< 青柳瑞穂の生涯 >
副題:真贋のあわいに
青柳いづみこ著:新潮社2000年9月刊
緑陰 みどりかげ 顔にそよかぜ 頁繰る、、、昨日、兄と青戸で会食した後で帰宅途中桜並木がいい塩梅に日陰を作っていて涼しかったので所々に置いてある石の柱がちょうど良いイスみたいになっているのをいいことにそこに腰掛け本を広げた。30ページばかりも読んだろうか…青柳瑞穂の印象がだいぶ違ってきた(ささやかな日本発掘、に書いてあった京都に嫁入りした人は2番目の奥さんのつれ子の女性でした。瑞穂の最初の奥さんの子供である茂はいづみこの父。つまり青柳瑞穂は青柳いずみこ、のおじいさんです)。
(おじいさんからすれば、かわいい孫の所業ではなく冷静な他人の著作と言うかもしれないなと思いました、あ、ま、そんな歳でもないか、いづみこさん)
住まいの奥の部屋に20代とおぼしき愛人も連れ込んでいたと、早々とばらされています。さらに30ページの最後のパラグラフで…いわば瑞穂は、世の男が悪い女に迷うように、乾山に迷ったのだ。京都にさえ行かなかったら、瑞穂のコレクションはいつまでも、私の好きな無釉陶器のままだったろう。
、、、と、自分の孫にあっさりバッサリ断言されていました(瑞穂も買った、多くの乾山の陶器は後に偽物騒動起こし世間を賑あわせたことにも一章を割いて書いています。
阿佐ヶ谷の瑞穂の敷地内には親戚3所帯が住んでいて、瑞穂の住まいは戦後まもなくから「阿佐ヶ谷会」と呼ばれる文士仲間の社交場であったようです。井伏鱒二や太宰治も常連で名だたる文士が集まっていた。
瑞穂は友人の導きで萩原朔太郎を知る。後に堀口大学(家庭での通用語がフランス語と言う恵まれた環境に育った)に生涯を通じて師事し、自らも詩を創作し翻訳も手がけていた。当時、翻訳は小説家に比べ、みすぎよすぎの手段と低く見られていたようです。
76ページにささやかな日本発掘、の本の装丁についてのエピソードが短く記されていまた。、、担当編集者の片岡久によれば、森鴎外が老母のためを思って作ったという「即興詩人」初版本にヒントを得た造本で、文字が大きく余白の少ないノート・スタイル、緑色のクロース表紙である。、、、とあった。(思わず手元の本を確認しました、特に愛着はわかないが…丁寧に作られている本である事はよくわかる。本の装丁が話題になる時代は、とうに終わっていますね)
骨董の手引きは友人の蔵原伸ニ郎。後に民芸運動を提唱した柳宗悦にも私淑していたそうです。また妻とよ、の兄、山本気太郎は瑞穂の良き理解者であるとともに、骨董品買いの隠れたスポンサーともなった。94ページ。
高いものは山本家に出資してもらう。安いものは自分で買って、後に高い値段で売る。この事実の一端を見るだけでも、コレクターとしての瑞穂がいかにメルヘンの王子様的レベルの幸運に恵まれていたか、分かろうと言うものである。98ページから99ページ
太宰治がしきりに自殺を口にしたため、生きている間に早く出してやらねば、との意識が働いたのだと言う、骨を折ったのは壇一雄である、なんてエピソードが107ページ
昭和13年に国家総動員法が公布された中での文士たちのある意味ほのぼのとした交流が不思議な感じがします(個人個人と社会の動勢との乖離はどこでも起きるものですね) 119ページ
戦後の昭和23年4月に瑞穂は妻の、とよを失います。青酸カリによる自殺と書いてありました。残されたとよの手記によれば戦中はもちろん戦後も飯炊きと家計のやりくりに追われる毎日で戦後の奇跡的な復興を見る前の自殺だったことが悲しい。138ページ。
この本の半ばまで読めば「あの本」が都合良く美しくまとめられたいいとこ取りの骨董の凝り性の散文詩のようなものだと思えてきます。事情通もそのような位置づけでは無いのかなあと思いました。翻訳のほうも勤勉と言うわけにはいかずこの頃のフランス語の語学力のほうも難ありだったと分かります。割を食ったのは妻とよ。瑞穂の師匠格の堀口大学も骨董蒐集を諫めていたがミイラ取りがミイラになって瑞穂を師匠と呼ぶようになったとか…第二次大戦中の国の命運不安定の中、男の身勝手とばかりは言えない気を確かに保つための行状に付き合わざるを得ない妻の立場、辛くて重くてやり切れなし、です。
戦後は海外文学ブームに瑞穂も息を吹き返した。ルソーを訳出しているときに「ルソーが乗り移り」人が変わった(気がふれた?)と本人も言うほどのエピソードが綴られていました。翻訳ってそんなこともあるんだなぁ。こんな夫に仕える妻の気持ちってどんなだろう。印税が入りつかの間の食生活のぜいたく三昧長くは続かず「苦労の種」ばかりが撒かれる始末、文筆業、因果な商売ですね。それでも正業のルソーの翻訳類が書評で評判をとり、、、とよはどんなにうれしかったことだろう。、、、と165ページに書いてあり、ほっとしましたがその後の夫の華々しい活躍は見ずに終わったことが悲しいですね。妻亡き後のぽっかりと空いた胸の内を小説に仕立て、「夜の抜穽」(抜穽→ぬけあな)として発表しています。文筆業の業の深さ…恐ろしいほどです。身勝手。
夜の抜穽、、、についていづみこは…奔放な想像力を持ち合わせず、しかし私小説には馴染めなかった瑞穂は、妻の姿をテーマに登場人物と事件について精一杯の象徴化、メタモルフォー済を試みたが、不首尾に終わった。「夜の陥穽」は彼の不毛な努力の跡をとどめつつ、なお無残な姿をさらしている。184ページ。(草葉の陰で瑞穂は自分の孫の目の確かさにほくそ笑んでいると思います、、と僕が確信を持って言うために、夜の陥穽、を読むのは瑞穂の、慧眼の孫(瑞穂の子の茂は化学学者でいづみこの父)の意見を信じてスルーします、僕には荷が重い)
散々な言われようの瑞穂の不名誉な行状回復のために、ある雑誌に載った瑞穂の美術評論から引きます。147ページより引用…「日本は文化の良き理解者であり、保存者であった。…中略…しかしこの文化の擁護者はついにその創設者にはならなかった…中略…文化はこの国止まりであって、この国から発足した事は無かった。支那は自国の文化を廃し、或いは国民を塗炭に墜す犠牲を払って、常に新しい文化を生んできた。もちろん、そこには国民性の相違もあろう。しかし新しい文化を建設するためには、前代の文化を犠牲にすることもまた止むを得ない。破壊する力を持つものでなければ、建設することもできまいと思う」(これをあげて、いづみこは瑞穂は評論家になったほうがよかったのではないかと感想を漏らしています)
いずみこはこんな感想を、漏らして、戦中の重苦しい雰囲気の中、骨董に没頭した瑞穂の心中を分析しています、、、
(阿佐ヶ谷会の華々しく活躍する友人たちの中で瑞穂は)
、、、、仲間たちの発する凄まじいエネルギーに恐れをなし、尻尾を巻いて、一番楽な骨董中に逃げ込んでしまったのではないだろうか? 私には、骨董の中から首だけ出して、きょろきょろ外を眺めている彼の姿が、目に見えるような気がする…116ページ。
(今でこそ当時の文士の集まる阿佐ヶ谷会の盛況もいづみこの目には「浅はか」に見えていたようです)
尾形乾山の一連の作陶の内、佐野乾山と呼ばれる作品についてテレビで討論会が開かれるほど大騒ぎになった話は割愛します。真相は籔の中と言うことらしいです(個人的には必要があってこの一章コピーとりました) 239ページに目立たない位の一文があり、いづみこは瑞穂の骨董品に対する態度を評し、、、
「瑞穂は掘り出し物根性の一端を垣間見せている」、、、、と、手厳しい。
瑞穂も骨董品に関していろいろな著作をものして、お金にも換えて、骨董品で遊んで泣き笑い、結局は「日本の焼き物の終着駅」という著作で乾山への決別を告げた、とありました。254ページ。
この本の最終コーナーの4分の1位からいづみこの芸術論みたいなものになって、ここにいたって鈍感な僕はやっと乗せられていたことに気がつく。本の初っ端から「ささやかな日本の発掘」からの引用のオンパレードに強引に持ってかれて…阿佐ヶ谷会の多彩な文士の交流やら小ネタに振り回され、おしまいはいづみこの芸術論を読まされた、、、あざといけど面白かった(あざといというのは…本の構成のことです。この著作、新しい骨太な「私小説」と言う人もきっといるだろうな。だって僕が僕のおばあちゃんと腹を割って話すようなものでしょう? あ、全然違うかもしれない…ハハハ。結局僕は何がわかったかと言うと…骨董品も小説も本物であるとかないとかは二の次三の次…その人にとって良い影響を与えるものはその人にとって大切な本物、これも話の流れとは全然無関係な僕の独り言です。(無茶苦茶な僕の独り言、この本読んで疲れちゃったので自分でブレイクを入れました😌)
いづみこの祖父に対する分析はとても丁寧で、しっかり読み込めば僕にでも理解できる位正確な言葉づかいだと思いました、機会を捉えて実際の演奏も聴いてみたくなりました)
エピソードです、、、かの寺山修司が瑞穂の本邦初の口語訳「マルドロオルの歌」(青磁選書)から多大な影響を受けたといいます。阿佐ヶ谷文士たちの間では何の反応もなかったこの訳書はゾッキ本として新宿の闇市に出回り、思わぬ後継者を見いだすことになる。のちに「マルドロール」の全訳を果たす栗田勇は、詩人や俳優や画家の友人たちと新宿を彷徨中、当時青線と言われた花園界隈の曖昧飲み屋で、この書に出会い、一読して魅せられた。その栗田訳を耽読し、私版「マルドロールの歌」として歌集「田園に死す」を書き、実験映画を製作した寺山修司も、マルドロール体験の発端は青磁新書だったと言う。260ページ。(寺山修司にとっては雑踏の中に見つけた理想の恋人のようではなかったか?なんちゃって)
いづみこは瑞穂のサディズムがマルドロールの訳出に発揮され、妻いじめにも現れていたと断言する、おっと衝撃)
ピアノ弾きの高校3年生になったいづみこと瑞穂の会話を引用します。262ページから、、
瑞穂は、庭の草木にホースで水をまいていた。私は、睡蓮の浮かぶ大きな陶製の鉢のそばにしゃがんで、長いこと瑞穂と話をした。
ピアノを弾く事は再現芸術で、束縛が多くてつまらない、というような話もしたように思う。すると瑞穂は、翻訳に比べたら演奏の方がずっと自由だろう、と言ったものだ。
演奏は、楽譜の解釈にある程度幅があるが、翻訳は、一字一句テキストに忠実でなければならない。原文に合わせて文体を変えていかなければならない、という。、、
264ページから、引きます…的確簡明で平易な文章が一番むずかしい、というのは演奏の場合にも共通する。テキストを尊重しながら、しかもひとつひとつのフレーズがしっとりと露をふくんでいるように演奏するのは、どんなに難しいことだろう。楽曲の深いねらいも、細かな味もわかっていながら、いや、わかりすぎるからこそ、それを音で表現する技術の不足を痛感するというのも、練習を積むほどに我々が体験するジレンマである。
そして、、、当時、骨董陶器の乾山に熱を上げる瑞穂に対し…幼い孫であるいづみこは並べられた骨董陶器の品々の中の好みを聞かれ…インカのほうがいいや、、、と言ったときのことを思い出し…そう言った言葉の意味を、、、こう解釈する、、、→
302ページで…「自分の中に瑞穂と同じ血が流れていることを孫の直感で知っていた私が、本来の自分に戻れ、と(自分のおじいさんである瑞穂に)無言のシグナルを発していたのにちがいない。」
※( )内、付記はぼく。
今日は引用が長くなりましたが内容の雰囲気をお伝えしたくてそうしました。 僕の感想は特にありません。青柳いづみこがこの困難な仕事を仕上げたことについてただただ恐れいっています。
これまた恐れ入りました、遺跡ごと大移動!どなたかこれに対抗するだけの大きなことを言ってみてください😅 作るときは…壊すときのことを考えて作る…と言うのは日本式建築の在来工法の基本だと聞いたことがあります。何百年も先のことを考え、その通りに法隆寺は残った、僕が考えているのはせいぜい10年先…どう変化するかの予想もつきません…恥じ入るばかりです。この間、荒川土手で会った友人が言うことには…というかその奥さんが言うことには…これからの時代、男なんかいらない…と面と向かって言われたそうですが、夫婦あっての年金額の関係上強いことも言えず、辛抱の毎日だと言っていました。それを聞いて納得した僕も僕ですが、男はいらないと言われて気持ちよかったです。多少マゾっ気があるのかもしれません^_^