20世紀 革命:読売新聞20世紀取材班編:中央公論新社2001年6月初版発行
(全12巻の文庫本の内の1冊です(他の11巻→徹底討論20世紀、都市物語、アメリカの世紀、大衆社会、科学・思想、高度成長日本、冷戦、太平洋戦争、大東亜共栄圏、大日本帝国、欧州大戦)
(※ロシア革命におけるユダヤ人の活躍に注目して、この本の最初の方に記述がありますので引用します、僕自身イスラエルについて知らないことが多すぎてつい引用が多くなります、ご勘弁↓)
35ページ ユダヤ人救世思想の実践
モスクワにあるロシア史研究所のボリス・イリザロフは、ロシア革命初期の特色として、革命指導部に多数のユダヤ人が参加し、その結果「ユダヤ的なもの」が革命の実践行動に持ち込まれたと主張する。
「ロシア革命には、ユダヤ的メシアニズム(救世主思想)とロシアメシアニズムが入り混じっていた。救世主を迎えて地上に楽園を作るというメシアニズムは、ユダヤ人にもロシア人にも共通しているが、革命の初期に極めて強かったユダヤ的なメシアニズムをはスターリンとトロツキーの権力闘争を経て根絶され、結局、革命は変質してしまう」引用以上。
36〜37ページ
同研究所(※上記ロシア史研究所)のユリー・ボリソフ部長は、これほど多数のユダヤ人がいた背景として次の3点を指摘する。
まず、帝政時代のユダヤ人たちには居住地域が職業選択の自由がなく、その社会的不平などに対する不満がうっ積し、早くも「ブント」(ユダヤ人労働者総同盟)のような政治組織が作られ、帝政体制の改革を求めていたことである。
次いで、権力奪取を「革命的知識人の大衆主導で行う」とする実践論から、革命には相当数の知的「エリート」群が必要だった。それを補ったのが、教育に投資して次世代の知的専門家を育てていたユダヤ人たちだった。
第3は、ユダヤ人革命家たちの大半がロシア革命を多民族を包み込む「国際主義体制」としたこと。それがレーニンの政治感覚と合致して、ボリシェビキ(ロシア社会民主労働党=共産党の母体」への多数の参加者を生み出したことである。
この国際主義はトロツキーの「永久(世界)革命」論に代表されるが、それはロシア革命を「世界革命の一環」として先進国(まずドイツ)へ拡大し、その両者の「結合下で足場を築いて」から世界革命を完成させるとの構想だった。
イリザロフによると、ユダヤ教のメシアニズムは救世主の到来を待って「すべての者に楽園を築く」ことにある。トロツキーが他地域への「革命の拡大」を求めたのは、救世主(革命)の到来を多くの者の至福とするユダヤ思想への「希求だった」と指摘する。
これに対してロシアの救済思想は、ロシアそのものが「救世主」として歴史に登場し、「地上の楽園はロシアを通して築かれる」とする考えだ。その「自己中心」的な思想は哲学者ベルジャーエフや作家ドストエフスキーにも見ることができる。
後にスターリンは、トロツキーと正反対の「一国」社会主義論を唱えるが、イリザロフは、その根底にはこの「ロシア的メシアニズムがあった」と言う。少年時代を神学校生として過ごしたグルジア人スターリンが、ロシア正教にロシア的救済思想の啓示を見たとしても不思議はない。
その意味で後にスターリンが周辺国家をまとめて一大帝国を作ったのは、自らを「救世主」とする自己中心的な救済思想の変形と見ることもできるだろう。
引用以上
(※引用ばかりで恐縮ですが、今日のロシアの状況を考える上で何らかのヒントにはなるのではないかと我田引水に注意しつつ… ↓)
38ページ スターリンとユダヤ人
社会主義革命から80余年を経た今日、新生ロシアの場合はどうか……。「ユダヤ人は今、新しい時代を迎えている。政治の分野だけでなく、あらゆる部門で持ち前の能力を発揮して、活発に動いている。ユダヤ人の新しい開花期だ」
贅沢な調度品に囲まれた事務所の応接室で、ロシア・ユダヤ人協会のアレクサンドル・オソフツォフ副会長は言う。名刺には「大学教授」の肩書もあり、哲学史専攻の学者という。
エリツィン政権でも枢要ポストがほとんどユダヤ人で占められ、十月革命直後の状況が再現されていると言っても過言ではない。
同氏によると、チュバイス、ネムツォフ両第一副首相、ウリンソン副首相兼経済相、フラトコフ対外経済関係相、リフシツ大統領府副長官……いずれもユダヤ人(肩書は97年)。
…中略…
帝政時代から革命、そして内戦、第二次世界大戦さらにはソ連崩壊という急展開の中で、ロシアにおけるユダヤ人の歴史は常に権力闘争と密接に結び付いていた。そのためユダヤ人はある時は権力の上層部に浮上し、またある時は生存そのものを脅かされる「不条理」の中に投げ込まれるなど、何度も悲劇を繰り返した。
…中略…
30年代、党の大粛清時代には「反党」陰謀に関する様々な「事実無根」の裁判が行われるが、その被告席には「必ずユダヤ人が含まれる仕組み」にもなっていた。
さらに対独戦争が始まると、ナチのホロコースト(ユダヤ人根絶)に対する戦争ということを口実に大量のユダヤ人が第一線に送り込まれた。戦後も53年1月には「ユダヤ人医師団陰謀事件」が起こる。米国の国際ユダヤ人組織が、ソ連要人の暗殺を計画していたとする奇想天外な告訴だが、これも冷戦が悪化する中でスターリンの権力強化に狙いがあった。「戦後、ユダヤ人が党や政府組織機関で出世するのは、到底望めなかった。残された道は学者、技術者、才能があれば芸術家、あるいはジャーナリストなどになるほかなかった。しかし、それでもそれぞれの分野で上へ登るのは容易でなかった」と、オソフツォフは自らの「ブレジネフ時代」を回想する。
反体制派にユダヤ人が多かった最大の理由は、こうした隠微な差別への不満が下敷きになっていた。
その意味で、ソ連社会主義の崩壊は、帝政崩壊の時と同様に、抑圧されてきたユダヤ人のエネルギーを再び解き放った。資本主義という新たなゲームの中で、ユダヤ人は今、未来へ向かって邁進中だ。その状況は革命期初頭と実によく似ている。引用以上。
(※スターリンの大粛清について項を立てて短く(大事件が短くまとめられる歴史の怖さ)まとめてあるので、そのまま引用します↓)
57〜58ページ 大粛清
1930年代後半、スターリンは独裁体制を完全なものとするため、共産党、軍、知識人、さらには一般市民、農民までも対象に大量テロを断行した。犠牲者は少なくとも350万人、歴史学者によっては1千万人以上と推定している。
発端は党内反対派に対する三次の「モスクワ裁判」だった。36年7月の「合同本部事件」でジノビエフ、カーメネフら16人、37年1月にラデックら13人、38年3月の「右翼=トロツキスト・ブロック事件」でブハーリン、ルイコフら18人を処刑。37年〜38年に当時139人いたと党中央委員、同候補のうち、98人が銃殺された(フルシチョフの第20回党大会秘密報告= 58年)。
軍に対してスターリンは秘密警察への反発、粛清した党幹部との結びつきを恐れた。処刑者は5人の元帥のうちの3人、海軍大将10人全員、陸軍政治委員17人全員などをはじめ数千人の将校に及んだ。戦時でさえこれほど多数の軍幹部が命を落とす事はなかった。引用以上。
(※スターリン亡き後のフルシチョフについても項を立てて言及しています↓)
114ページ 秘密報告
1956年2月の第20回党大会最終日の秘密会議で、フルシチョフが行った「個人崇拝とその諸結果について」と題するスターリン批判演説。
数時間にわたる長大な演説でフルシチョフは、大量粛清を行ったスターリンの罪状を列挙。第二次大戦でドイツの奇襲を招いた戦争指導者としての責任にも触れ、その神格化された偶像を突き崩した。
同年6月、東欧筋からテキストを入手した米国務省が「秘密報告」として公開し世界に衝撃を与えた。特にソ連を範としてきた社会主義諸国の動揺は大きく、ポーランドとハンガリーでは自国の「小スターリン」への抗議暴動が発生。一方、中国はフルシチョフを「修正主義者」と非難し、イデオロギー論争は国家対立にまで発展、当時の冷戦構造を大きく変えるきっかけにもなった。
国内でも、各工場など党の末端組織の会議で読み上げられたが、報告がソ連国民一般に活字として公表されたのは、グラスノスチ(情報公開)が進んだ89年になってのことだった。引用以上。
(※当のフルシチョフについてさらにこう言及されている箇所があります↓)
110〜111ページ
粛清犠牲者の復権運動を続けるアレクサンドル・ヤコブレフ元ソ連大統領顧問は、「フルシチョフは粛清の血で手を染めた人物として、共犯の責任を免れない」と語る。
ヤコブレフの党文書に基づく調査によると、フルシチョフがウクライナ共和国第1書記に就いた38年からの3年間で、同共和国で「反党運動」などを口実に16万8千人が逮捕された。また、モスクワ市党第一書記時代の36年〜37年にモスクワで粛清された市民は5万6千人に達した。
しかし、秘密警察を機とする脱スターリン化が、「雪解け」や後の東西関係の緊張緩和につながり、ゴルバチョフ時代の立て直し(ペレストロイカ)の底流を作ったという歴史的功績は疑いない。
ブレジネフ政権時代に国外移住したイツハク・ブルドニー米エール大教授は、党組織にとって秘密報告が持っていた意味を、「粛清の恐怖に疲れた党官僚集団に対し粛清時代との決別や、自分が殺りくを再燃させる指導者ではないことを印象づけた。その後の権力や特権をめぐる党内闘争に、銃殺を伴わない勝敗ルールの導入を提起するものでもあった」と読む。
それは、党員の大半が粛清の執行者や密告者、あるいは傍観者として責任を負う異常な情勢下でのみで成立する、流血の過去を清算する手打ちでもあった。引用以上。
(※フルシチョフに関して…負の継承、の項から彼の横顔をメモとして引用します↓)
111ページから114ページ 負の継承
旧ソ連のウクライナ共和国首相などを歴任、最高指導者時代のフルシチョフと職務や狩猟を通じて交わりのあったイワン・カザネツは、フルシチョフの矛盾に満ちた素顔を回想する。
「秘密報告後も、フルシチョフは内輪の会合では、「スターリンは、今の我々とはけた違いに賢明な指導者だった」などと賛辞を惜しまなかった」
党中央委員会勤務時代にフルシチョフのスピーチ・ライターを務めたフョードル・ブルラツキー元「文学新聞」編集長は、「ブハーリン攻撃に積極加担するなど、熱烈なスターリン主義者だった時代」と、「独裁者の死後」のフルシチョフを区別して評価する必要を強調する。反面、「その後も彼は非スターリン化路線推進の一方で、64年に失脚するまで外交など多くの分野でスターリン主義者であり続けた」と認める。
事実、フルシチョフの統治には幾度となく、冷酷な「スターリン主義者の顔」が露呈した。
ロシア正教史の研究で知られる僧侶インノケンティ師は「フルシチョフ期の宗教弾圧は、4万3千人もの聖職者が犠牲になったスターリンの弾圧ほどの規模、残虐性を備えるものではなかった」としながらも、それは「「それは、教会、信徒の圧迫のために行政手段を駆使する虐待だった」と語る。59年〜64年の間に、1千以上の教会が閉鎖されたほか、「少なくとも数十人の接触者が、納税や同性愛に関する刑法上の容疑を口実に投獄された」という。子供に洗礼を受けさせる両親に登録を義務付け、職場で差別されたり、秘密警察に狙われる恐怖に直面させることで信者数の増加が抑えられた。
歴史家ドミトリー・リハチョフは、「スターリンは人々を大量銃殺したが、フルシチョフは政治犯を精神病院に監禁するといった、より悪質で陰険な方法を編み出した」と語る。
58年には、マルクス主義理論を否定する学生組織「ロシア愛国者同盟」が摘発され、メンバーが最高懲役10年の頃を受けたのを含め、多くの異端思想団体が弾圧された。62年のロストフ州ノボチェルカスクで、生活条件に抗議する市民20人が治安部隊に射殺された事件では、大流血の痕跡を洗い流す目的で消防車が鎮圧開始前から現場周辺に待機していた、という。
だが、特に西側の評価は、こうした暗部をわきに置き、「改革者」としてのフルシチョフを前面に押し出す傾向が強い。
米エール大のイツハク・ブリトニー教授は「後に欧米で数多くのフルシチョフ論の文献が著わされたが、それは主にリベラル左派の研究者によるものだった」とし、「共産主義に夢を抱く彼らはブレジネフ保守主義に憤慨する余り、粛清犠牲者の名誉回復を含む改革など、フルシチョフ期の肯定的側面を強調、宗教弾圧など否定的側面を過小評価したり、無視しがちだった」と説明する。
こうした批判の中で、ブルラツキーは、「党の特権官僚の95〜97%がスターリン批判に断固反対する」中で秘密報告が強行され、非スターリン化への潮流をつくり出したとして、なおフルシチョフを称賛する。同氏によれば、演説から40年余を経た今も、ロシア社会は独裁者の呪縛から完全解放されていない。
「フルシチョフを解任することは可能だったが、「(大統領弾劾を事実上阻む憲法規定に守られた)エリツィン大統領の解任は不可能だ。現在のような絶大な個人権力は、フルシチョフもブレジネフも持ってはいなかった」
ブルラツキーは、「スターリン主義が過去のような形態、規模で再現することはもはやない」と前置きした上で続ける。
「だが我々はスターリン主義を完全に克服していない。スターリン主義が国家運営の個別の局面で出現するのを防ぐ保障機能は、まだ確立されていない」。
(※権力者、権力とは…このような側面があり大衆は羊ではいられない。この本が書かれた2001年から既に20年、プーチンのロシアはどこへ向かうのか、ロシアウォッチャーに解説してもらいたいです)
(※後半は中国革命についてですが今回は省略します、現在の中国の幹部は、我々はロシアとは違うという言い方をしていると噂で聞いたことがあります。この本の後半で中国における孫文から毛沢東、蒋介石国共合作、さらに時代は飛んで89年5月、鄧小平・ゴルバチョフ会談で、約30年間の対立に終止符を打った(265ページ)、、などの記録まで、こんな小さな文庫本にこれでもかと外せない歴史事項が満載です(この小さな文庫のシリーズの第1回ががこんなに重いとは…)
(※今ソルジェニーツィンの著作「収容所群島」の中に出てきた1つのシーンがまた思い浮かびました…収容所に入っている時、自分が読んだ新聞を畳むとき、(まだだれも開いていないように見せかけるために)…初めて手にすると思わせるように丁寧に新聞をたたみ直す場面が出てきました…小説の内容はおぼろげになってしまいましたがこの場面が今どういう意味を持つのかは少しわかった気がしました…少しでも疑いをもたれることを恐れる気持ち、ではなかったかと思います、あるいは監視人の心証を良くするために、あらぬ疑いや密告を恐れる閉塞状況の恐ろしさをこんなふうに描いてみせた。
ロシアの格言、糊と理屈はどこにでもつく、民衆はこれを身に危険が及ぶ恐怖として、身に染みてわかっていたと思います…その後遺症は今も多分)
(※ソ連邦崩壊後のロシアは過酷な歴史そのものの検証はおろか認識すら、分析、発掘、整理はこれからだと思います。歴史を振り返り、記録し、そこから新しい歴史で古い過去に上書きする以外にこれから生まれてくる人たちに示せる処方箋はないような気もします、一人一人がロシアの大地によって立つよすが、どうやって作っていくのだろう。振り返れば日本にしても戦後から今までの幸運を無駄にしないためにも歴史から学ぶ事はまだまだごまんとあると思いました、偉そう)
(※と言うわけで、、中国革命についてですが全て省略します、このハンディな文庫本の内容の多岐にわたる目配り、配列、驚くばかりです)
(※ロシアの本当の革命はこれからだと言っても良いのではないでしょうか、大方の犠牲が国民であった歴史をこれからは変えなければロシアが崩壊した意味がない。ロシアの青年たちが成熟期を迎える頃には少し落ち着いていて欲しいなぁと他国のことながら、願わずにはいられません、というかどこかの誰かがどこかの国で風邪ひいたらこちらまですぐ影響受けるように世界中がネットワーク化された今日の現状では知らんぷりはできないどころかそんなことをしていたら足元をすくわれそうです、、。国民が安心して明日の飯の心配をせず、明日に向かって生き生きと次世代を築く気概も持たせないで何のための革命だ、今も続く死屍累々の死人の山、僕らは何を学んでいるんだろう。以上夏ごもりメモ、自分用メモなので中途半端、ご勘弁)
とてもよく書けていますね。先生は3重丸をあげます。
さて、今日のニュースで気になったのは、秋葉原で7人を殺した若者(39歳)が死刑になったと言うニュースと、五輪組織委員会の高橋治之元理事が収賄容疑で家宅捜査を受けているという話。
死刑囚は自分が母親から異常に厳しく育てられたことが自分を反社会的な人間にした、と主張していたようで、話を聞くと一理あるようにも思える。だけど何をしても許される楽な環境にある人はまた別の悪に走る。子育てに正解はなくて、どの親も手探りで子を育てているところがあるのでしょうが、そういう迷いや戸惑いは仕方ないと思う一方で、自分の名誉欲や見栄や、自分が為しえなかったことをさせようという身勝手な動機で子どもをダメにする親もいますよね。これは実に迷惑な話です。そういう人は子育てをしてはいけないと思う。親子って大変だなあ。安倍元首相を射撃した男性の場合だって、母親との確執が大きかったし。
高橋治之の場合は、5千万円くらいの収賄の疑いだというけど、話に聞くとお金持ちだったし78歳と高齢者だし、いまさら5千万円多く手に入れてどうしようというのでしょう。だって毎日数万円のステーキと一本20万円のワインなんか飲食いしていたら死んじゃいますよ。(この人の弟はもっと大金持ちだったけど、裁判で闘っているうちに59歳で蜘蛛膜下出血で死んだそうな。)30人、40人の美女を侍らせてもこの年齢じゃ腎虚(これ面白い病気ですね)になっちゃって、楽しむどころじゃないでしょう。
世の中には自分の想像力を越えることがたくさんありすぎて、いや、もうお手上げ。だからって平知盛のように「見るべきほどのことは見つ」と言って旅立つ気にはなれないし、それで言うと旧約聖書にある「先にあったことは、また後にもある。先になされたことは、またの地にも為される。日の下に新しいものはない」というのが正しいような気もします。