけばなんとなく結論にたどりつくのですがこの本は、そうはなっていないところが「考え方」を手渡された気がしてなんとも居心地が悪いのです。つまり振り返って自分はどうなのか、か問われてくる。
とりあえずは主張するタイプ、そうしないと気分が悪いので、僕みたいなタイプ少数派なんだろうかそうでもないんだろうか。
話は変わりますが…僕が思ってもみなかった自営を始めたいきさつを考えるとちょっと我田引水の気があるとは思うんですが、、勝率と自分自身の気持ちをどう保てるか、を考えた事は間違いありません。寄らば大樹の陰にいない方がとりあえず自分の主張を曲げなくて良い点が1つ、どう運営しようと責任は自分自身が取る覚悟。もう一つはみんなが勤め人を目指すなら(50年前当時。組織労働者3,000万、未組織労働者1,000万人)、自営業者を目指す(当時の法人数140万)方が「勝ち目」がある、と華奢で単純な頭は考えました、まぁ端折って合理化してますが…ものを知らないというのはこういうことだと思います、あはは🤣
実はこれが環境に恵まれていたということなのだと気が付きます。失敗したら、また勤めればよい。そしてなんと今回取り上げたこの本の結論がそこにあったのです。
敗者復活戦とまでは言ってませんが、だめだったら贅沢を言わなければ仕事はいくらでもある、みたいな社会の余裕、需要があり選択肢がある…そういう背景があってこそ個人の主張できる幅が決まっていく。僕の先輩たちもそういう意見の人たちが周りに結構いましたね…失敗したら屋台でも引く、屋台の実情はどうであるかも知らずにですよ…そんな意見があること自体まさに余裕の高度成長期、だったんだなぁと今になって振り返ります。成り上がった成功者の女性経営者が資産運用に成功して…自分は粗末な家に住み…次にしたい事は…僕ににっこり笑って耳打ちしました、もういい年ですけどアメリカに渡ってメイドからやり直してみたいと思っています…実は本気です、と、聞かされた僕は…もしかしたらこの人、本気かも、と思いました。
仕事をクビになっても離婚をしても、子供も本人も何とかやっていける社会、サポートがある社会…そういうことに寛容な社会…この2人が言いたかった事はそういうことかなと結論しました。日本の社会ルールを本来の法律の運用に乗せて世界ルールに近づける、言うはやすし行うは難し、困難で個人個人の資質が問われているのだと今この文章を音声入力しつつ自分自身を納得させました。法律の弾力的運用が世界基準よりも少しゆるい…つまりは文化の成熟度が高いと言えなくもない国民全体の忖度がやがて来る世界ルールに合わなくなってきているので世界ルールとのギャップを埋める覚悟が問われている。
(リスクに背を向けないで済ませるため、リスクテイクができるためのセーフティーネットを僕ら自身が一目一目編んでゆかなければならないという先の長い世代を超えた覚悟こそ必要だと思いました、セーフティーネットのほころびを繕うのではなくて新しいセーフティーネットを作るということ、言い換えれば一人ひとりの意識改革(時代を超えて育んできた国民性を変える位の覚悟が必要?、まさか、と思う反面まさにそこが肝要という気もしてくる)の必要性を意識する事を含めて、世代間、男女間、上下身分間(階層間)、を巻き込む社会全体の覚悟が迫られていると思いました。
対談形式のこういう本は面白いですね、読者に対する説得もさることながら対談者同士の意見の微妙な食い違いの確認行為が、とてもスリリングでした)
1カ所だけ対談の雰囲気をお伝えするために引用いたします
137〜140ページ
メアリー : …前略…
山岸さんのお話に「シグナルを出す」という話が出てきましたが、このシグナルは確かにたいせつです。そこで、私がシカゴに引っ越したときの経験をお話ししましょう。
シカゴ大学はスラム街の真ん中にあります。ですから、シカゴに引っ越すことが決まったときには、みなが口ぐち、に、キケン、危ないって、私に言いました。もちろん、私自身、そういう環境で生活した事はありませんでした。大学自体はどちらかというと白人が多く、そのほかアジア系の人や黒人もいました。でも、一歩大学の外に出ると、町を行きかう人は黒人ばかりです。だから私のような白人女性は、黒人の男性とすれ違うだけでも怖い。でも、黒人の男性も、白人女性が自分たちを怖がっていることを強く感じています。だから、黒人の男性たちは、私に対して「大丈夫だよ、心配ないよ」というシグナルを送ってくれました。
例えば、道を歩いているときに何度も経験したことですが、ふつうは面識のない人とはあまり目を合わせたりしませんよね。ところが、私が1人で道を歩いていると、黒人の男性がすれ違うときに、"How ‘re you doin’?"と言ったんです。全く知らない人なんですよ。白人の男性には、そんなことをされたことがなかったので、「どうして黒人の男性が、見ず知らずの私にそんな挨拶をするんだろう」と思ったんです。
でも、よくよく考えたら、それはシグナルだったんですね。「私は黒人男性だけど、大丈夫、安全ですよ、アタックしたりしないから、信用してください」ということを、"How ‘re you doin’?"と言う一言に託してくれていた。そうしたシグナルを通じて、どんなに私がリラックスできたことか。そのことに気づいてからは、私も"Hi , fine, thanks"と返事をするようになりました。もちろん最初は不安でしたが、慣れてくるとやりとりを面白く感じるようになりましたし、安心できるようになりました。
日本人って、そういうときには、目をそらすとか、視線を合わせないようにするという感じですよね。うまく言えないのですが、視線を合わせないようにすることが1つのシグナル。「目を合わせない」というのは、日本人の1つの人間関係の取り方のように思えるのですが、どうなんでしょうか。
いじめの問題
山岸 : 目をそらすというのは、「私は興味がないですよ」というシグナル。でも、このシグナルは、実は行動を変えさせるための1番有力なシグナルになることもある。
たとえば日本の「いじめ」。日本のいじめはほとんどが、「無視をする」といういじめなんだ。無視されると、無視されたほうはダメージが大きい。多くの子どもたちは、無視されることに耐えられない。いじめるほうも、ただ無視しているだけじゃなくて、「無視している」というシグナルを出す。だから子供が受けるダメージがますます大きくなる。
でも集団主義的な秩序というのは、ある意味では、いじめが作る秩序なんだ。私の知り合いにインディアナ大学のエリノア・オストロム教授という、ノーベル経済学賞をもらった政治学者がいて、すごく面白い研究をいろいろ手がけている。その中に、ネパールの水利システムや灌漑システムはどうやって維持されているかという研究がある。
この研究で彼女が出した結論は、「ネパールの人たちは、お互いに監視し合い、いくつかの段階ごとにシグナルを出して注意を喚起し、それでもダメなら最終的には村から追い出す、というやり方で村社会を維持している」というものだった。
灌漑システムを作って維持管理をするという作業では、どうしたってサボる奴も出てくる。でも、最初から村を追い出すわけじゃなくて、「みんながあなたがサボっていることに気がついていますよ」というシグナルを出す。それで反応しないと、もっと直接的なシグナルを出したり行動を起こしたりして、それでもダメなら、最終的には追い出ちゃったりすることもある。たぶんこういう社会って、そういうそうした仕組みがすごくよくできている。引用以上。
私もやむに止まれぬ事情から会社を経営していた時期がありました。事情というのは調子のよい友人に請われてハイハイと貸していた額が数千万円に膨らみ、その友人が会社を放り出してしまったんです。このままだと私の貸したお金は戻らない。しょうがないからそのお金で会社を買ったことにして、3年ほど社長をやりました。円高その他の状況に助けられ再建が半分ほど終わった頃に、その会社をわりといい値で買いたいという人たちが現れ、もう喜んで売りましたよ。
選択の余地があったら、誰がこんな危ない橋を渡るものですか。リスクには背を向けるに決まっているじゃありませんか。日本人は弱虫みたいなことをいう奴ら、出て来い!!お前たちも背水の陣で潰れかけた会社を立ち直らせてみな。理屈じゃねえんだぜ。
この私でもそう言えるということは、実際にはリスクを切り抜ける力のある人は潜在的に結構いるということであり、いざとなればそれが発揮されるはずだから、インテリの御託など聞きたくねえや、というのが私の本音でございます。