京の学塾(まなびや)山本読書室の世界:松田清著:京都新聞出版センター: 2019年12月初版発行
この本そのものは、山本読書室(後述)に関し京都新聞の約1年間にわたって掲載されたコラムが元になっているようです。そもそもそのコラムすら山本読書室の広大で奥が深い世界の史料群の一斑をうかがったにすぎない、との言葉が「はじめに」の文中に見えます。コラムの日にちを追って山本読書室の関連した人物像と書、植物の写生画と本草学(中国の薬物学)の資料、中国の歴史書から市井のトピックス、飢饉の状況写生画と添え書き、など貴重な資料が満載です。何より本に対する思い、学問の喜びが感じられました。実用学にとどまらず今で言う社会学と言いたい著述があちこちに見られます、偉そう。いかに本を大切にした思ったか、本に接する喜びは、気の遠くなるような時間をかけて大型本の写本に注力した人たちがいた、その一点だけを考えても察しがつこうというものです。集まった俊秀の知の探求に賭ける熱の一端が知られ、この本を通覧しただけでも清々しい気分になります。添えられた人物画も写生画も活写そのもので、時代を感じさせません。読書に没頭…温故知新、新奇なものに対し進取の気性を以って物事に当たる学者たちの情熱を感じます。文献を作っていった人たち、知見を伝えていった人たち、子孫たちへの伝達の使命とともに静かな自己探求でもあったろうと思いました。着々と迫る時代の足音を遠く近くに聞きながら内外の資料を漁り果敢に知見の点検、解明、更なる探求に挑戦していった若々しい息吹を感じます。あははまたしても偉そう。
20ページ
西本願寺宗主(しゅうしゅ)の学問掛(かかり)をしていた封山(ほうざん※山本封山)は天明3(1783)年、読書に専念するため医者となり、生涯仕官しなかった。その学風のもとに学塾読書室を開いた子の亡羊と子孫たちの豊かな学問文化をたずねよう。(引用以上)
と、始まります。
27ページ
門人帳によると、読書室には明治8(1875)年までの90年間に1600人余りの入門者があった。とあります。
(※本草学(中国の薬物学)者、地理学者あり、北方探検家あり、神代石(じんだいせき:石器)収集家あり、辞書の編纂家あり、学際などのなきが如しの学塾(まなびや)だったのですね)
65ページ
小野蘭山 写生画とともに自作自筆の詩が紹介されています
独り酒を酌(く)む。祝賀の書状があちこちから届く。書物いまだ成ならずあきれ果てるばかり。自分で杖を作るみじめな田舎者。
※ ↑この書に押印した印に記された文字の意味がまた面白い→自分はこの世で一番の愚か者。何十年に及ぶ山野跋渉、文献博捜も無駄骨に終わる博物学は大馬鹿者がやることだ。
(※読書室物産会ではしばしば奇石、鉱石、化石類を展示(68ページ)していたらしい。
同物産会にはシーボルト伝来のキャベツニ種を出品、との記載もある(70ページ))
山本亡羊の読書記は…
71ページ
折々読了した書物批評。嘉永6(1853)年頃、清書。和書百七十ニ部を俎上(そじょう)に。主な評語は、学力凡庸、不文拙作、記事陋俗(ろうぞく)、天下の醜書、発明する所なし。学術純粋、議論正大、才学兼備。(※辛辣直截明快!)
与春斎(:公卿・歌人千草有功(ちぐさありこと)の号)の比叡山最採歌という自筆の書が載っていて、コメントが添えられている…
90ページ
前略…ある日仲間と比叡山へ採集に。往復中亡羊から次々に教えられた和名を忘れまいと一草一木ごとに詠んだ歌が五十首。後日それぞれ友人に歌の天才、本草の天才と嘆息したという。
(※亡羊もすごいが有功も凄い。教えている者も教わる!)
象房趣意書草稿
107ページ
天保15(1844)年5月、竹山外史(未詳)が老後の楽しみに象の形の茶房を都の傍らに建てようとした図入りの募金趣意書。西向きに鼻から尾まで7間。右前足から階段を3廻りして茶室に至る。南北に窓あり。
(※象の形をした茶室!象の前足の後ろから人間が入る図が描いてある!まじでこんなことを考える人がいたとは驚きでよくもまぁこんな物好きなアイディアまで残しておいたものだなぁと思いました、というか、奇人変人を排除しない、むしろ、希少価値と捉え、積極的に評価している、珍しい魚、動物に至るまで、貪欲なの知的欲求?!)
(※その象の図の隣の図に、松毬(まつかさ)の写生が載せてありました。作者の睦之(むつゆき)の亡羊古希の贈品、とあり、その兄の佐之(すけゆき)はシーボルトの滞在中、その日本植物研究を最後まで支えた最大の功労者、とあります。読書室ゆかりの群像の広がりの一端だと思いました)
※後半のほうに読書室資料拾遺十選、があり、徳川慶喜や和宮の新政府軍への哀訴状、及びそれに対する回答側の草稿などをパラパラページをめくってゆくと、歴史に疎い素人の僕にさへその緊張感が伝わって参ります
この後半部分には資料集に絡む時代背景とともに、読書室の山本復一(西南戦争中に右大臣岩倉具視に秘書として仕えていた)が岩倉の破棄命令に従わず!保存していたといういきさつも記されています。でも、、明治維新前後のそうそうたる人物たちの出来事を裏付ける貴重な資料集も書簡集も僕には猫に小判、、ご興味ある方は内容の読解付きですのでご一読をお勧めします。
あとがきの172ページの冒頭にこう書かれていました…山本読書室資料の件数は総計7517件という膨大な数に達した。
とありました。資料は残ったのではない…体を張って残したのだと思いました。
(この本はクレマチスさんがKBCのLINEトークに紹介してくれました、ありがとうございました、ご紹介なくば一生目にする事はなかったと思います)
先ほど昭和5年つまり90年前の手紙の書き方という和綴じの本を図書館のリサイクル棚にあったのでもらってきました、これがなかなかよくできていましてこれならこの本の書体を見本に筆の練習をしてもいいなと思った位です、これも1種の写本と言えば写本、多分写本をすると自分の癖がわかるのでこれはこれで大変興味のあるものだと思います、ちょっと意味が違っているかもしれません…今日はすでにニ合ばかり飲んだので少し酔いが回りました。たまに毛色の違う本を読むと大変刺激になりますね、イモヅルシキ、もう少し続けようかなと思いました。どんな駄文にもコメントくださるびすこさん、ありがとうございます…フォーラムのアップ少し休み休みになります…僕自身アップアップしておりますので…あはは🤣
このブログ、最初にさっと目を通して、いちまるさん、いったいどこでこんな本を見つけたのだろうと思ったら、あら、狩谷棭斎の後継者をもって任ずる(いや、別にご本人の口からそう聞いたわけじゃないけど)クレマチスさんからの紹介。こういう考証学者の存在を知ったのは、鴎外の「澁江抽齋」のおかげです。(狩谷棭斎は伊沢 蘭軒と縁戚関係にあったそうで、江戸時代の超インテリのコミュニティを垣間見る感じ。)
写本って面白そうですよね。私よく、遠い昔に生まれていたら、知力・体力に劣る女として機織りなら生業にできたかな、だけどそれより写本をやりたかったな、と思うことがあります。でも当時は女に写本など許されなかったのでしょうね。欧州では写本に従事するのは専ら修道士でした。例外的に、知性に優れた権門出身の修道女にも写本が許されたと聞いたことがあります。
ブログで言及されている「本草学」に関連して、ごく最近の経験をお喋りしちゃおう。先月末の休暇中にアルザスのコルマールという町の蚤の市で古本を何冊か買いました。最初に飛びついたのが「家庭の健康百科」という本で、これは薬草について絵付きでその効能・処方等を説明しています。文章はむずかしくありません。しばらくフランス語とご無沙汰していたので、これでちょっとまた勉強しよう。ドイツで最初にプレゼントとしてもらった本は「ドイツの薬草」っていう図鑑で、これはほとんどが写真でしたけど、それでもドイツ語の勉強になりました。