女性画家 10の叫び:堀尾真紀子著:岩波ジュニア新書2013年7月第1刷発行
10人の女性の画家を取り上げています。(僕が気になった4人の画家を取り上げます)
※「小倉遊亀」
小倉遊亀は晩年に…テレビでチラッと見たとき…こんなコメント発していました、、花ってこんなに綺麗だったんですね、、僕はその若々しい言い方にはっとしました。絵を描き続けて100歳を超えるその人が言う発言とは思えませんでしたから。100歳を超えてなお花の美しさに今更ながら驚く、たった今わかったように驚くことに驚きました。
36ページ
朝8時起床。般若心経を唱え、5つの「生活のしるべ」を読み上げることから、100歳を超えた遊亀の1日は始まるといいます。絵は毎日描くのか、という雑誌社の質問に、遊亀が答えています。「あたりまえや。絵を描くことは勉強であり、喜びであり、私のすべて。そうやろう」(「ミセス」文化出版局、1998年1月号)引用以上。
(鉛筆で1本の線を引いてみてください、ボールペンで1つの円を描いてみて下さい、それがその人の今を表す、その人だけの線であり円であると思います、その人の全てがそこに描き出される…僕はそう思います。絵描きが絵筆を離さないのはあっという間に逃げてしまう「あっ!」という瞬間はいつ訪れてくるかわからないからだと思いました→)
小倉遊亀自身が好きな家族像の1つに「径」(※こみち)という作品がありそれを描く契機になった瞬間について言及しています、、34ページ
夏の午後、家に若いご夫婦が、小さなお嬢さんをお連れになった。その帰る姿を見て、あっ、と思ったんです。この、あっ、と思うことが大事なんですよ」(京都新聞、1994年4月20日)引用以上。
※「フリーダ・カーロ」
この本の著者がかつてメキシコ旅行をした時、フリーダ・カーロの絵に出会い、衝撃を受けます、強い戸惑いとともに。その後、彼女が生涯を暮らした家を訪れます
43ページ
中略…
そして彼女が生涯を暮らした家がメキシコシティーからほど近い所にあることを知り、私は翌日、予定を変更し地図を片手にその館を探して歩きました。フリーダが暮らしたその家は「青い館」と呼ばれ、今はフリーダ・カーロ美術館となっていました。フリーダ・カーロは1907年、この青い館に、ドイツから移住した写真家を父に、メキシコ人を母に、6人姉妹の5番目として生まれました。勝ち気で活発な彼女に6歳のとき小児麻痺が襲います。病が癒えて細くなった片足に子供たちは「フリーダの棒足!」と容赦ない言葉を浴びせたそうです。フリーダのやり場のない憤りは、攻撃的な性格と、そしてその心に自己陶酔的な空想の世界を深めさせました。引用以上。
壮絶な紆余曲折の後メキシコの巨匠、画家ディエゴ・リベラと結ばれますが、奔放なディエゴは彼女の妹にまで手を出します。フリーダの作品はGoogleで検索していただくとして…著者がフリーダに惹かれる理由が、最後のパラグラフに書かれているような気がしましたので引用いたします。
61ページ
私の裡で、常に異様な光を放ち続けている、フリーダの小さな作品があります。それは青い館の1階、かつて居間であった彼女の作品展示室の片隅にある、真っ赤な切り口を見せたスイカの絵です。その深い不気味な赤は、スイカという植物の色であるよりも、フリーダの、そしてメキシコの、熱い血の色を連想させます。すでに死を予感した深い絶望と、今生きて在ることへの歓喜とが一体となった不思議な情念の色であるもありましょう。それは47年という彼女の生涯の数日前に描かれ、最後の作品となりました。その燃えるような赤い切り口に、フリーダはこう記しています。「ビバ・ラ・ビダ(生命万歳)!」
※「ケーテ・コルヴィッツ」
ケーテのブロンズの彫像「ピエタ」は、ドイツのフンボルト大学の隣にあるノイエ・ヴァッヘ、にあり、、、
103〜105ページ
この「ノイエ・ヴァッヘ」、直訳すれば新・衛兵所は1930年代、プロイセン政府の頃からの戦没者追悼所であったということです。それから60数年後の1993年、ドイツ再統一後の連邦政府は、ここを「戦争と暴力支配の犠牲者のための追悼所」とし、戦没兵士、一般市民の犠牲者をはじめ、ナチス・ドイツに殺されたユダヤ人など、第一次世界大戦以後の戦争や暴力で犠牲となったすべての人々を追悼の対象としました。改装時、この意を象徴するものとして選ばれたのは、ドイツを代表する女性彫刻家、ケーテ・コルヴィッツの作品でした。この時ケーテは既に亡くなっていました。ケーテの遺族は、平和主義者であった彼女を思い、ノイエ・ヴァッへの両側に建てられていたナポレオン戦争勝利の立役者2人の威風堂々たる立像を撤去するよう申し入れたといいます。政府は遺族の意思を尊重し、立像は今、大通りを挟んだ向かい側に移設されています。
建物の天井にぽっかり切り抜かれた窓は、ガラスもなく、当然、母子像は雨風や冬の寒さにさらされるはずです。これは戦争のただ中を生きた人々の苦しみを忘れないためということです。母子像はあるときは激しい、またあるときは穏やかな、1年の季節の移ろいを、沈黙のうちに受け止めています。その移ろいはまた、人間の光と影、残虐さや優しさ、喜びや悲しみでもありましょう。
そのすべてを静かに受容しているこの母子像に、わたしは人間の尊厳の輝きを見て、ただその空間に立ちつくしました。扉もないのに、そこはすぐ前の大通りとは隔絶された張りつめた時間が流れ、カラフルなリュックを背負ったジーンズ姿の若者たちも、黙って頭を垂れています。天窓からの光が、死んだ息子をかき抱く老いた母親に、深い陰翳をつくっていました。
※「メアリ・カサット」
182ページ
1912年、68才のカサットを、彼女の最初の評伝を書いたアーシル・セガールが訪ねています。そのときカサットはこんな思い出話をしています。娘時代の彼女が父親に、画家になりたいという希望を告げたとき、父親はきっぱりとこう答えたというのです。
「いっそのことお前に死なれた方がまだましだ」(アリソン・エフェクト著「世界の巨匠 カサット」松本透訳、岩波書店、1996年)
カサットはパリで成功をおさめた画家ですが、自分の祖国アメリカがなかなかその真価を認めたがらないことを悩んでいました。彼女は続けてこう回想しています。 「自らの人生は地方的偏狭さと父権的権威主義の数々の障壁を克服克服する闘いであったし、祖国アメリカにおいても脱出先のヨーロッパの美術界においても、そうした闘いであった」(前掲書)引用以上。
(パリのアカデミックなサロンに馴染めずにいたカサットに転機が訪れます、、)
192〜194ページ
サロンから手直しの要求を突きつけられて悩んでいたある日、彼女はパリのとある画廊のウインドウ越しに、1つの作品を目に止めます。それは踊り子の絵で有名なドガのパステル画でした。
「私はウインドウに近寄って、そこに鼻を押しつけ、彼の芸術から吸収できるすべてを吸収したものです。その絵は私の人生を変えてしまいました。私はそのとき、芸術を自分を見たいと思うように見るようになったのです」(「世界の巨匠 カサット」)
一方、ドガも、サロンに出品されたカサットの作品を見て、「自分と同じように感じる者」の存在をそこに見た、と言ったといいます。
カサットは、様々な可能性の萌芽が見え始めていたパリの美術界で、自分の進むべき道に迷っていました。その彼女を、サロンから完全に解放し自由にしたのは、ドガでした。印象派への仲間入りを誘いにドガが彼女のアトリエを訪れたとき、カサットとは迷わず新しい時代と共に生きることを決心します。
「私は喜んで応じました。私は因襲的な芸術が大嫌いだった。私は生きることを始めたのです」(前掲書)
パリ生まれのドガは、カサットより10歳年長でしたが、2人の生活環境は似通っていました。彼の父親も裕福な銀行家であり、ドはじめパリ大学で法律を学び、その後画家への道を歩み直しています。批判精神の鋭い教養人として、カサットと共感するものは多かったのです。一方で、ドガの激しやすい性格と、カサットの毅然とした態度は、ときとして周囲の者をはらはらさせるほどの口論に発展したといいます。しかし2人は、互いの作品に密かに畏敬の念をもっていました。1891年、カサットの最初の個展が開かれたとき、ドガはこう言ったといいます。「女性にこんなにうまくデッサンができるはずがない」と。それはカサットにとって、女性蔑視の旧弊からくる許せない言葉であると同時に、最高の褒め言葉でもあったでしょう。互いの芸術への尊重が、強固な絆となって、ドガとカサットのつき合いは生涯変わる事はありませんでした。引用以上。
小倉遊亀の「径」、私はハードカバーの本の表カバーにこの絵が使われているのを見たのが最初でした。わかめちゃんみたいな髪型の女の子が可愛くてクスリと笑ってしまいました。
メアリ・カサットの父親の言葉には驚きません。「地方的偏狭さと父権的権威主義の数々の障壁を克服克服する闘い」、とてもよく分かります。家の繁栄と継続が第一の関心事という親は今でもいると思います。欧州在住のイスラム教徒の中には娘が異教徒と恋愛したりすると、名誉の殺人とやらを平気で実行する人がいて、みんなその野蛮さを嘲りますが、日本にも野蛮人はたくさんいます。韓国では嫁いだ娘が離縁されて実家に戻って来ると、親が毒薬を渡す習慣があったそうです。家の恥になるから、死んでくれ。
メアリ・カサットの父親は子どもの教育には熱心だったと言いますが、その教育は家庭人としての教養を身につけさせることを目的としており、妻として母として恥ずかしくない女性に育てることが目的だったから、職業婦人などとんでもない話。まして、画家などというまともじゃない道を選んだ娘への怒りは激しかったでしょう。
メアリ・カサットではちょっと面白いことがあったんですよ。題は忘れましたがアメリカのソープオペラを見ていたら、「息子に遺したのはカサットの石油だった」という台詞が出てきたのです。???と思って、そのころ英語の勉強のために二か国語で録音してあったので、英語で聞いてみるとCassatt's oil、「カサットの油絵」のことで、これは大変な価値があり、継母と争わなかったのももっとも。しかしドラマの英語の翻訳というのも実に粗製乱造なんだなあ、と呆れました。