エカチェリーナ大帝…ある女の肖像 上下巻:ロバート・K・マッシー著 北代美和子訳:白水社2014年8月刊
ゾフィー(ロシア風にソフィア、後のエカチェリーナ)は15歳で、歳もそれほど違わないピョートルと結婚する、ま、貴族社会の政略結婚。話は18世紀から19世紀にかけての当時のヨーロッパ各国の政界地図、領土分捕り合戦、外交を背景として展開していく。
(読み進めながらちらつくのはなぜか…習近平、金正恩、プーチンの閉ざされた側近取り巻き一族郎党の幻影とそれぞれの国民との表面的な関係の二重写しだ。脅したりすかしたり、どちらも(一族郎党と国民)ゆるがせにはできない綱渡り。食わせなきゃならない、生かさぬように、殺さぬように、自らも歴史の汚点と記述されないように、そんなにうまくいくものでしょうか…徳川家康)
エカチェリーナは、女帝エリザヴェータに念願の孫、将来のロシア皇帝を運んだ(産んだと言うよりは装置としての跡継ぎ? エカチェリーナと帝位継承者ピョートル大公との子ではない公然の秘密の愛人との子)
エカチェリーナとピョートルとの夫婦関係が少し見て取れるところを引用します、いきなりページを飛びます…
269 〜270ページ
ヨーロッパでは、注目すべき外交上の変化が起きようとしていた。だが、エカチェリーナとピョートルの結婚生活の閉ざされた小さな世界の内部では、10年間にわたってふたりの人生を特徴づけてきた取り決めと敵意とが続いていた。…中略…
1755年の冬、ピョートルのホルシュタイン兵はほとんど本国に帰され、エカテリーナとピョートルはオラニエンバウムからサンクトペテルブルグにもどって、別々の生活を再開した。街が雪に深くもれ。ネヴァ河が凍りつき、ピョートルの軍隊妄想は屋内に移動。いまその兵隊たちは木や鉛や張り子や蠟で作られた人形だ。幅の狭いテーブルをたくさん、ようやく身体を滑りこませられるくらいにくっつけておき、その上に人形を並べる。紐のついた真鍮の細板が釘でテーブルにとめられ、紐を引くと真鍮の板が振動して、騒音を立てた。ピョートルはエカチェリーナに、この音はマスケット銃の轟音に似ているのだと教えた。この部屋で、ピョートルは毎日、衛兵の交代式を執りおこなった。勤務を終え、テーブルから取り除かれた兵隊たちと入れ替わりに、元気いっぱいのおもちゃの兵隊の分遣隊が見張りの勤務につけられた。…中略…
ある日エカチェリーナがこの部屋にはいると、大きな死んだ鼠が、模型の絞首台にぶら下がっていた。エカチェリーナはぞっとして、鼠がそこにいる理由を尋ねた。ピョートルは説明した。鼠は軍法によれば極刑に値する犯罪で有罪を宣告されたのだ。したがって、絞首刑に処されたのである。鼠の犯罪はテーブル上のボール紙の要塞によじ登り、見張りに立っていた張り子の兵隊二名を食べたことである。ピョートルの犬の1匹が鼠を捕まえた。被告人は軍法会議にかけられ、ただちに絞首刑に処された。いまは見せしめとして、三日間、公衆の目に晒されているのだ。エカチェリーナは話を聞いて、わっと笑い出した。そのあと、詫びを言って、自分は軍法を知らないのだと言い訳した。それでもピョートルはエカちリーナの不まじめな態度に傷つき、不機嫌になった。エカチェリーナは「少なくとも鼠のために公正を期するとすれば、鼠は釈明を求められることなくして、絞首刑に処されたと言うことはできる」と言って、この話を終えている。引用以上。
ポニャトフスキというエカチェリーナの恋人について触れておきます、、政治的スキャンダルを避けるためにこの人物と別れることになり…
322ページ
別れを告げながら、エカチェリーナは涙を流した。ポニャトフスキを相手にして、洗練された教養あるヨーロッパ人からの求愛を経験した。その後、エカチェリーナとポニャトフスキの書翰には早期の再会に対する希望が書き連ねられる。何年もあと、ロシアの女帝となったエカチェリーナは、それまでの人生ほとんどすべての細部を打ち明けたグレゴリー・ポチョムキンに書いている。「ポニャトフスキは1755年から58年の間、愛し、愛されました。この関係は、この関係は、ポニャトフスキが飽きてしまわなければ、永遠に続いたでしょう。ポニャトフスキ出発の日、私はあなたには言葉で言いつくせないほどに悲しみました。人生でこれほど泣いたことはなかったと思います」。実のところ、ポニャトフスキの側が飽きたというエカチェリーナの非難は公平ではない。ふたりのどちらもが、状況は不可能になったことを認識していた。
ポニャトフスキはその後、元愛人のロシア女帝エカチェリーナニ世によってポーランドの王位に就つけられる。何年もあとになってから、ポーランド国王として、回想録のなかにピョートルの短いスケッチを残した。批判的な描写ではあるが、そこには一抹の理解、同情心さえも読み取れる。
自然は大公をただの臆病者、大酒飲み、すべてにおいて滑稽な人物に作った。あるとき、大公は私に心情を吐露し、こう指摘した。「見たまえ。私がいかに不幸かを。プロイセン王の軍隊にはいっていれば、私は自分の能力のかぎりをつくして、王にお仕えしただろう。いまごろは連隊をひとつ手にして、少将、いやもしかしたら中将の地位に就いていたろうし、その自信はある。だが、現実は大違いだ。そのかわりに私はここに連れてこられて、この呪われた国の大公にされてしまった」。そのあと、ロシア国民を、おなじみの低俗な茶化したスタイルで、だがときにはとても愉快に罵った。大公にはある種の機知が欠けてはいなかったからだ。ばかではなかった。だが常軌を逸していた。そして酒を愛していた。それがその哀れな脳みそをなおいっそう混乱させるのに手を貸した。引用以上。
(エカチェッリーナの最初の子パーヴェルは、触れる事はおろか許されたのは遠くから見ることだけで女帝エリザベータに取り上げられた…それは当時としても普通のことではなかったと書いてあります)
242ページ…
エリザヴェータが手に入れたものをエカチェリーナは拒否された。幼いわが子の世話をすることを許されなかった。実のところ、子ともと会うこともめったに許されなかった。最初の微笑、幼い日々の成長と発達を見損った。貴族と上流階級の女性が、子どもの世話を実際にはほとんどせず、その仕事の多くを乳母と召使いに任せた18世紀中葉においても、ほとんどの母親は生まれたばかりの子どもを抱き、愛撫した。エカチェリーナは、最初の子どもの誕生のときに感じた惨めな気持ちを決して忘れなかった。息子と恋人、もっとも身近な人間ふたりが不在だった。ふたりの両方にたまらなく会いたかった。だが、ふたりのどちらもが、エカチェリーナの不在を寂しがってはいなかった。ひとりはその存在を知らず、ひとりは気にかけなかった。…後略…
(ページが前後しますが、エカチェリーナの1754年から55年にかけての読書歴が今後のこの本の展開に重要な意味を持ってくる(著者もそう思ったからこそエカチェリーナのこの読書歴を挿入したと思います、わかりやすい^_^)と思いますので引用します)
243ページ…
エカチェリーナは「憂鬱を克服するだけの力が感じられるまで」ベッドから起きあがったり、部屋を出たりするのを拒否した。1754年から55年にかけての冬のあいだずっと、この狭い小部屋で過ごす。建てつけの悪い窓を、凍りついたネヴァ河から吹きつけるすきま風が通り抜けていった。自分の身を守り、生活を耐えうるものにするために、エカチェリーナはふたたび書物に向かった。その冬は、タキトゥス「年代記」、モンテスキュー「法の精神」、ヴォルテール「諸国民の習俗と精神についての論稿」を読む。
紀元14年の皇帝アウグストゥスの死から、ティベリウス、カリギュラ、クラウディウスの治世を経て68年のネロの死にいるまでのローマ史「年代記」は古代世界の歴史についてのもっとも力強い著作をエカチェリーナに提供した。タキトゥスの主題は、暴君の独裁による自由の抑圧である。タキトゥスは、よきにせよ悪しきにせよ歴史を形成するのは、思想に横たわる過程というよりも、むしろ強い人格であると信じ、簡潔ながらも力強い文体で、人物像をみごとに描き出した。エカチェリーナは、タキトゥスの描くローマ帝国初期の人民、権力、陰謀、腐敗に強い印象を受けた。16世紀後のいま自分自身の生活を取り巻いている人間や事件のなかに、類似するものを見たのである。…中られ略…
モンテスキューはエカチェリーナに、独裁支配の利点と弱点を分析した初期の啓蒙思想を知らしめた。エカチェリーナは、独裁制全体に対する糾弾と、ある特定の一独裁者のおこないのあいだには矛盾が生じ得るというモンテスキューの主張を研究した。そのあと長年にわたって、みずからをモンテスキューが唱道した種類の「共和的魂」の持ち主と考えた。ロシア…そこでは専制君主は自明のこととして独裁者であった…の帝位に到達したあとでさえ、過剰な個人的権力を避け、知性によって効率が導かれるような政府、端的に言えば善意の独裁支配を創造しようとした。のちに「法の精神」は「良識あるすべての君主の聖務日課書であるべきだ」と語っている。
ヴォルテールはエカチェリーナの読書に、明晰さ、機知、そして簡潔な助言を加えた。ヴォルテールは20年にわたって「習俗についての論稿」(全文は「歴史一般についての論稿」として出版された)を執筆し、そこに習慣や風俗ばかりでなく慣習、思想、信念、法も含めた。つまり文明の歴史を書こうとしていたのである。ヴォルテールは歴史を、無知から知へいたる人類の集団的努力による緩慢な前進と見なした。この連続のなかに神の役割を見ることはできなかった。宗教ではなく、理性が世界を統治すべきである、とヴォルテールは言った。だが、ある一部の人間が地上における理性の代表として行動しなければならない。このことはヴォルテールを独裁制の役割に、そして…もしその政府が合理的であれば…独裁政府が実際にあり得る最良の種類の政府だろうという結論に導いた。だが、合理的であるためには、啓蒙されていなければならない。啓蒙されていれば、政府は効率的であり、同時に善意であるだろう。
サンクトペテルブルグで産褥から回復しつつある若く傷つきやすい女性は、この哲学を理解するために努力しなければならなかった。だが、ヴォルテールは笑わせることで、その努力を軽いものにした。エカチェリーナは同時代人の多くと同様に、ヴォルテールに魅了された。ヴォルテールを宗教的寛容の使徒とした、その人道主義的な思想を称讃した。しかしまた、ヴォルテールがあらゆるところに見出したもったいぶりと愚かさに対する、反宗教的で不しつけな酷評も愛した。そこには、エカチェリーナにいかにして生き延び、笑うかを、そしていかにして統治するかを教えるひとりの哲学者がいた。引用以上。
これからのエカチェリーナがロシアに君臨していく展開は、少し間をおいてから書いて参ります。ここまで書けば…読み捨てにはできない、あはは。
次回に続く。明日も早い…いっぱい飲んで寝ます。
啓蒙君主としてはこのエカテリーナ女帝と並んで、わがドイツ(プロイセン)のフリードリッヒ大王、オーストリア大公(女なので神聖ローマ帝国の皇帝にはなれず、養子のヨーゼフが皇位に就く)のマリア・テレジアが有名ですね。みんなヴォルテールの薫陶よろしきを得た同窓生です。
マリア・テレジアとフリードリヒ大王とは宿敵で、さんざん喧嘩したあと7年戦争が起きますが、そのときは当時のロシア女帝エリザベータとマリア・テレジアがフリードリッヒを敵として組み、さらに欧州の多くの国の君主を味方につけて兵力はドイツの20倍に膨らんだため、フリードリッヒ(ドイツでは今もフリッツ爺さんと呼ばれている)は絶体絶命、自殺の準備を始めます。
ところがそこでエリザベータが急死し、後継者のピョートル3世は当時まだエカテリーナの尻には敷かれておらず、前々からフリッツ爺さんの大ファンだったのでオーストリアに背いて、おお、何という幸運でしょう、プロイセンは勝ってしまった。ドイツ国民からみれば、ピョートル3世は恩人なんです。みんな馬鹿にするけどね。