月夜の森の梟(ふくろう):小池真理子著:朝日新聞出版2021年11月第1刷発行
僕も会員である尊厳死協会の会報にこの人のインタビュー記事が載っていてその中にこの作品の紹介がありましたので取り寄せて読んでみました。
近しい人が亡くなって、気持ちがさまよっているらしく文章にも足が地についていない(批判的な意味は一切ありません、本人は風景に薄い皮膜がかかった様、と書いています)ような感じがありました、本人にしかわからない感情。(例えば本人が気がつくが気がつかないかは別として豊かな愛情に包まれた子供がそうされなかった子供の気持ちを理解できないように。(彼女の連れ合いが母親の支配的な感情から逃れられなかったと本の中で触れています)そういうものがあると知ったのは僕自身、最近です。そういう気持ちで書かれた文章ですから読む方としてはつい失礼にも白けて、ツッコミを入れてしまいます、いやだいやだ😮💨
題名が気にいらん、月夜の森の梟、ロマンチックな中学生じゃあるまいし。それでも知らぬ間にうんうんと頷いていた、そんな箇所を引用いたします
36ページ
若いころ私は、人は老いるにしたがって、いろいろなことが楽になっていくに違いない、と思っていた。のどかな春の日の午後、公園のベンチに座り、ぼんやりと遠くを眺めている老人は、皆、人生を超越し、達観しているのだろう、と信じていた。ささくれ立ってやまなかった感情は和らぎ、物静かな諦めが、心身を解放し、人生は総じて、優しい夕暮れの光のようなヴェールに包まれているのだろう、と。
だが、それはとんでもない誤解であった。老年期と思春期の、いったいどこに違いがあろうか。生命の輝きも哀しみも不安も、希望も絶望も、研ぎ澄まされてやまない感覚をもてあましながら生きる人々にとっては同じである。老年期の落ち着きは、たぶん、ほとんどの場合、見せかけのものに過ぎず、たいていの人は心の中で、思春期だった時と変わらぬ、どうにもしがたい感受性と日々、闘って生きている。
ここのところ、風の強い日が増えた。山から森に降りてくる風は、ごうごうと凄まじい音をたてながら、まだ芽吹きを迎えていない樹々の梢を大きく揺らして去っていく。
ミソサザイの鈴のような美しい声音が四方八方から聞こえる。振り仰げば、雲ひとつない群青色の空。あまりに青くて眩しくて、どこまでが夢でどこまでがうつつなのか、わからなくなる。
引用以上。
もう1カ所この著者らしいなと感じたところを引用いたします。
141〜142ページ 墓場まで
若いころから、墓と廃屋を見るのが好きだった。国内外問わず、観光名所を巡ることより、その国の、その街の墓地を一周すれば満足した。
人が住まなくなって放置されたままの家を見つければ、必ず足を止める。蔦に被われ、ひびが入った外壁。背の高い雑草が生えそろった屋根。割れた窓ガラスの奥、わずかに光の射す空間に散らばっている、黄ばんだ新聞紙や錆ついて原形をとどめていない空き缶。風雨にさらされ、切り裂かれたようになってぶら下がっている、色あせたカーテン……。
そこに流れた時間は永遠に止まっている。営まれてきた暮らしに終止符が打たれ、姿だけが朽ちてゆく風景に、私はたぶん、若いころから深く魅了されていたのだと思う。
僕はせいぜい幼年期におけるそのぐらいの年齢差は圧倒的だったろうなと想像するだけです、姉とは言え母親の目でもありましたでしょう、、すいません勝手なこと言ってます。あまりにも当たり前のように深く関わる、気持ちが手に取るようにわかる関係はどちらにも同期する…つまり嬉しい時も悲しい時も、残された方が全て引き受ける、と、勝手な想像です。歳 を とる とは つまり そういう こと な のでしょうか ? 先に逝ってしまった人の面影はその当時の記憶のまま感情とともに何度でも蘇ることが幸せなのか不幸なのかそんなことは当人でない限り誰もわからないような気がいたします。