そしてワシントン・アーヴィングは伝説になった…アメリカ・ロマン派の栄光:齋藤昇著:彩流社2017年5月初版
(ちょっと前に見たアメリカ文学史でこの有名な作家…(僕は知りませんでした、僕位ものを知らないとこんなことぐらい何とも思いません、あはは)を知りました)
読み始めてすぐ若きアーヴィングはマティルダという恋人を結核でなくし、法律家の勉学を断念し執筆業に入る(端折って書いています、端折りすぎ😅)
74〜 75ページ
アーヴィングは「スケッチ・ブック」の成功で、ひとまず経済的な窮地を脱したかに思われたが、現実にはかなり逼迫した状態が続いていたようである。その主要な理由は、兄ピーターの投機癖と、これに安易に同調したアーヴィング自身の性格が影響したと言えるだろう。先に(P&Eアーヴィング商会)が倒産したのも、ピーターが値上がりを見込んで大量の贅沢品を買い込んだことが一因であったと言われる。しかし、それにも懲りずに、財政的安定の見通しを得てパリに到着すると、ピーターはすぐにセーヌ川の舟運事業に手を出したのである。そのため「スケッチ・ブック」の刊行により英米両国の出版社から受け取った金は、ほとんどがその事業への投資で消えてしまったのだ。それもともかく、マリー(※出版業者)はアーヴィングの要請に応じて1500ギニーを支払い、1824年8月にようやく「旅人の物語」は刊行される運びとなった。その出版に手間取ったのは、原稿の完成が遅れたことにもよるが、4月半ばに詩人バイロンが他界したために、マリーが出版事業で多忙を極めたことなどが大きく影響したと思われる。出版前に一時、イギリスに戻っていたアーヴィングは再びパリに移った。引用以上。(娑婆臭いあれこれに引きずられるアーヴィングの人間性が面白いと思いました)
上のパラグラフで触れられている「旅人の物語」は散々な結果となる… 75 〜76ページ
…中略…
こうした曲折を経て出版されたにもかかわらず、「旅人の物語」に対する批判は実に手厳しく、アーヴィングの心を打ちのめすのに十分であった。特に攻撃されたのは「勇敢なドラゴン」および「若い盗賊」で(下品) (indecent)、(好色) (amorous )という言葉で非難され、ついに「もし、このアメリカの作家が新しい分野に方向を転じなければ、彼の高い名声は失われるだろう」とまで言い放たれた。アメリカ国内の批判も同様で、「彼は紛れもなく非アメリカ的な作家である」との論評さえあらわれた。この年の12月、失意のどん底にあったアーヴィングはロンドンの友人が画家レスリーに次のように書き送っている。
私はイギリスの文学界で孤立している。1人の作家が、その人気を維持し、しかもそれを増大させるような援助や支持は何一つない。激励してくれる仲間も、後押ししてくれる評論家もいない。しかも出版社の意見自体が、なんでもアメリカ的なものに敵意を持っているのだからどうにも始末が悪い。私には一般読者の正しい判断と行為にしか頼る術がない。そして、彼らがどのくらい長く外国の人の書いたものを気に入り続けるか、また、どれほど俊敏に新聞に書かれた無責任な記事によって偏見を持つようになるか全く見当がつかない。
(この後紆余曲折を経てアーヴィングとイギリス出版社のマリーとは決裂する)
94ページ…「アルハンブラ物語」…
アーヴィングの全作品集で「スケッチ・ブック」と並んで、世界で今日なお最も広く読まれている作品は、疑いもなく「アルハンブラ物語」であろう。これはスケッチ風の紀行と伝承に基づく民話風の物語を文学的にコラボレーションした作品である。アルハンブラ宮殿はアーヴィングにとって、まさに最高の文学的な素材であり、この物語はその豊かな識見と手腕が遺憾なく発揮された作品であると言える。現在もその人気が衰えていないことは、「スペインのどこへ行っても、この新しく刷ったこの本を見かける。英語版やスペイン語版のほか、日本語、フランス語、ドイツ語、イタリア語版なども、いたるところで販売されている。書店や新聞売り場、特に大都市の駅、空港、ホテルには、必ず紙表紙の廉価版が置かれており、当然のことだがグラナダではとびきり美しい装丁で、豪華なカラー写真入りのものも多い」と、著名なアーヴィン研究家の1人であるアンドリュー・B・マイヤーズが雄弁に語っている。引用以上。
(アーヴィング…の作品が日本にどのような影響を及ぼしたかについて、簡単に(といっても以下のように少し長いですがご覧ください)紹介されていたので2カ所、引用いたします(もちろん、ぼくもそのうち…というか近いうち「スケッチ・ブック」読むといたします、手元にも昨日図書館からリクエストしたものが届いています))
138 〜139ページ…
アーヴィング作品の人気が時代の進行とともに下向した原因が彼の人生傍観者的な作風にあったことは、佐渡谷重信著「日本近代文学の成立…アメリカ文学受容の比較文学研究(上)」(明治書院)をはじめ、これまで複数の批評家たちによって指摘されており、日本においてもこの点に関する見解は一様であった。アーヴィング文学が日本に紹介されてから、およそ20年を経過した明治42年に刊行された島村抱月編「文芸百科全書」(隆文館)において、アメリカ文学の部門を担当した楠山正雄の次の記述は、当時すでにアメリカ文学に関するかなり客観的な評価が行われていた状況を示すものとして極めて興味深いものである。なお、次の文は幾分、現代語に直して表記した。
アーヸングの詩想の源は、内より湧かずして、一々外国の事物に触れて起こる。その一生の作は、通じて多年遭逢の記録たる観あるものがある。オランダ植民よりイギリスの田舎、スペインの古王宮より西武アメリカの平原と、嘱目の境を異にするに従って、その昔は異なった色を着けていく。畢竟アーヸングは一種のゲレッタント(好事家)である。百般人事世相の悲しむべく、笑うべきことをすべて好奇の心をもってこれを観察し、その美所を醜所と併せて、善意同情をもってこれを観る。好んで歴史や伝記を作ったのも、もっぱらその事件人物の戯曲的興味に動かされ、題材の上にロマンチックな風趣があるのを棄て難く、これを紙上に躍らして楽しむばかりである。もちろん深透な洞察力、博大な同情という如きものを、アーヸイングに求むるのは誤っている。ただそれ善良な諧謔好きな涙脆くて多少女性的な性情がおのずからに流露したアーヸングの文章には。何とも言えぬ快い人を引くきつける調子があって、常に多少の興趣をもって読まれるべきものである。
所詮、アーヸィングは遺伝の趣味、本来の性情において、未だアメリカ化せられぬ英人である。その文は直ちにアヂソン、スチールの脈を継いで、それ以外ほとんど新世界の文学という特殊の色相を帯びていない。秋の夕日のような沈んだ色彩、平静な瞑想的な調子、未来に対する大なる熱情なくして、ただうつらうつらと過去の夢に憧れる。これがアーヸングの文芸の境界である。もしそれアメリカという若い国の奔放な気力、疎大ながらに生命の籠った理想を伝うる男性的の味は、目まぐるしい新世界の粉々擾々裡にあって、静かに昔の夢物語にふけるアーヸングに求むべからずして、次のクーパァを俟ねばならなかった。引用以上。
144ページ…日本文壇への影響…
次にアーヴィングの文学が日本の一般社会にもいかに浸透し、近現代の文壇にどのような影響を与えたかについて考えてみたい。アメリカ文学最初期の国際的文人とも言うべきアーヴィングの文学を通じて、広く日本の読者層が新世界の文学作品に接したことの意義は没し得えないし、またわが国の英語教育にアーヴィング文学が及ぼした有形無形の影響力が、決して小さなものでなかったのも事実であろう。しかし、こうした社会的、文学的影響を具体的に指摘し、また測定することは容易ではない。ましてアーヴィングのように、強烈な個性の旗幟を掲げない作家の場合、それはなおさら困難である。たとえば、どれほどの読者がアーヴィング作品の牧歌的な叙情性によって自己の詩情が満たされたと感じ、またそこはかとないユーモアに心地よく共鳴した知る由もないし、どれほどの作家たちがアーヴィング作品から啓示を自らの文学活動の糧としたかを推測することも容易ではない。アーヴィング文学の大きな特色の一つとされる短編あるいは掌編小説形式に関しては、ひとまず高い評価は受けているが、どの作家のどの作品がアーヴィングにより触発された結晶であるかは、にわかに決め難いものがある。とはいえ、わが国の文壇で活躍した作家でその発想や形式の類似から推測して、後述するようにアーヴィング文学の影響を想像させるものは少なくない…以下略…引用以上。
(と言うわけでこれ以下森鴎外はじめ錚々たる文壇の有名人がその作品に影響受け、それぞれの作品に反映されているという類推がなされていました)
アーヴィングは名前だけ知っていますが、作品に関しては「スケッチブック」しか聞いたことがない。今回、そんな昔の人と知って意外でした。20世紀の人と思っていたから。ロンドンとかパリとか出てくるから、1920年頃に多かったフィッツジェラルド世代かと思っていたのですが。そうか、だからバイロンも登場するのか。
兄さんの口車に乗って商売に手を出して失敗、こういう経歴はもう大変ですよね。かの有名な赤十字の父アンリ・デュナンも企業家になろうとしてスッカラカンになり、以降は借金取りから欧州中を逃げ回る生活だったというし。