エカチェリーナ大帝(No.0119の続き)
早速引用で恐縮です…下巻80〜81ページ(以下のページ表示は全て下巻)…エカチェリーナと啓蒙思想…
18世紀半ば、ほとんどのヨーロッパ人は相変わらずロシアを、文化的に遅れた半アジア国家とみなしていた。エカチェリーナはなんとしてもこれを変えてみせるつもりだった。18世紀の知的・芸術的生活はフランスに支配されていた。シュテッティンでは家庭教師がフランス語をエカチェリーナの第二の言語とした。敵のなかにひとり孤立していた大公女としての16年のあいだに、エカチェリーナはヨーロッパ啓蒙思想の偉人たちの著作を読みあさった…中略…
1763年10月、即位の15ヶ月後、エカチェリーナは初めてヴォルテールに手紙を書き、自分はあなたの熱心な弟子ですと告げた。「私が所有する文体も合理的思考力も、それがなんであれ、すべてはヴォルテールを読むことを通じて身につけられたのです」
(のちにお互い格好の文通相手となるヴォルテールについての記述がありますので引き続き引用します、1758年(ヴォルテール64歳)
安住の地を求めて住居を移します)…81ページ…
そこはより安全な天国に見えた。フェルネの城はフランス領だが、国境線は目と鼻の先だ。ジュネーヴは3マイル先、パリとベルサイユからは300マイル離れている。たとえフランスの当局が再びヴォルテールを悩ませようとしても、1時間も移動すれば、国境を越えてジュネーブにもどれる。ジュネーヴにはまだ多くの称讃者がいたし、当時ヴォルテールの小説「カンディード」を印刷していた出版社の本拠地でもあった。
ヴォルテールは怠惰に暮らすためにこの新居に移ったのではなかった。それどころか、フェルネは激しい知的闘争の強化を指揮するのに都合のよい場所だと考えた。啓蒙思想の哲学戦争は本格化し、ルイ15世はヴォルテールのパリ帰還を禁じた。文人ヴォルテールはぜひとも反撃に出たかった。フェルネはその哲学的、知的、政治的、社会的な連続射撃の発射地となった。書籍、パンフレット、歴史書、伝記、戯曲、小説、論文、詩、そして5万通以上の書翰が執筆され、現在98巻に収録されている。7年戦争は終了し、フランスはカナダとインドの両方をイギリスに奪われた。ヴォルテールは戦争を「大いなる幻影」と呼んで告発することで、傷に塩をすりこんだ。「戦勝国は被征服国の戦利品から利を得ることは決してない。それらはすべての支払いをする。その軍隊が成功したときも、敗北した時と同じほどに苦しむ。だれが勝とうと人類は敗北する」。ヴォルテールはキリスト教、聖書、カトリック教会に論争の一斉射撃を食らわせた。ある時点で、イエスをたぶらかされた変人と考えた。80歳の時、5月の早朝に起き出し、日の出を見るために友人と山に登った。山頂で赤と金の壮麗なるパノラマに圧倒され、ひざまずいて口にした。「おお、全能なる神よ、わたしは信じます」。それから立ちあがると友人に言った。「(神の)ご子息とそのお母上のことはまた別の話だ!」…中略…
83〜84ページ
ヴォルテールは活動を知的な事柄のみに限っていたわけではない。1762年以降の数年間は「カラスの男」だった。事件の背景にあったのはフランスにおけるプロテスタント迫害である。プロテスタントは公職に就けなかった。カトリック司祭によって結ばれたのではない夫婦は罪の暮らしを送っていると考えられ、その子供は非嫡出子と見なされた。フランス南部及び南西部では、この種の法律が無慈悲に適用された。
1762年3月、ヴォルテールは64歳のユグノー教徒でトゥールーズのリネン商、ジャン・カラスが拷問を受け、処刑されたことを知る。カラスの長男は鬱病にかかり、実家で自殺した。法律に従って、自殺者の遺骸は裸で往来を引きずりまわされ、泥と石を投げつけられて吊される。これを知っていた父親のジャンは、家族を説得し、口裏を合わせて自然死と届け出た。しかし、警察は息子の首のまわりに縄のあとを見つけ、息子のカトリック改宗を阻止するために、カラスが息子を殺害したのだと告発する。高等法院はカラスを拷問にかけて、自白させるよう命じた。カラスは拷問台にかけられ、両足両腕と両脚が関節窩から引き抜かれた。死の苦しみのなかで、カラスは息子の死は自殺だと認めた。これは当局が望んでいた自白ではなかった。当局が要求したのは、殺人の告白だった。15パイントの水が喉に流しこまれた。それでもカラスは無実を訴えた。さらに15パイントを無理やり飲まされる。カラスは自分は溺死しかけていると悟ったが、それでも無実を叫び続け、ついにトゥールーズの大聖堂前広場で十字架にかけられた。死刑執行人が重い鉄棒を手にとり、その四肢をふたつに砕いた。老人はなおも無実を主張。首を絞められ息絶えた。
カラスの6人の子供の末子、ドナ・カラスがフェルネを訪れ、ヴォルテールに亡き父の無実を擁護するよう頼んだ。ヴォルテールは残虐行為に身震いし、激怒して、犠牲者の法的復権にとりかかる。1762年から65年にかけての3年間、ヴォルテールは法律家を雇い、ヨーロッパの世論を動員した。1763年夏には「寛容論」を執筆。いまやキリスト教徒による他のキリスト教徒の迫害は、キリスト教初期のローマによるキリスト教徒迫害をしのぐと論じた。迫害を受けているキリスト教徒は、「神の愛のために、吊され、水責めにされ、車裂きにされ、火あぶりにされている」。最終的に、国王主催の王国最高国務会議に訴え出る。この会議でジャン・カラスは死後に無実の罪を晴らされ、その名誉が回復された。引用以上。(ヴォルテール熱い人ですね)
ところでヴォルテールを吸収し続けたエカチェリーナが、心身ともに語らい続けた寵臣たちとは何?
結局寵臣制度は、、、
256〜257ページ
こういったお飾りのような青年たちにエカチェリーナは何を求めたのだろうか? 本人は愛だとほのめかしている。「回想録」には「愛なしでは、一日たりとて生きていけなかった」と書いた。だが、愛にはさまざまな形がある。エカチェリーナは性愛だけを意味していたのではなかった。仲間づき合い、温かさ、支え、知性、可能であればユーモア。そしてまた尊敬も…女帝におのずから捧げられる敬意だけでなく、男が魅力的な女に贈る称讃も。齢を重ねるにつれて、いまでも男性を魅了し、その愛を引き止めておけるという保証を求めるようになった。ロマンチストであると同時にリアリストでもあり、自分が君主であるがゆえに、青年たちは自分のとは異なる理由と目標のために、こちらに引き寄せられてくるのだという事実を理解し、受け容れていた。青年たちを魅了するのに、愛と肉欲はわずかの役割しか果たさなかった。青年たちを動機づけていたのは、野心、特権と富と、そしていくつかの例では権力への欲望だった。エカチェリーナにはそれがわかっていた。青年たちに単なる性的な結びつきとは別のものを求めた。青年たちが自分といることを楽しんでいるというしるしを見せ、自分の視点を理解しようとし、自分の知性と経験の教えをよろこんで受け、自分のユーモアのセンスを評価し、自分を笑わせてくれることを求めた。情事の肉体的な側面は、短期間の気晴らししか提供しなかった。愛人を追い払うとき、それは男らしさに欠けたからではなく、だが退屈させたからだった。夜を過ごした相手と翌朝、話が通じないと気づくには、女帝である必要はなかった。
青春時代、そして若い女だったときの来し方が、寵臣たちとの関係を説明する一助になる。エカチェリーナは外国に連れてこられた14歳の異邦人だった。16歳で結婚した相手の若者は心理的な障害をもち、肉体的にはあばたで損われていた。婚姻の床のなかで9年間、この男から手を触れられずに過ごした。家族はいなかった。両親は世を去った。3人の子供は誕生の時に連れ去られた。若さの幻想を引き延ばす方法はいくらでもある。だが。エカチェリーナの時代にはなかった。エカチェリーナは若さを青年たちの…必要とあれば、見せかけられた…愛情と同一視することによって、自分の若さを保とうとした。…中略…
エカチェリーナには12人の愛人がいた。同時代人に衝撃をあたえたのは12と言う数ではなく、本人とその後半生の寵臣との間の年齢差だった。エカチェリーナは説明をでっちあげた。青年たちに知的な話し相手に育てあげたいと考えている「生徒」いうレッテルを貼った。青年が完全に期待に添えないときでも…その青年が新たなヴォルテールやディドロはもちろん、新たなポチョムキンにだってなるとは言わなかった…少なくとも、青年たちが将来、帝国の行政に役割を果たすための訓練に手を貸しているのだと言うことはできた。
若い寵臣たちが、寵臣として使われるのを許されるために…具体的に言えば、愛していない相手との性的な関係に服従するために、どれほど厳しい審査に晒されなければならなかったのか? これは18世紀だけの問いかけではないし、若い男性だけに投げかけられると問いかけでもない。女性はつねに、愛していない男との性的な関係に従わされてきた。肉体的な力、家族による取り決め以外に、女たちにはしばしば、エカチェリーナの青年たちがもっていたのと同じような理由があった。野心、富への欲望、ある種の形の権力、そして将来の独立の可能性。エカチェリーナの青年たちは、つねに自分ひとりで寵臣になることを求めたわけではない。下級貴族からのし上がり、女帝の善意が自分の上にも注ぐことを期待する親類たちからけしかけられていることも多かった。寵臣の地位が広く不道徳と考えられていたわけでもなかった。事実、エカチェリーナの寵臣のひとりとして、家族が警告するように指をあげて「やめなさい、それは間違っている!」と言った例はない。…中略…「回想録では、ロシア宮廷のような舞台で、誘惑に抵抗する難しさを述べた。エカチェリーナがだれで、どこからきたかが、男性との関係を決定するのに手を貸した。イギリスのエリザベス一世のように、強力な王の娘だったとしたら…エリザベスのように処女性と節制とを、有力な男たちを魅了し、操るための賞品として使うことができたとしたら…ヨーロッパ王政史におけるこの卓越したふたりの女性の生涯は、もっと似たものになっていたかもしれない。引用以上。
(ロシア法典の改定の試み、ロシア各地への訪問を通じ民衆の支持と貴族の利権と因習をかぎ分け状況把握を怠りなく押しも押されぬロシアの女帝となったエカチェリーナのかつての恋人スタニスワフ・ポニャトフスキを自らの手によってポーランドの王に据える頃にはエカチェリーナの権威はより一層強固になりつつありプロイセンのフリートリヒ(プロイセン王フリードリヒ2世)とも通じ手腕を発揮していきます)
(男の未練について…個人的にちょっと興味があった箇所→
かつての恋人ポニャトフスキの未練です、男の未練、こんな僕でも長生きしてると卑近な例で見てきました。男は媚薬注射の1本もしたつもりで、いや、不遜にも征服した位の気持ちでいる…女はユンケル皇帝液?を1本飲んだ位の気分で用済み空瓶もろとも捨てる…あはは)
(エカチェリーナは若い時から節目節目で大切な人に対してはきちんと説明をしてゆく、ごまかさず誠実である、ここポイントだと思います、官吏に見られる加点主義で周囲からの点数を稼ぎ、または減点主義?の失敗による減点を最小限に抑える…そんなこと当たり前と言うなかれ、黙々と実績を積み重ねた実績にものを言わせる、細心にして大胆、リアリストはお役人ならずともそうする…ですかね、分析が知ったかぶり過ぎ偉そう😅
カトリックからロシア正教に改宗する時、父親に対して、、心を入れ替えるわけではない、教えはほとんど変わらないという説明を何度も何度もしています…誠実でありたい人に対しては誠実であり続ける、果たして本当か、新しい寵臣(皇帝の位にある公認の愛人:242ページ)ポチョムキンに対して…)ページが前後しますが→
203ページ
ポチョムキンはエカチェリーナの愛人となり…そしてすぐに極端に嫉妬深くなった。不運な夫ピョートルのとなりに横たわったのを別にすれば、エカチェリーナはポチョムキンの前に4人の男…サルトゥイコフ、ポニャトフスキ、オルロフ、ヴァシーリチコフ…と寝た。以前の愛人たちの存在、他の男の性愛の相手として心の中に描くエカチェリーナのイメージが、ポチョムキンを苦しめた。これまでに愛人を15人作っただろう、と女帝を責め立てる。エカチェリーナはポチョムキンの気を鎮めようとして。2月21日にアパルトマンにこもり、「嘘いつわりのない告白」と題した手紙を書いて、これまでのロマンス体験を語った。全能の女王が、これまでの人生のおこないを新しい愛人に許してもらおうと努力する…王侯の告白文書の記録のなかでも、他に類のない手紙である。
過去の人生を詳細に語るにあたり、エカチェリーナは結婚の事情から始め、結婚後の情事で経験した辛い失望を語った。真摯で、ほとんど嘆願に近い弁解口調は、この女がポチョムキンをいかに欲していたか、その必死の思いを暴き出す。まず初めに、エリザヴェータ帝が大公女が帝位の継承者を作れずにいるのを不安に思った結果として、最初の情事が生まれたと説明する。女帝とマリア・チョグローコフから圧力をかけられて、セルゲイ・サルトゥイコフを、「おもにサルトゥイコフが見せた明らかな好意ゆえに」選んだことを認める。そのあとサルトゥイコフは「軽率に振舞ったために」追いやられた。…
1年間大いなる悲しみのなかで過ごしたあと、現在のポーランド国王(スタニスワフ・ポニャトフスキ)がやってきました。私はこの殿方に気がつきませんでしたが、親切な方がたが…この人が存在し、その瞳は並ぶものがないほどに美しく、その目を(自分の鼻から先も見えないほどの近眼だったのですが)ひとつの方向に、他の方向よりもたびたび向けていることを、私に無理やり気づかせたのです。この方が愛し、愛されたのは3年間の… .後略…引用以上…
とまぁ切々と告白が続き…
205ページ
…中略…
さあ騎士さま、こう告白したからには、わが罪を許していただけると期待してもよろしいでしょうか? 罪の数が15でなくその3分の1しかないのをご覧になってご満足いただけるでしょう。最初のひとり(サルトゥイコフ)は必要から、そして4番目(ヴァシーリチコフ)は絶望から選ばれたのであり、私の心のなかではいかなる軽薄さのせいでもありません。他の3人(ポニャトフスキ、オルロフ、ポチョムキン自身)は、よくご覧になれば、肉欲に溺れた結果でないことは神がご存知です。私にはその傾向はわずかもなく、若いときに、運命が愛することのできる夫をあたえてくれていれば、永遠に夫に忠実でいたでしょう。問題は、私の心がたとえ1時間であっても愛なしでいるのを嫌っていることなのです…私を永遠に自分のものにしておきたいのなら、愛と同じほどに友情をお見せなさい。そしてなににもまして、私を愛し、私に真実を語ってください…(引用以上)だってさ、、、。
ものはついで…
208ページ…いきなりこの物語が恋愛小説になったかと勘違いしてしまいます…
ポチョムキン宛の手紙… 208ページ
なにがあなたを引き止めていたのか、わけがわかりません。しかも、こちらにおいでになりませんでした。お願いです。恐がらないでください。私たちはあまりにも賢すぎます。私は横になったかと思うとすぐにまた起き上がり、服を着て、あなたを待つために図書館の扉までいきました。そこで2時間、すきま風に吹かれながら待っていたのです。真夜中になる前に…私は悲しみのためにベッドにもどって横になり、あなたのおかげで…眠れぬ一夜を…過ごしたのです。なにがあろうとも、あなたに会いたいし、会わなければならないのです!
ポチョムキンはあらゆる人間に嫉妬し、エカチェリーナがだれかほかの人間のことを気にかけるとかっとなった。ある晩、劇場で、女帝がグレゴリー・オルコフにし親しげに言葉をかけたときには、立ちあがると、猛烈な勢いで皇室専用の桟敷を飛び出していった。エカチェリーナは、自分の元愛人には節度をもって接するように注意した。
(おお、相思相愛😅😁)
216ページ
ロシアの歴史がすべてのなかで最強の証拠を提供する。肉体的な情熱の炎が弱まったあと、エカチェリーナとグレゴリー・ポチョムキンは、周囲の人間にはときに理解不能の特別な関係を続けた。結婚はひとつの説明となるだろう。秘密結婚をしていて、いまだにたがいのことを深く心にかけながらも、生活の形について同意していたのであれば、それはポチョムキンがその残りの生涯に、エカチェリーナ治世下のロシアで振るった唯一無二の権力の説明となるだろう。この期間… 15年以上…ポチョムキンはエカチェリーナからの献身的な忠誠と愛情を受け取り、それを返した。これは、どちらもが別の人間と寝ているときであっても真実だった。引用以上。
(公然の秘密?の夫婦ともみなされていたポチョムキンの戦場における勇猛果敢奇矯は省略します、中途半端な引用は舌足らずで誤解を招きそうなので…本書にあたってください、僕がポチョムキンに関する記述を読んで感じた事は…
刎頸の友(ふんけいのとも)、お互い知悉する胸の内、男女の間にあってはおかしいか? そう思う方がおかしい…あはは。エカチェリーナとポチョムキン補いあう人間の信頼関係のこの本の著者の分析、アラが見つけにくい、ちょっと持ち上げすぎ、もりすぎ…なんて言うとこちらの方が浅薄に見えてきそうなのでこの件これでおしまい)
(ロシア最大のツァーリの彫像(ピョートル大帝騎馬像)制作の指揮、エルミタージュ(隠れ家を意味するらしい、346ページ)美術館の膨大な収蔵品収集がエカチェリーナの功績、死ぬまで孫たちや係累の結婚による先々の統治に思いを巡らせて、あるいは画策、さらには進展、あるいはもくろみ違いに執心していた、さらにフランス革命で何がなされたかをもたらされる情報で知り、啓蒙思想の危険な一面についても心を砕いていた…と述べて後の記述も省略します)
(359ページから歴史は大きく展開する…フランス革命…ナポレオンの登場…以下省略。フランス革命の残虐は辛いので割愛しますが…ギロチンについての現代的な考察?が参考になるのではないかとおまけとして引用いたします(ちなみにフランスでは、1977年まで処刑はギロチンでおこなわれた。4年後、フランスは死刑を廃止した) →
376ページ…
ギロチンが斧や縄、電気椅子、銃殺隊、致死注射よりも人間的かどうかは、政治的、道徳的問題であると同時に医学的な問題でもある。…中略…ギロチンによる死は、本当に痛みを感じないほど、一瞬にして訪れるのだろうか? そうは考えない人もいる。刃は首と脊髄をすばやく切断するので、脳がおさまっている頭には比較的小さな影響しかあたえない、したがって、すぐに意識が失われるわけではない、というのがその論旨である。それが事実ならば、犠牲者の一部はなにが起きているのかを認識していたと考えるべきなのか? ギロチン処刑の目撃者は、まばたきや眼球、唇、口の動きを記録している。最近では1956年に、ギロチンで処刑された囚人の切断された頭で実験をした解剖学者が、頭が名前を呼ぶ声や頬をつねられた痛みに反応して見えるのは、単なる筋肉の痙攣、自動的な反射行動であると説明している。つまり知的な認識は関わっていない。たしかに、脊髄にかかる衝撃と脳の血圧の急激かつ著しい低下は、一瞬ではないにしても急激に意識を失わせるだろう。だが、その短い時間のあいだ、意識はあるのか?
1905年6月、著名なフランス人医師が、ランギーユという名の囚人の切断されたばかりの頭を使って、実験することを許された。医師はこう報告している。「頭を切る落とされた直後…痙攣性の動きは停止した…ここで、私は大きな声で鋭く「ランギーユ!」と呼びかけた。きわめてはっきりした正常な動きで、まぶたがゆっくりとあがるのが見られた…次に、ランギーユの目はたしかに私の目を見つめ、どこが瞳孔が焦点を合わせた…私が相手にしているのは、紛れもなく生きた人間の目だった。それは私を見つめていた…数秒後、まぶたは閉じられた…私はもう一度、呼びかけた。するともう一度、まぶたがあがり、生きた人間の視線が、おそらく最初のときよりもさらに鋭く、私の目を見つめた。そのあと、ふたたびまぶたが閉じ…「そして」それ以上の動きはなかった」
もしも何らかの意識があったのなら、切断された頭は、ルイ16世、マリ・アントワネット、ジョルジュ・ダントン、マクシミリアン・.ロベスピエールその他、断頭台で命を落とした何万人もの人間が発見したなにかを経験したのかもしれない。私たちはそれを知ることはできない。引用以上。
(上のおまけでおしまいとはいかにもこの女帝にふさわしくしくないので最後のページを引用いたします。1796年11月6日の夜発作を起こしてから36時間後に亡くなったエカチェリーナが1994年64歳の時にグリムに書いた手紙を引用いたします) →
414ページ…
一昨日、2月9日は、私の母のモスクワ到着50周年にあたりました。いまのサンクトペテルブルグに、覚えている人は10人いるかどうか。まだベッコイがいます。視力が衰え、老いぼれて、もうろくし、若いカップルにピョートル大帝を覚えているかどうか尋ねています…昔からの小間使いがひとり。なにもかも忘れてしまうのですが、いまでもそばにおいています。こういったことは老年の証拠ですし、私もそのひとりです。けれども、それにもかかわらず、私は5歳の子供のように目隠し鬼が好きですし、孫も含めて、若い人たちは、私が一緒に遊ぶときほど楽しいことはないというのです。そして私はいまでも、笑うのが大好きです。
それはだれもエカチェリーナ本人さえも、14歳で雪を越え、ロシアに向けて出発したときには、想像だにしていなかった長くすばらしい旅路だった。引用以上
(僕がこの800ページぐらいにわたる本を読んでの感想は…男がやっていることくらい、女もできる、ということでした…閨房の心身共の語らいの中からあるいはまた日々の暮らしの仕草所作ユーモアなどなどから相手の人となり、知力を理解してタッグを組んでいく…組織を動かすものの基本、(それが人間をお互いに知る数あるひとつの手段としてという意味です)だと思いました、プーチン習近平金正恩連中がどんなユーモアを飛ばしているのか盗み聞きしたいものです。考えられる今とるべき行動を決定するときに必要なものは余裕ではないかと思ったからです。心の余裕…人を受け入れる余裕自分を見つめる余裕…余裕って大切だな…なんてありきたりな結論を引っ張り出し尻切れトンボ、これまた僕らしいですねあはは。あ、ついでに…人はその人らしくしか生きられないと言ってしまおう、独り言😅😉)
帝政ロシアの時代にウクライナ東部とクリミア半島をロシア領にしたエカテリーナ女帝を敬愛し、いびつで独特な歴史観を構築してきました、とバッサリ断定されているプーチンに関する記述を最近ウェブ上のどこかでみました、見間違いかも。時代錯誤は誰にもどこでもいつでも発生する可能性がいうことでしょうか、、ここまでお読みいただきありがとうございました。
(先ほどシンフォニーヒルズでワクチンの3回目打ってきた事でもあるし…今日も早寝です。寝るほど楽はなかりけり^_^
立ち上げた野草の会…散策するには絶好の季節になったというのにほったらかしなので今度の日曜に八重桜見に来てくださいと呼びかけてみました、どうなることやら、というか、こーやって僕の家の使い途を増やしていけば、ちょっとの隙に遊べる、グッドアイデア💡)
地名からいろいろなことが掘り起こされるものですね、人名からも…マリア。今ふと…凍てつく大地に暮らす人の気性について…つまりシベリアの大地が育む気性→大地、、がテーマの小説もたくさんありそうですね…コメントありがとうございます♪