クララとお日さま:カズオ・イシグロ著:土屋政雄訳:早川書房2021年3月初版印刷
図書館にリクエストしていた本が来たので早速図書館の閲覧室で読み始めました。大人向けの童話だ。子供たちはいつだって大人のふりをしている大人たちの間違いを直してくれる。今回はその役目が人間の形をしたロボット、クララ。子供たちの友人、この小説の場合にはジョジーという病弱な女の子に選ばれた友達ロボット。子供たちが子供でいられる時期が削られている人間の促成栽培時代には当然クララのようなロボットの需要もあるだろう。ノーベル賞作家の面目躍如、子供の目を取り戻すためにこの物語はできた、と思いました。
304ページでクララにジョジーとの互換性をほのめかしてくるジョジーの母親、どうするクララ。ここで先に読み進むのは僕がバカな証拠です。でもさすがに踏みとどまり少し考えることにしました。クローン羊の進化形?自分の分身のような友人。もう1人の自分。何世紀も先の事だろうけど当然これは問題になる。唯一無二の意味が問われる。個人の欲望でそんなことも許されるのか?愛もまた欲望の裏返し。無限に欲望するのは品がない(欲望して何が悪いという意見はこの際保留)僕はそう思う。
この小説を読むのをなんとなく先延ばしにしていたのも理由があった、つ、つまりそのまだ見ぬ小説が問いかけてくるであろう質問を類推する時間が欲しかった。未来は今の人だけのものではない。未来は未来の人のものだと思う。そこでどんな結論が出されようとも。だからこそ今を生きる僕らは僕らの意見を表明しておかなければならない。
第5部 379ページを読み進めるに先立ち…僕はここで自分がこの本の著者であったら結末はこうするという予測を立てました、子供の最良の理解者でありロボットに課せられた使命、自分がロボットだったら苦しいけどこうするかなという僕の結論は間違っていました。
(著者は未来を描いていたからです、未来は未来の人のものだ。過去と現在を未来にどうつなげていくかは、現在を生きる人の仕事、次の工程につなげるのは職人の仕事😅)
僕の結論はこうでした。ジョジーの病気に寄り添う、最後まで…つまり寄り添った女の子がなくなれば、自分の未来も閉じる…それがプログラムされたクララの使命だから。この僕の結論はちょっと浅はかで、単なる「モノ」ではなくなったクララの立場を考えていませんね…あはは。人間は一人では生きられない、その都度の関係性の中で成立する、と考えればそれぞれに愛しい。🥺
カズオ・イシグロにこんな作品があるとは知りませんでした。(私はRemains of the Dayが出てすぐ読んで、イシグロの価値を早くから知っていた、なんて威張っていたのですが、2017年にノーベル文学賞なんかもらった後は、逆に興味を失っていました。)結構長くて複雑な物語みたいですね。いつか読むことがあるかなあ。こちらでドイツ語版っていうのも厭だし。
と言いつつ探したら、ドイツ語でも英語でもちゃんとしたあら筋がありました。(日本語の場合は、どうしてネタバレをあんなに恐れるのかしら。最後が分かっても、それでもう読まないということはないし、最後を知っていて読むのも結構楽しいのに。)
ジョジ―とリックは離れていくけど、イシグロさん、この二人を晩年にもう一度会せたら面白い展開になると思います。おとぎ話は子供のためにだけ必要なわけではありません。