終OWARI 大往生その後:永六輔著:朝日新聞社1996年5月刊
岡島書店の100円特売本です。この本の発売当時48歳の僕は買ってもよくわからなかったと思う。70過ぎの僕が読んで分かった気になる。とても危険だと思う。わかる必要がないと思ったからだ。楽しければそれでいい、、願わくば死ぬまで。甥っ子たちにとやかくいろいろ要求しない理由でもある…歳とったことのない現役連中に分かれ、理解しろという方が無理、僕自身よくわかっていないことをどうわかれ、というのだ、この間も聞こえよがしにそう言ってやった、あはは。この本を読みながら5、6回笑った、、わかりにくいところが笑えた。あとがきから引用します。
259〜261ページ
「永さん、私は死にたくないんですよ。あの世に行かないで済む方法は、ありませんか?」
「誰だって死ぬのはいやですよ。でも死にます」
「死にたくないの」
「ご主人は?」
「とっくの昔にあの世に行っています」
「じゃぁ、こう考えましょう。この世からあの世に行くの淋しいけれど、あの世に行けばご主人が待っていてくれるんですよ」
「だから行きたくないの ! 」
〇
さんざん泣かされた旦那のいるところに行きたくないという老婆なのである。
「生きている間に苦労をかけられて、死んでまた、あの苦労は二度といやなんだよ」
ごもっともな話だ。
しかし、ここで引き下がれないから寺の子も踏んばる。
「お婆ちゃん、いやな旦那かもしれないけれど、ときには楽しいことだってあったでしょう、苦労ばかりじゃないでしょう」
それは、若い時にちょっとは」
「そこですよ、恨んでばっかりいないで、許してやれば旦那だってホッとします」
「あいつが、そんなこと ! 」
「許してやるんです。いいですか、そのときにお婆ちゃん、お婆ちゃんが仏様になるんです。旦那が拝みます」
「ほんとに ? 」
僕は逃げるようにその場を去るしかなかった。引用以上。
(この話のどこがおかしいかというと…思わぬ老婆の純真さに接し、したり顔の我が身の置き所がなくなりその場を去るそのおかしさです、って解説すると面白くなくなりますね、解説なしでも面白いところをつまみ食いするように引用していきます、こんなに面白い本とは思いませんでした)
23 〜26ページ
「朝起きて
夕に顔は変わらねど
何時の間にやら
年は寄りけり
○
世の中は
豆で四角で柔かで
豆腐のように
変わらぬぞよし
○
楽しみは
後に柱 前に酒
左右に女
ふところに金
○
57〜59ページ
「がんばって、くたぶれちゃいけないんだ。
くたぶれないようにがんばらなきゃ」
○
「何かしてないとね。
何もしないでただ生きてるってのはむずかしいんだよ」
○
「おいくつですか」
六十三…。
私、六十九なんです。
シルバーシートゆずってくださいな」
○
老人になった時に、
若者に見せるべきものを持っているか。
若者に語るべきものを持っているか。
若者に伝えるべきものを持っているか。
このうち、ひとつでも持っていればいいんです」
(※ぼくが伝えたいこと…長生きするのも芸のうち)
○
「名古屋の局のアナウンサーが言ってたんだけど、きんサンぎんサンに収入をどうしてるか聞いたら、老後のために貯金してるんだって」
(はい…次の引用で終わりです、終わりはいつだって予期せぬ出会い)
188ページ
あなたは呼吸のベテランですか…
「赤ちゃんの産声は息を吐いています。
人間は死ぬときに息を引きとる、つまり、吸って終わりますから、その間を吐いては吸っている、それが呼吸なんです」
日本でも33回忌で上がりという説もありますので、30年は一区切りなんでしょうか。この本の中に確か…人間は2度死ぬ…死んだ時と忘れられた時…とありました。ふんふんなるほどという感想です。なんたって老年期を生きるのは初体験なので面白いと思わなきゃ損かななんて考えております😉
永六輔の本については聞いたことがあります。
日本でですけど、二人の老婦人が立ち話している傍を通ると。
「あなたおいくつ?」「87歳です」「まあ、お若い、私92歳になったのよ」
いい世の中というべきでしょうか。
きんサンぎんサンじゃないけど、私の母も、80歳過ぎていつも「老後には」ってだいぶ先のことのように話していました。私この人のそばに埋められるのゼッタイ厭。死んでもこき使われ搾取されるから。
「ワシと一緒にドイツに」と亭主は言いますが、これもうるさい義姉などがそばにいるから厭。それにドイツじゃ30年後には墓(すべて公営)から掘りだされて、倉庫のシャレコウベの山に放り投げられる。倉庫もいっぱいになりそうだから、いずれ道路建設の骨材ですね。でも私、骨粗鬆症だから骨材の品質を落とすと思う。