ケーテ・コルヴィッツの肖像:志真斗美恵著:積文堂2006年6月第1版
時代背景の一端を知るために…
168〜169ページ
ロシア十月革命(※ 1917年11月7日)のもっともすぐれた記録者の1人といわれるライサ・ライスナーに、当時のベルリンをあざやかにとらえたルポルタージュ「1923年10月のベルリン」がある。
ベルリンは飢えている。毎日のようにひとは、路上で、市電のなかで、店々の前の列のなかで、衰弱しきって倒れるひとびとを助け起こしている。空腹の車掌が市電に乗務し、空腹の運転士が地下鉄のぶきみな闇を通って車輌を疾駆させ、空腹のひとが働き、空腹のひとが昼も夜も公園のなかを、また労働者街を、仕事もなくうろついている。
空腹がバスに乗り、2階にみちびく回り階段の上で目を閉じている…そのかたわらを広告ポスターが、ひとけのない広場が、警笛を鳴らす自動車が、酔ったように飛び去る。百貨店の華やかな売り場で空腹が見張りをしている。週200億マルクで… 1ポンドのパンがちょうど100億マルクするのに…かれは、熱心に良心的に勤務するのだ。百貨店にはほとんど買い手の影はないが、高価な品物のみちた建物はしかし清潔に、堂々と、金色に照り映えている…大銀行と同じように。痩せてとがった顔に、目の下の青いくまと、少々のおしろいと、お客向けの微笑とだけが目立つ少女が、10ドルの靴や30ドルの肩掛けのそばの売り場に立っていて、空腹のあまり気を失う。彼女は労働力を、昔の相場どおりのはしたがねで売っているのだが、全くドイツふうに良心的に、すごい速さで、100万の2乗・3乗になる金額を計算し、きれいな書体で勘定書に記入する。そして人員整理の期日が来れば、文句ひとついわずに、彼女は前掛けをはずすのだ…お客向けの微笑を顔から絶やすこともなしに。……最近の数ヶ月、子どもの死亡率は黒い統計図表の上で、急上昇している。……この秋、何千人もの労働者の子どもが死んだ。(野村修訳)引用以上。
(1932年の選挙で230議席、37.8%得票でナチスが第一党となる約10年近く前のドイツの状況はこんな風だったと言われればこの時代の持って行きどころのない閉塞状況もわかると言うものです)
次男ペーターを戦争で失いながら、不撓不屈の強靭な精神力で絵画、様々な技法による版画、彫像を作り続けます、次々に襲いかかる絶望がケーテをうちひさぎますがそのたびに、虐げられる人々と共にある気持が創作に向かわせます。
夫カールが亡くなった1940年、ケーテは、借りていたクロスター通りのアトリエを引き払い、そこにあったすべてのものを自宅に持ち帰った(274ページ)。ケーテの最後のリトグラフ「種を粉に挽いてはならない」の制作もここで行われたと書かれている。275ページの1941年末の日記を引用します→
「12月末のいま、まるで突然戦争が終わりそうにみえる。総統が指揮を引き継ぎ、ブラウホイッチは辞任した。1918年には、ルーデンドルフ指揮を放棄し、停戦を請わざるをえない、と表明した。軍隊の引きあげが始まり、それから革命がおこった。その前に、リヒャルト・デーメルが新聞にアピール(1918年1月22日)を発し、最後まで徹底的に戦闘を続けるように訴えた。当時、わたしは反論を書いた(1918年10月30日)。わたしは、ゲーテの「ヴィルヘルム・マイスターの修行時代」からとった「種を粉に挽いてはならない」という言葉でそれを結んだ。この言葉がくりかえされるなんて、なんとも奇妙なことだ。わたしは、もう一度同じテーマをとりあげる… 3度目になるのだが…決心をし、2 、3日前にハンスに言った。「これは、ともかく、わたしの遺言なのです。「種を粉に挽いてはならない」のです」それでわたしはもう一度同じテーマで描いた。仔馬ように好奇心にみちて外の空気を嗅ぎにでもでようとする少年たち、正真正銘のベルリンっ子たちが、1人の女によって引きもどされる。その女(年取った女)は、子どもらを自分のマントの下にかかえこみ、力ずくで放すものかと、腕を少年たちの上にいっぱいひろげている。「種を粉に挽いてはならない」…この要求は「二度と戦争をするな」とおなじく、あこがれのような願望ではなく、掟なのだ。命令なのだ。」
引用以上。
(この手紙が書かれた日、の1ヵ月以上前に次男ペーターと同じ名前の孫のペーターも死んでいたと後で知る!)
※276ページの当画像写真はあとで末尾に載せます、僕がアップに失敗したら… Googleで検索してみて下さい→ケーテ・コルヴィッツ 種を粉に挽いてはならない
立体ではなく平面上でメッセージがダイレクトに身体に響くこの作品を実現したケーテ、ケーテを襲った、これでもかと重なる絶望の悲しみのページの一番上のたった一枚に祈り込めたこの作品を本人は遺言と言い切る。彫像に引けを取らないどころか地から生えたような構成の力強さとたくましい若さを秘めた生命力、未来を信じる力をこの一枚に表現しきった、くず折れない、紛れもない遺言にただ圧倒されるばかりです。ケーテさん、そして案内してくださったびすこさんありがとうございます。
(1945年4月22日、ケーテ・コルヴィッツは77歳の生涯を終えた、戦争終結はその16日後の5月8日である、彼女の死は、新聞で告げられることもなく、中略…遠くから砲声の響くなか、参列者も十数人に過ぎなかったという
、、283ページ抜粋)
おまけ…ケーテと最期の日々を共にした孫娘のユッタが書いている「最後の日々」の中で語られているケーテとユッタの会話とこの本の著者のコメントを引用します
281 〜282ページ
ケーテ : いつか、ひとつの新しい理想が生まれるでしょう。そして、あらゆる戦争は終わりを告げるでしょう。コンラート・フェルディナンド・マイヤーの「王家の一族」からの詩句を思い出してごらんなさい。こういっているでしょう。そのためには、人はつらい仕事をしなければならないだろう。だが、それは、いつかは成し遂げられるだろう。この確信を抱いて、わたしは死ぬのです。
ユッタ : それは、平和主義ということかしら?
ケーテ : そうです。もしあなたが、平和主義ということを、たんなる反戦ということ以上に考えているならば。それは、ひとつの新しい理念、人々の友愛についての理念なのです。
ケーテ・コルヴィッツは、生涯かけて、「人々の友愛についての理念」を、作品の創造を通して追いもとめてきた。それは、彼女が虐げられた人びとに対する信頼を持ち続けたことを意味する。いつかかならず、人びとは平和主義を確立する、その力を持っていると彼女は考えていたのだ。引用以上。
ケーテ・コルヴィッツについて最初に読んだとき「種を粉に挽いてはならない」という言葉というか作品の題にどきりとしました。あとでこれがゲーテからの引用であること、そして元のドイツ語も分かったのですが、この金言の意味は、種が次世代で、粉に挽くということはそれを消費してしまうことを指すので、そんなことをしては未来が無い、と言いたいわけですね。
私がこの表現を見過ごせなかったのは、自分が農村に生まれ育ったことと関係があります。農家では収穫の何パーセントかを必ず翌年に蒔く種籾として取っておく、そしてそれには決して手を付けてはならない。もし食べてしまったら、来年の米はない。実際、飢饉の年にひもじさに耐えかねてそれを食べるということはあったようで、あれはもう何十年か前ですが、中東のどこかの国で餓死するよりはと麦の種まで食べ尽くしたというニュースを読んだことがあります。ああ、これでもうその村は終わりだ、と悲痛な気持ちでした。
戦いで子等を戦場に送り出した日本の親たち、お国のためと喜んで、なんて、本当になんという狂乱の中にいたことでしょう。子に死なれたら、それは国に尽くした息子を持ったことだから名誉と思わねばならない。こうして一般市民は悲惨の上にもさらに悲惨な生き方を強いられたのでした。あの戦争が間違っていたと決して政府が言わないのは、もし間違っていたというなら、戦死は犬死になるから、というのが右翼の主張だからだそうです。これは実はドイツでも長い間そうだったのですよ。こういうの、嘘の上塗りっていうんですね。